【早大野球部100代主将】
最上級生になって、僕は主将を務めることになりました。應武(篤良)監督からは3年生の頃からそういうニュアンスを聞かされていたので驚きはありませんでしたが、僕が1年の時から見てきた3人の主将のなかにピッチャーの方がいなかったので、ピッチャーでキャプテンというのはどういう感じになるんだろうという戸惑いはありました。
監督に言われたのは、「4年になるメンバーのなかで1年の時からケガもせず、ずっと試合に出続けた選手はお前しかいない。だからこのチームはお前が引っ張っていかなきゃいけないんだ」ということでした。
ほかの選手はメンバーに入れなかったりケガをしたりして、試合に出ていない時期がある。ずっと試合を見てきたお前だからこそできることがあるんだ」と......なるほど、そういう考えもあるんだなと思いました。
ただ、それまでの僕はチームを見るというよりも自分のことで必死でしたし、自分のことしか考えていなかった。だから主将なんて無理だよ、とも思っていました。実際、僕は投票では宇高(幸治)に入れました。でも投票結果は発表されずに最後は監督が決めて発表するので、もう流れは止められませんでしたね(笑)。
しかも、僕は100代の主将でした。たぶん100代じゃなかったら、主将になっていなかったんじゃないかと思います。僕らは入学した時から「お前らの代の主将って100代目だな」ということを言われていて、「100代だったら斎藤じゃね?」「だって應武監督、そういうきりがいいのが好きだもんな」って、そうやって外堀を埋められていた感じはありました。
だから何となく心の準備はできていましたし、宇高が副主将になったので、いろんなことは野手の宇高に相談しよう、なんて考えていました。
主将の仕事は、練習終わりのミーティングで監督が気づいたことを短く話して、その話を受けて新人監督がしっかりと話をしたあと、最後に主将の「お疲れ様でした」の挨拶で締めるくらいの感じでした。だからなのか、あまり気負うことなくスタートできたような気がします。
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3年間で斎藤が積み重ねた数字は通算25勝、奪三振は265。その時点での東京六大学では5人しか達成していなかった通算30勝&300奪三振のダブル達成を視野に、主将となって背番号10をつけた斎藤の大学ラストイヤーが幕を開けた。
(次回に続く)