(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

1970年に「生命科学」という分野の創出に関与し、早稲田大学、大阪大学で教鞭をとった理学博士の中村桂子氏。生物を知るには構造や機能を解明するだけでなく、その歴史と関係を調べる必要があるとして「生命誌」という新分野を創りました。そして、「歴史的文脈」「文明との相互関係」も見つめ、科学の枠に収まらない知見で生命を広く総合的に論じてきました。科学者である彼女が、年齢を重ねた今こそ正面から向き合える「人間はどういう生き物か」「人として生きるとは」への答えを、著書『老いを愛づる』(中公新書ラクレ)として発表。自身が敬愛する各界の著名人たちの名言を交えつつ、穏やかに語りかける本書から、現代人の明日へのヒントとなり得る言葉を紹介します。初回は『北の国から』でおなじみの日本を代表する脚本家・倉本聰氏の名言からスタート。利便性にまみれながらも、不都合や不条理を拭い去ることができない現代人に問いかけます。

倉本聰はなぜ東京から富良野へ移ったのか?

「もしもどうしても欲しいもンがあったら、

自分で工夫してつくっていくンです。

つくるのがどうしても面倒くさかったら、

それはたいして欲しくないってことです」

                           

                           (『北の国から』より)  

1980年代に始まったテレビドラマ『北の国から』の主人公、黒板五郎のセリフです。都会育ちの幼い兄妹、純と蛍を連れて北海道の原野にある廃屋に移り住み、ゼロから始めた生活では、必要なものは自分でつくるしかありません。

このドラマを書いた脚本家倉本聰さんは、御自身東京育ちでありながら1970年代の半ばに富良野に移り住まれました。

たまたま私と同じ職場にいらしたお兄様から昭和10年1月1日がお誕生日(後に本当は9年12月31日と伺いました)と教えていただきましたから、40歳以前でいらしたはずです。お誕生日を覚えているのは私の誕生日が昭和11年1月1日で、丸一年違いだからです。

同じ時代を生きたお仲間です。それにしても今から40年以上前に東京を離れ、しかも思い切って北海道に暮らすという決断をなさったのはなぜなのでしょう。

当時は多くの人が東京に憧れ、集まってきた時代です。でも、実際に住んでいる者としては、何でこんなにせわしないのだろうというのが実感でした。

街中を流れる川や東京湾は汚れていましたし、人間の暮らす場所としてよいところなのだろうかと思い始めていたことを思い出します。私も倉本さんと同じ東京生まれです。当時、急速な経済成長をする一方で、自然は壊されていきました。

地方から来ているお友達が、新幹線が走るようになって便利になったけれど、故郷が急速に変わり駅前がみんな同じになってしまったと嘆くのをよく聞かされました。子どもの頃の思い出の場所が消えるのを悲しむ気持ち、よくわかります。

そして心の中でつぶやいていました。あまり気づいてもらえていないけれど、実は一番変わったのは東京だと。見回すとビルばかり、しかもどんどん高くなっていきます。子どもの頃に遊んだ原っぱなんかどこにも残っていません。

このあいだ育った街を歩いてみたら、ビルの一角に昔からの佃煮屋さんがあり、それだけでその辺りの昔の風景が見えてきて、なつかしくなりました。その頃近くにあったお肉屋の太ったおじさんの笑顔が思い出されたりして。

変わってしまった今の東京は好きではありません。はっきり言えば嫌いです。でも、仕事場は東京にあり、動くわけにはいかなかったのです。

そんな私にとって、倉本さんの富良野への移住はなんとも強いメッセージだったことを思い出します。

最近は、新型コロナウイルスの感染拡大に直面したり、エネルギーを大量に使いすぎたために地球温暖化が進み異常気象に悩まされるようになったりして、都会で高層ビルに密集して暮らすのがよい暮らし方とはいえないと思う人が少しずつ増えてきてはいるようですけれど。

都会を中心にした暮らし方の便利さをよしとする人は多く、職場も遊び場も多い都会、とくに東京へ人々が集まることが続いてきました。その生活を支えているのは大量のエネルギー消費であり、それが二酸化炭素の大量排出となって地球温暖化につながったのです。

この流れは1970年代には始まっていました。具体的には、工場から出る煙が原因で起きた四日市喘息、海に流した有機水銀によって引き起こされた水俣病はすでにその時顕在化していました。

私たちの世代はこの変化を実感し、身に沁みて反省していますので、その気持ちを次の世代に伝えることが大事だとこの頃強く思うようになりました。自分の体験したことは誰にでもわかっていると思ってしまいますが、実はそうではないと気づいたからです。

戦争体験を前の世代の方に伺ってびっくりすることがよくあります。同じように、「公害」という事件のあった時代については私たちが語らなければなりません。

倉本聰が「富良野塾」で若者に教えたかったこととは?

当時すでに、ただ便利さを求めるだけでよいのだろうかと考える仲間はそれなりにいました。私は自分の生きもの研究から、「人間は自然の一部です」という答えを出して、それを発信し続けてきました。

倉本さんは、東京という急ぎすぎている場を離れて生き方を探すために富良野に居を移されただけでなく、若者を対象にした脚本家や俳優を養成する富良野塾を開かれました。すごい行動力です。

若い人たちは、農作業で生活を支えながら勉強するという日常の中で、演劇について学んだだけでなく人間としての生き方を考えたに違いありません。その一つの現れとして、倉本さんはこんなことをおっしゃっていました。

東京の若者に「生きていくのになくてはならないものは何?」と聞くと、携帯電話という答えが返ってくる(まだスマホではありませんでした)。それに対して、富良野で暮らし始めた若者たちは、まず「水」と言い、「暮らしていくにはナイフが必要」と言うと。

生命誌に携わる私から見ても、生きものとして生きるために不可欠なものは水です。

私たちはもちろん酸素がないと生きられませんし、食べものも必要ですが、バクテリアには酸素を必要としていない仲間、いやむしろ酸素は有毒であり、それのない地中に暮らしている仲間がいます。破傷風菌はそれです。

子どもたちが切り傷などがある状態でどろんこ遊びをすると、土中の破傷風菌に感染する危険があるので、生後3ヵ月頃から始まる予防接種の中に破傷風ワクチンが入っています。

四種混合と呼ばれ、破傷風の他、ジフテリア、百日咳、ポリオ(小児麻痺)のワクチンが入ったものが一般的です。私の姉は生後間もなく百日咳で亡くなったと聞かされています。一度も会ったことがないので実感がわきませんが、私が子どもの頃は小さな子どもが感染症で亡くなることが少なくなかったのです。

ワクチンの力は大したものです。新型コロナでも頼りはワクチンです。このウイルスは次々と変異した株が出てきて、これまで聞いたこともなかったギリシャ語のアルファベットを毎日口にするという思ってもいないことになりましたが、今では変異に合わせたワクチンをつくることもできますから、ここは、今の科学の力を100パーセント生かして対応していかなければなりません。

科学は私たちの日常とは遠いもののように見えますけれど、実は日常にたくさん入り込んでいます。科学者や技術者は、時に役に立とうと思う余り、やりすぎることもありますので、日常の感覚で、必要なものとやりすぎのものを区別していくのが、私たちの役割でしょう。とくに昔を知っている私たちにはその役割がありますね。

話がそれましたが、酸素はすべての生きものが必要とするものではありません。食べものも、植物は光合成によって自分でつくることができます。地球上に暮らすすべての生きものに不可欠なのは水です。

都会で暮らしていると水は蛇口をひねれば出てくるもの、コンビニでペットボトルに入って売っているものであり、あってあたりまえになっています。ですからないと困るという感覚は持てないでしょう。

すぐに手に入るため、水がどれだけの人やエネルギーに支えられているかに気づかずに過ごせるのが都会です。

倉本さんは、このような便利な時代だからこそ人が生きるうえで大切なものは何かを基本から考える必要があり、若者たちにも一緒に考えて欲しいと思われたのです。東京にいたのではそれはわからないと痛感し、思い切って富良野暮らしを始められたのでしょう。

中村 桂子

JT生命誌研究館 名誉館長