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2002年日韓ワールドカップのラウンド16、トルコ戦。ウミト・ダバラのゴールで1点をリードされた日本にとって、最大の決定機となったのが、三都主の42分の直接FKだ。
「狙い通りでした。ただ、結構スピードがあって速かった分、落ちなかった」
本人が述懐する強烈シュートは左クロスバーを直撃。惜しくもゴールには至らなかった。大会4試合目にして初先発を飾った背番号14は、そのまま前半の45分間でピッチを去り、日本は0−1で敗戦。ベスト16で姿を消した。
「あのFKを決めていたら、その後の人生がどうなっていたか分からなかった。でも、それも人生。神様が示した道です」と三都主は毅然と前を向いた。むしろ、日本国籍取得から半年あまりで憧れのW杯に参戦できたことを前向きに捉えたという。
16歳だった93年に来日し、97年から清水エスパルスでJリーガー人生をスタートさせた三都主が、日本のパスポートを手に入れたのは2001年11月だった。大の日本好きで、99年にJリーグMVPを獲得したこともあり、「日本に恩返ししたい」という思いを込めて、帰化に踏み切ったという。
94年アメリカW杯で頂点に立った母国ブラジル代表の戦いぶりを脳裏に焼き付けていたこともあり、彼にとってW杯は夢のまた夢だった。ドゥンガ、レオナルド、ジョルジーニョらが同時期にJリーグにいたこともあって「自分がW杯に出られるなんて考えたこともなかった」というが、日本国籍取得によってその道が見えてきたのは間違いなかった。
「でも当時の日本代表はフィリップ・トルシエ監督が4年がかりで作ったチーム。同じ左サイドのポジションには、(小野)伸二や(中村)俊輔、ハットさん(服部年宏)がいました。(中田)浩二も前目の位置に入ることがあり、正直、難しいかなという気持ちもありました」と彼は率直な思いを明かす。
それでも、2002年1月に鹿児島の指宿で行なわれた代表合宿に初招集された際には、持ち前の社交性と明るさでグイグイとグループに入り込んでいった。森岡隆三、戸田和幸、市川大祐という清水の力強いチームメイトがいたことも追い風になったという。
「僕は“バカキャラ”(笑)なので、年上も年下も特に関係なく、みんなとピッチ内外で気軽に話をしたし、要求もしました。ちょっと強く言っても、ゴンさん(中山雅史)やアキさん(西澤明訓)ら先輩たちは全く気にしてなかった。正直、初合宿なのに、1年くらいずっとチームに呼ばれているような感覚でやれましたね。自分は初めての場でもどんどん溶け込んでいける性格だったのがよかったのかな。シャイな人間だったら難しかったかもしれないですね」
三都主はオープンマインドの強みを改めて口にした。
トルシエがグループの一体感や協調性を何よりも重んじる指揮官だったこともプラス要素だったと言える。「ワールドカップで勝とうと思うなら、スタメンから出る選手、途中から出る選手、出ない選手の全員が常にそれぞれの役割をこなし、一致団結していなければいけない」とこの頃、よく口癖のように言っていた。
そういった観点で見ると、どんな時もアッケラカンとして動じない三都主の人間性はチームに最適。どんな役割を託されたとしても、文句を言うことなく献身的にこなしてくれる。そんな人間性が買われたのは間違いないだろう。