冒頭の田中による“中曽根首相評”は、こうした経緯の中での発言ということである。それからわずか3カ月ほどの昭和60年2月27日、田中は政界復帰が絶望視される脳梗塞に倒れたのだった。
その後の中曽根政権は、田中という“重し”が外れたことで、第1次内閣時に掲げた内政、外交の「戦後政治の総決算」へ邁進することになる。
田中角栄と中曽根康弘は、共に昭和22年4月、戦後2回目の総選挙で当選した。いわば同期生である。
しかし、叩き上げ人生から政界入りを果たし、「保守本流」として戦後復興へ向けて、道路、住宅など議員立法の成立に全力を挙げる田中と、海軍のエリート官僚から政界入りした後は、弱小派閥の領袖として天下取りに「政界遊よく史」を刻んできた中曽根は、どこか相入れぬ部分があったようだ。
もとより、田中の中曽根に対する厳しい目があったということで、例えば、田中は首相として絶頂期を迎えた頃、中曽根をこうも評したものである。
「中曽根は良質の株だ。ただし、上場株にあらず」
「中曽根というのは、遠目の富士山だ。近づけば瓦礫の山」
田中は、中曽根のパフォーマンス多き「体質」には、かなり批判的であった。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。