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韓国のポータルサイトネイバーから「(単独)古代日本の権力層の墓の装飾品、首都圏で初めて発見」という記事を翻訳してご紹介。

(単独)古代日本の権力層の墓の装飾品、首都圏で初めて発見
2024.03.07|9:29

漢城百済時代のソウル地域に古代日本人居住の可能性
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城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄物層から出た5世紀の日本の古墳装飾品埴輪の破片。突出した帯を巻いていたり、表面に一定の間隔で線を引いた特有の仕上げ跡が明確に現れる典型的な埴輪円筒形土器の彫刻であることが判明した。大韓文化財研究院提供

1500年余り前に、日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していたという事実が明らかになった。最近、彼らが墓に使う葬儀用品として使用されたと推定される日本の特産土器が相次いで確認されたためだ。

地中の文化遺産を発掘し、調査する機関である大韓文化財研究院は6日、漢城(現ソウル市)に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の京畿道城南市福亭洞にある官営土器窯関連遺跡から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。

埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。
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日本の古墳装飾品の埴輪彫刻の一部を間近で見た様子。外壁の表面を突出した帯を囲み、一定の間隔で細い線を引いた仕上げの痕跡跡がはっきりと見える。大韓文化財研究院提供

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日本の職人たちが作った埴輪が出土した城南市福亭洞霊長山の麓の百済土器窯遺跡。当時百済王室が運営していた官営工房施設の一部と推定されるところだ。埴輪はこの遺跡の廃棄物層の中から他の百済土器と入り混じった状態で発見された。大韓文化財研究院提供

この遺跡は福井洞393番地霊長山の麓一帯7798㎡の面積で確認された。百済時代に国で運営したと見られる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済の王城跡として有力な風納土城や夢村土城からわずか4~5kmの距離なので王室が管掌しながら物品を調達する官営工房施設の一部と推定してきたところだ。

関心が集中した埴輪の彫刻は2022年遺跡の廃棄物層から煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点余りと共に混ざって出てきた。突出した帯を付けて巻いていたり、外部の器壁の表面に一定の間隔で線を引いた特有の掻く仕上げの痕跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりと現れる埴輪円形土器の彫刻であることが判明した。

大きさが15~20㎝に達する埴輪の彫刻は一部分円形の穴が開いた円筒形の形で、一部の彫刻は帯が上下に巻かれたり、このような石柱の跡が残ったまま見える。彫刻の下側である底部は古墳の墳丘の地層につく部位なので、別で手入れせずに上の方だけ手入れした底部も見える。独特の引っ掻き模様の跡も発見された彫刻のほとんどで観察される。

大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入ってきて百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と見られる」とし「墓の装飾物である埴輪作品の実体が首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは事実上初めて」と話した。2000年代初め、百済王城跡として有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片の大きさの埴輪の破片が3点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土情況が明確ではなく、大きな注目を集めることはできなかった。

韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚いている様子だ。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、今日のソウル松坡区、江東区、城南一帯にあたる旧漢城地域で1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを知らせる明確な根拠が出たと評価されるためだ。
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百済窯遺跡の廃棄物層から日本製埴輪の破片が出土している様子。大韓文化財研究院提供

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日本の古墳の装飾品の埴輪の破片の一部を間近で見た様子。外壁表面に突出した帯の跡と一定の間隔で細い線を引いた仕上げ手入れの跡が明確に見える。大韓文化財研究院提供

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日本の古墳時代の長鼓型の墓(前方後円墳)である神戸の五色塚古墳。墳丘の頂上と下側の部分に円筒形の装飾土器埴輪が列をなして復元された姿が見える。神戸公式観光サイト

特に埴輪は、4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウル都に住み、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪の破片の発見で百済の首都漢城一帯に倭の職人や外交官などが移住し、居住民村があったという推論もできるようになったという分析が出ている。

これまで両国の学界は、古代韓半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものと見られる長鼓型墓が多く確認され、円筒形の他に馬と人などを形象化した埴輪も相当数、出土したことがある。しかし、今回の埴輪の発見で首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。

百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月、正式報告書を出刊する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるものと見られる。

ソース:https://naver.me/5Crccx62


1. 韓国人
倭人が来て暮らしていたのではなく、百済の技術が日本に渡って王室の墓に使われたというのが正しいのではないか…
記事を読んでみたら、漢城百済の技術が先だね
それで百済の人たちが日本に渡って王室のお墓を作るのに使用した…
頼むから記事もちょっと考えて書きましょう…
考古学者なんだから前後関係をちゃんと把握しろ
共感:43|非共感:7


2. 韓国人
>>1
倭と交流しながら居住民がいたという推測までは妥当だが、これを土台に倭が百済を支配したというふうに論理を飛躍させるのが問題なのであって
共感:2|非共感:0


3. 韓国人
そこに住んでいたのは、日本の文化を持ってきた倭人ではなく、そこに住んでいた人たちがその文化を持って日本に行って住んでいたのだ
共感:18|非共感:0


4. 韓国人
百済人たちが日本を支配していたのね…
共感:9|非共感:0


5. 韓国人
日本は百済系~
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6. 韓国人
これを根拠に一部の日本人がおかしな主張しないで欲しい
共感:6|非共感:0


7. 韓国人
韓国は、日本の領土だったのね
共感:4|非共感:0


8. 韓国人
日本と韓国が事実上、1つであるという証拠
共感:2|非共感:0


9. 韓国人
百済が滅びて、百済人が日本に渡った可能性もあるだろ
共感:2|非共感:0


10. 韓国人
記事の内容を土台に、倭人たちは自分の技術を百済に伝授した明白な証拠が発見されたと特筆大書しなければならない
共感:2|非共感:0


11. 韓国人
親日売国奴尹錫悦が国宝に指定するだろうね
共感:3|非共感:2


12. 韓国人
百済通信使が日本に交流しに行って記念品として持ってきたようだ…
これを日本に返して、日本が持っている大韓民国の遺物持って来い!


13. 韓国人
無知な日本人が百済を統治したと言い張るかもしれない
学者たちはそのような考えの芽を摘み取る根拠を探しておけ


14. 韓国人
中国人たちは、あれなら百済も自分たちの領土だったと言い張るだろう


15. 韓国人
捨てろ…ただの石でしかない…


16. 韓国人
倭が韓半島を支配していたと見るに値する証拠になる
寝ても覚めても日本に気をつけなければならない


17. 韓国人
日本は、もともと倭と呼ばれ、百済の属国だった
百済の王族出身が主に統治する国家を倭という
それが今の日本だ…
韓国は、倭出身の尹錫悦みたいなやつらをあまり憎んではならない…


18. 韓国人
記者は狂ったのか?


19. 韓国人
古代日本が韓半島を経営していたというのが事実であることが明らかになったねwwwww


20. 韓国人
だから何だ?
日本関連の記事は見たくないのに…
記者がそんなに暇なのか?


21. 韓国人
教えられた歴史通りに見ると、倭との交流が最も活発だった国は百済だ!
百済は一時、現在の南韓領土のほぼすべてを占める国だったが、主に忠清南道と全羅道全域が主な根拠地!
したがって、親日または親日派は、全羅道というのが正しい!
現在も全羅道の方に行くと瓦屋根、軒丸瓦の形と色彩が倭色風なので驚く時
共感:0|非共感:4


22. 韓国人
これで古代から日本が韓国を支配してきたということが証明された!
共感:2|非共感:9


23. 韓国人
全羅道と百済を倭が支配していたという決定的証拠であろう…
親日派が最も多かったところが全羅道で…
親日派が解放後に作った民主党が全羅道を基盤にしているのも、ただの偶然ではないようだ
共感:0|非共感:8


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