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2008年05月08日 16:49

奴隷として売られ…アメリカで救出された少女

 
奴隷だった少女時代

シーマ・ホールは、どこにでもいそうなアメリカのティーンエイジャーの女の子です。現在カリフォルニアのオレンジカウンティで養父母と5人の兄弟姉妹たちといっしょに暮らしています。

小柄で18歳の彼女は、居間のソファに腰掛けて携帯に向かって話しかけています。ローライズジーンズを履き、ピンクのマニキュアをしています。

去年の5月にはクチナシの花で髪を結い上げ、シルクのドレスを着てプロムと呼ばれるアメリカの卒業前のダンスパーティにも出席しました。

かけもちのアルバイト、宿題、週末のキャンプなどで毎日を(あわただ)しく過ごしています。まるで失っていた時間を取り戻そうとするかのように。

エジプトのアレクサンドリアという都市に生まれた彼女には、思い出したくない人生のページがあるのです。

少し長文です。

8年前、貧困だった彼女の両親は裕福なイブラヒム一家にたった10歳の娘を売りました。一家はアメリカに引っ越し、シーマを違法入国させ、そして一家のために朝から晩までこき使っていたのです。

シーマは11人兄弟の1人で、家族の生活は貧窮しており3家族共同で1つのバスルームを使っているような生活でした。夜には両親や兄弟といっしょに一つの部屋で毛布を敷いただけのところに寝ていました。父親は時おり数週間も留守にし、帰ってくると子供を殴るようなこともありました。

学校に行ったこともなく、将来の見通しも厳しいものがありました。それでも希望がなかったわけではありません。何年も経ってから裁判所で、「そこには幸せもありました。私を気にかけてくれる人がいました」と語っています。

彼女が8歳になると、当時30代だった裕福なイブラヒムとその妻モテリブの家に移り住みました。それまでシーマの姉がそこのメイドをしていましたが、現金を盗んだという理由で解雇されたのです。衣食にもこと欠く両親は、契約の一部としてシーマをその代わりに当てました。

その2年後、イブラヒムとモテリブの夫婦は、輸出入ビジネスを始めるために、5人の子供を連れてアメリカに移住します。シーマは行きたくありませんでしたが、イブラヒムから選択権は無いと言いわたされました。そのとき彼らと両親の間で交わされた会話をキッチンで聞いていました。月々30ドル(約3千円)で彼女は売られたのです。

シーマは6ヶ月の観光ビザで違法に入国させられ連れて来られました。そしてこの夫婦の地中海風の2階建ての家に落ち着くことになったのです。働いていないときは 2.5m x 3.5m の窓もないガレージの片隅に追いやられました。もちろんエアコンやヒーターもありません。時々外から鍵もかけられ監禁もされました。

彼女の家具と言えば、汚いマットレス、室内灯、小さなテーブルだけでした。シーマの服はスーツケースにしまっていました。彼女は毎朝6時にこの夫婦の6歳の双子とともに起き、11歳、13歳、15歳の3人の姉たちを含む全員から命令を受けていました。

彼女は料理をし、食事を出し、洗い物をし、ベッドメーキングをし、シーツを替え、洗濯を手伝い、アイロンをかけ、ほこりをはらい、掃除機をかけ、ほうきで掃き、モップをかけ、テラスを掃除し、夜中まで雑用をさせられていました。ある日彼女が自分の服を洗濯しようとすると、モテリブがそれを止め、彼女の服は汚いので洗濯機を使わないように言ったのです。

そのときから彼女は自分の服をバケツで洗わないといけませんでした。乾かすときもゴミ箱の横のラックに干していました。モテリブもイブラヒムもシーマを叩きました。しかしシーマにとって一番つらかったのは言葉の暴力と、そして孤独でした。「私のことをいつもバカで価値のない人間だと言っていました。私がいつも彼らより劣る存在だと感じさせられていました。」

食事はいつもひとりで摂り、学校に行くこともイブラヒムやモテリブなしで家の外に出かけることも許されませんでした。さらに彼女が違法滞在だということを理由に絶えず脅していました。母親が恋しいと彼らの前で言ったことはありませんでしたが、インフルエンザに侵されたときは彼らの前で泣きました。

「私が苦しんでいるのを見ても、気にもかける様子はありませんでした。それでも私には仕事がありました。薬さえもくれませんでした。」

夜になって疲れきって孤独なまま暗闇を見つめていました。イブラヒムは彼女のパスポートも取り上げていました。この先、一生囚われの身となることが恐怖でした。

シーマが12歳になったときも誕生日のお祝いはありません。彼女には仕事がありました。

6ヶ月後の2002年4月9日の朝、オレンジカウンティの子供保護サービスで勤務していたキャロルのところに匿名の電話が入りました(近所の人からだと言われている)。 児童虐待との通報で、子供がガレージに住み、学校にも行かず、メイドのように働かされている、というものでした。

キャロルは警察の捜査員トレイシーとともにイブラヒムの家を訪ねドアをノックしました。彼が出てくると家に住んでいるものは誰かと尋ねました。イブラヒムは妻と子供が5人と答えます。

「子供はそれで全部ですか?」捜査員は強く言います。イブラヒムは12歳の子供がいることを伝えますが、遠い親戚の子であると説明しました。

「私たちに話をさせてください」トレイシーは言います。

2階を掃除していたシーマは、救世主がすぐそこに来ていることに全く気づいていません。イブラヒムはアラビア語でシーマに下に降りてくるように呼び、働いていることを尋ねられても否定するように言いました。みすぼらしい茶色のTシャツとだぶだぶのパンツを履いたシーマがドアへ急いでやってきます。

彼女を見たキャロルはシーマの手が赤く荒れていることに気づき、携帯電話で通訳者を呼び出しました。シーマは通訳者を通してアメリカに2年いること、学校に行ったことがないことなどを伝えました。

トレイシーはすぐにシーマに保護観察をつけました。子供のグループホームへ向かう途中、警察の車の後部座席で、シーマは二度とイブラヒムの家に戻されないように願っていました。そのときの様子をトレイシーはこう語っています。「彼女はとても強い子で驚いたわ」 彼女は一度も泣きませんでした。他の子供たちと違い、一時の間でしたが保護観察の下のいることは安全だと思えたのです。

数時間後、トレイシーは家宅捜索令状を持って、FBI捜査官と移民局捜査官を伴い、イブラヒムの家に戻りました。ガレージではシーマのしみだらけのマットレスの写真も撮影されました。シーマはそこの一家とは完全に正反対の生活をしていたと、後に捜査員が述べています。

「ペットでさえもっとまともな扱いを受けている」と移民局捜査官は言ったそうです。

イブラヒムは自分を正当化しようと、シーマの両親との手書きの契約書の署名を見せました。そこにはシーマは月に30ドルで10年間の労働を課す内容が書かれていたと言います。

捜査官はイブラヒムとモテリブを違法に外国人をかくまっていた罪と、労働の強制をしたことなどの罪で逮捕しました。

シーマが移民局に救いだされた日に、彼女には選択権が与えられました。エジプトに帰るか、アメリカで別の養父母と暮らして残るか、です。不安で不確かなまま、シーマはエジプトにいる父親に電話をし、アメリカに滞在したい(むね)を話しました。父親は怒りましたが、彼女の決断は誰も変えることはできませんでした。新しい人生を歩んでいきたかったのです。

次の2年は2つのフォスターファミリー(一時的に養育してくれる家族)と生活をともにしました。1つ目の家族とは英語を話したり、読んだりすることを学びました。2つ目の家族はサンホセ でシーマに厳粛なイスラム教徒にならないかと期待をかけられ、議論のあとその家族はシーマをホームへと戻しました。

「普通のアメリカのティーンエイジャーになりたかっただけ」とシーマは言います。

そんな彼女の願いが届いたのか、チャックとジェリー・ホールがベッドルームが4つもある大きな家を購入し、2人の娘と1人の息子に加えて15歳と13歳の子の養父母になったあと、まだ余裕があるともう1人面倒を見ることを考えたのです。初めてシーマと会ったときにユニフォーム会社に勤めるチャックは「僕と同じユーモアのセンスがあって分かち合えた」と伝えています。

シーマ・ホール

シーマは養父母にたいして2つの質問がありました。ひとつは家のルールが何かということ、もうひとつはどんな雑用をしなければいけないか、でした。チャックは答えます。「何でも交渉しだいだよ」

「ルール1は、宿題に学校だよ」 妻のジェニーは「娘と同じ扱いをするわ、私たちの家族の一員よ」と言いました。

スーツケースと共に怒りをたくさん持ってきたシーマは、最初の半年は不安などで寝られなかったと言います。セラピストに通い、何度か薬ももらいました

時間の経過とともに、だんだんと自分に自信が持てるようになり、学校でも友達を作りました。初めてのボーイフレンドも出来ました。陸上部にも入り、ゴディバ・チョコレートの店でアルバイトも始めました。教会の食事に参加したり、チャリティ行事に参加したり、ボランティアで自信を持てない子供たちのカウンセラーなどもかって出ました。

シーマはその後の2006年に、イブラヒムとモテリブの夫婦が罪状を認め、情状酌量を求めるのを裁判所で聞きました。イブラヒムが「法の無知から来たことで自分に責任がある」と言った一方、モテリブには反省は少なく、「エジプトで彼女を扱うのと同じように扱った」と言い、「彼女から不満を直接聞いていたなら、待遇を変えるつもりだった」と裁判所で述べています。

怒りを隠しきれずに彼女は裁判所で述べました。「モテリブは成人した女性で善悪の区別はついていたはずです。私に対する彼らの愛情はいったいどこにあったのでしょうか?私も人間なのに、彼らといると自分には価値がない存在のように感じられました。彼女らの仕打ちで、私は一生の傷を負ったのです。」

イブラヒムは刑を軽減され3年の禁固刑、モテリブは22ヶ月の禁固刑を言い渡されました。さらに裁判所は彼らに76137ドル(約760万円)をシーマの労働対価として支払うように命じました。刑が終わると彼らはエジプトに追放となります。

シーマはそれを祝って、ハイ・スクールのダンスパーティに着ていくドレスを買いにいったのです。彼女とジェニーはとても美しい黒のロングドレスを選びました。シーマはさらにノートPC、デジタルカメラ、そして車も買い、残りのお金は大学へ行く費用として残しておきました。

「彼女は意志の強い、独立した精神の持ち主よ」去年正式に養女として手続きをしたジェニーは言います。「自分が何を欲しているかをわかっているわ」

彼女は、今までに抱いたこともなかった夢を追い、そしてそれを叶えることもできる生活を手にしました。

将来的には警察官になりたい、そして多くの人々を助けたいと彼女は言います。

そしていつか、エジプトの兄弟姉妹たちを訪ねたいと思っています。


人身売買は現在急速に増えており、アメリカは目的地の一つとして人気となっています。奴隷取引によるアメリカへの入国者は毎年17500人にもおよび、労働奴隷あるいは性奴隷として国境を越えてきます。

アメリカは2000年に、世界各国で人身売買の現状を把握するためのプログラムを開始しました。各国の協力の度合いから、ランキングを作りました。国連でも推進され、過去5年で100カ国以上が人身取引が犯罪だとして、法に定められました。

しかし、21世紀になっても、成人するまで奴隷として過ごす子供たちが大勢いるのです。

The Slave in the Garageより

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