第2次世界大戦で命を奪われたユダヤ人は570万人にも上る。その多くはナチ体制の「絶滅政策」によって犠牲となった。ヒトラーはいかにして大量殺戮を行ったのか。ドイツ・フライブルク大学名誉教授のウルリヒ・ヘルベルト氏による最新研究を紹介する--。

※本稿は、ウルリヒ・ヘルベルト著、小野寺拓也訳『第三帝国 ある独裁の歴史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

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■開戦後、ユダヤ人のドイツ出国は絶望的に

ナチ体制の指導部はすでに1930年代半ばから、ドイツ・ユダヤ人をどのように片付けるかについて考慮していた。指導部は次々と急進化していく方法によって彼らの出国を強要しようとしていたが、一方で彼らの財産も重要であった。事実、ドイツとオーストリアのユダヤ人のごく一部しか、他国へと出国する機会を見つけられなかった。

戦争が始まると、出国はほとんど絶望的となった。しかしドイツの征服政策によって、ドイツの支配地域にいるユダヤ人の数は1941年夏までに何倍にも膨れ上がり、300万人以上へと増加していた。一方ドイツの行政機関は、ドイツが支配するヨーロッパでの、すべてのユダヤ人を含むかたちでの「ユダヤ人問題の解決」を模索し始めた。

■「無駄飯食い」として女性と子どもも標的にされた

大量射殺が最初の頂点を迎えたのは、7月7日、ビアウィストクにおいてであり、ここではリューベック出身のある警察大隊が3000人のユダヤ人男性を殺害した。ここでは依然として、ユダヤ人とボリシェヴィズムが結びついているという思考が重視されていた。

ヒムラーが1941年7月末に東部戦線を訪問してから、ソ連における殺害計画の対象は拡大され、今や「女性と子どもも」殺害されるようになった。(※1)この殺戮の主たる根拠として強調されるようになったのは、もはや政治的な理由だけではなく、食糧不足や労働可能性であった。「無駄飯食い」に長期間食糧が与えられるべきではなく、労働不能者を無理やり引きずって連れていくべきでもなかった。

今やその地域全体のユダヤ人が、具体的な根拠があろうとなかろうと完全に殺害されるようになったのであり、そのような事態は初めてのことであったのだ。

※1 Funkspruch SS-Kavallerie Regiment 2, 1.8.1941. 以下に引用されている。Johannes Hürter: Hitlers Heerführer. Die deutschen Oberbefehlshaber im Krieg gegen die Sowjetunion 1941/42, München 2007, S. 558.

■服を脱ぎ、峡谷のふちに整列させられ…

同盟国であるハンガリーの部隊が、北部ハンガリーのユダヤ人をドイツが占領しているウクライナへと追放し始めると、多くの親衛隊・警察部隊が国境の地カメネツ=ポドルスク〔カームヤネツィ=ポジーリシクィイ〕にやってきて、8月末には3日間で2万3600人のユダヤ人を射殺した。ここではすでに、選択的な殺害政策から組織的な大量殺戮への移行が完全に生じている。

ウクライナの首都キエフでは、撤退する赤軍が残していった多くの爆弾が9月末に爆発した。それによって街の大部分が炎に包まれ、多くのドイツ兵が殺された。いつものように、ウクライナ住民のうち、ドイツに協力する用意がある人びとは、ユダヤ人にこの攻撃の責任があるとした。

それにたいして第六軍の司令官は、大規模な「報復措置」を開始する。この街に住むすべてのユダヤ人が、9月29日の朝、街のある広場に出頭させられた。その後彼らは、街の外れにあるバビ・ヤールという名の峡谷へ連れていかれた。そこで、彼らは服を脱ぐことを強いられ、集団で峡谷のふちに整列させられ、特別部隊(ゾンダーコマンド)の隊員によって射殺された。1941年9月29日と30日の2日間で、3万3771人のユダヤ人がこのようにして殺害されている。

■「ガス室」建設を決めたドイツ指導部の事情

ドイツ指導部にとってとりわけ重要だったのは、東部戦線での損害の急速な増加であった。そうした状況が目の前にある以上、ドイツの支配地域にいるユダヤ人を、かつて想定されていたようにシベリアへと連行して、そこで彼らが死ぬのを待つのではなく、その場でただちに彼らを殺してしまっても、ドイツ指導部にとっては、もはや重大な問題ではなかったのだ。

ただ、ソ連で行われていたような大量射殺は、ドイツの支配地域にいるユダヤ人の数の多さを考慮すれば適切なやり方とは言えなかった。こうした手法は、殺害部隊のメンバーたちの深刻な精神的負担となっているという批判の声が、ますます強くなっていたからだ。

そのためドイツ指導部では、ドイツ国内で障礙(しょうがい)者殺害のために使われていた別の手法を用いることが決定された。11月初頭には、短時間で多くの人間を殺害することができる、常設の絶滅施設の建設が始まった。最初の絶滅施設は、ルブリン近郊のベウジェツに建設され、そこにT4作戦の専門家たちがやってきた。彼らは「安楽死」計画の中止後、「東部出動」のためにやってきたのだった。さらなる絶滅施設がウーチ近郊のヘウムノ(クルムホフ)につくられた。この2か所でユダヤ人は、T4作戦の手法、つまりガスによって殺されることになっていた。

■「紛争を起こした張本人は、命をもって贖わなければならない」

12月12日、アメリカが参戦した翌日に、ヒトラーはナチ党の全国指導者や大管区指導者たちを前に次のように語っているが、ゲッベルスも書き留めているように、その趣旨はいつになく明確なものであった。

「ユダヤ人問題に関して総統は、ユダヤ人問題を片付けることを決断した。彼はユダヤ人にたいして、もし彼らが再び世界大戦を引き起こすことがあれば、彼らはそのさいみずからの絶滅を体験することになるだろうと予告した。これは空言ではない。世界大戦は起こったのであり、ユダヤ人の絶滅は、必然的な帰結でなければならない。この問題については、あらゆる情緒とは無縁に考えなければならない。
我々はそのさいユダヤ人に同情するのではなく、ただ我々のドイツ民族に同情しなければならない。もしドイツ民族が今ふたたび東部の戦場で16万人の犠牲を払ったのであれば、この血まみれの紛争を引き起こした張本人は、みずからの命をもってそれを贖《あがな》わなければならない」。(※2)

※2 Joseph Goebbels: Eintrag vom 13.12.1941, in: ders., Die Tagebücher von Joseph Goebbels, hg. v. Elke Fröhlich, 32 Bde., München 1993-2008, Teil II, Bd. 2, S. 498 f.

■「絶滅政策」ヴァンゼー会議を開いた3つの目的

ユダヤ人の命運について決定的な決断がなされた時期は、1941年10月末から11月末までのあいだだと断言できる。この時期の終わり頃にあたる11月29日、保安警察と保安部が所属していた国家保安本部の「ユダヤ人問題」担当官はハイドリヒの命令を受けて、この問題に関与していたすべての国家当局に、12月9日に調整のための会議を開くことを通知した。この会議はアメリカの参戦のため6週間延期され、1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔の邸宅で開催された。

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その目的は、主に3つあった。一つは、参加した関係機関に以下のような新方針を説明し、そのために必要となる措置について調整する必要があった。つまり、ポーランドおよび西欧のユダヤ人は戦後ではなく、直ちに移送を開始すること、しかもその目的地は北部ロシアではなく、総督府に新たに造られた絶滅施設であること。

第二に、この件は国家保安本部が指揮監督を行うことについて、ほかの国家当局に確認する意図があった。そして第三に、すでに長いあいだ議論されてきた「2分の1ユダヤ人」(※3)や、いわゆる混合婚として生活しているドイツ・ユダヤ人の問題も、会議で明確にすることとされた。

※3 〔訳註〕祖父母四人のうち二人がユダヤ教徒である人をさす。

■強制労働に耐えても殺される運命

この構想では、ユダヤ人を労働動員の対象とすることが重要な役割を果たしていた。会議の議事録には、次のようにある。

「管轄する機関による管理運営のもと、今や最終解決の実施でユダヤ人は、適切な方法によって東部で労働動員に投入されることとなる。労働可能なユダヤ人は、大規模な労働部隊に編成されて、男女ごとにこの地域で道路建設工事に動員される。そのさい、その大部分は間違いなく自然減少によって脱落することになる。
場合によっては最後まで残るかもしれない部分〔ユダヤ人〕には、この場合間違いなくもっとも抵抗力のある部分なのであるから、適切な処置がなされなければならない。この部分は、自然による淘汰を経て〔生き延びて〕きたのであり、これを野放しにすれば、新たなユダヤ人社会建設の出発点となるものと見なされるからである」。(※4)

※4 Protokoll der Wannseekonferenz. 以下などに載っている。Mark Roseman: Die Wannsee-Konferenz. Wie die NS-Bürokratie den Holocaust organisierte, Berlin, München 2002, S. 170-184.〔ヴァンゼー会議記念館編著、山根徹也・清水雅大訳『資料を見て考えるホロコーストの歴史─ヴァンゼー会議とナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策』、春風社、2015年、150─153頁を参考にした〕

要するに、「労働動員」は殺戮を偽装するための概念ではなかった。事実、労働可能なユダヤ人を強制労働させる計画は存在した。だが、そのなかでもっとも体力のあるユダヤ人が辛労を耐え抜いた場合には、同様に殺害されることとなっていたのだ。つまり労働動員は、死へのう回路に過ぎなかった。

1942年3月中旬から7月中旬までの移送第1波では、約11万人のユダヤ人が犠牲となった。1942年7月19日には、年末までにすべての総督府に住むユダヤ人を殺害せよ、というヒムラーの命令が下る。(※5)これに基づいて、あらゆるポーランド・ユダヤ人の組織的殺害が始まった。300万人以上いたポーランド・ユダヤ人のうち、終戦まで生き延びたものは10万人に満たない。

※5 Himmler am 19.7.1942, VEJ, Bd. 9, Dok. 96.

■多くのユダヤ人がアウシュヴィッツへ

西欧諸国のユダヤ人は、1942年初頭以降、つぎつぎと通過収容所へと送られ、そこで彼らは東部への移送を待たなければならなかった。1942年6月22日、パリ近郊の通過収容所ドランシーから最初の列車が、1942年6月25日にはさらなる列車が東部に向けて出発した。オランダでは最初の列車が、1942年7月15日、ヴェステルボルク収容所を出発した。ベルギーでは1942年8月4日、最初の移送がメヘレンから東部、正確にはアウシュヴィッツへと行われている。ポーランドのアウシュヴィッツは東部オーバーシュレージエンの都市で、強制収容所に絶滅施設が附設されていた。

この地へ向けて移送されたユダヤ人のほとんどは、中欧・西欧出身であった。すでに1942年初頭、東部オーバーシュレージエンとスロヴァキアからの最初の移送が、ここに到着している。夏にはドイツとオーストリア、さらには西欧諸国、ルーマニア、ノルウェー、クロアチアからの移送が始まった。のちには、ブルガリア、ハンガリー、ギリシアからの移送もこれに加わっている。

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■約570万人のほか、「ジプシー」も犠牲に

降車場に降り立つやいなや、到着したユダヤ人は労働可能かどうかを判定された。労働可能と判断された者はその後収容所へと送られ、強制労働させられた。だが多く(ほとんどの女性、老人全員、子ども全員)はただちにガス室へと送られ、そこで殺されたのだ。1943年末までに、ここで約84万人のユダヤ人が殺害された。

ウルリヒ・ヘルベルト著、小野寺拓也訳『第三帝国 ある独裁の歴史』(角川新書)

戦争中、暴力的に命を奪われたユダヤ人は、合計すると約570万人に達する。第2次世界大戦中のドイツによる絶滅政策の全体像を、正確に見通すことは依然として不可能である。

570万人のユダヤ人に加え、約20万人のシンティ・ロマ(「ジプシー」)、少なくとも100万人に及ぶ非ユダヤ系のポーランド人民間人、約280万人のソ連兵捕虜、約300万ないし400万人のソ連民間人、そして約50万人のドイツ占領地域およびドイツ本国における、それ以外の非ユダヤ系民間人が犠牲となった。つまり、合計すると、おおよそ1200万ないし1400万人の民間人が、戦闘行動以外でドイツの支配地域で命を落としたことになる。

 

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ウルリヒ・ヘルベルトフライブルク大学名誉教授
1951年生まれ。歴史学、ドイツ学、民俗学を修めた後、エッセン大学、ハーゲン通信大学、テル・アヴィヴ大学、ナチズム史研究所所長を経て、1995年から2019年まで、フライブルク大学近現代史講座教授。現在、フライブルク大学名誉教授。専門はドイツ近現代史、とくにナチズム研究。著書に『外国人労働者 第三帝国の戦時経済における「外国人動員」の政策と実践』(1985年)、『ベスト 急進主義、世界観、理性に関する伝記的研究』(1996年)、『20世紀ドイツの歴史』(2014年、いずれも未邦訳)など多数。ドイツ国内でもっとも顕著な業績を挙げた研究者に与えられるゴットフリート ヴィルヘルム ライプニッツ賞を、1999年に受賞している。
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(フライブルク大学名誉教授 ウルリヒ・ヘルベルト)