【画像】「誰もが心に描く日本の原風景」をアストンマーティンDBX707で訪ねる(写真21点)
忘れの里。
なんとも不思議な語感を伴うが、「忘れの里」とは果たして”忘れ去られてしまった郷里”なのか、”忘れることができない場所”を指しているのか。
『忘れの里 雅叙苑』は、のちに『天空の森』を創業する当時まだ20代だった頃の田島健夫氏によって1970年に創業される。場所は鹿児島、妙見温泉地区。地域を流れる天降川(あもりがわ)に沿って、古民家が密集した「集落」のような場所が”忘れの里”だ。グランドラインからは二階分ほど低い位置にあり、車だと見落としてしまうような川の瀬に建つ。アストンマーティンDBX707を停車させ、覗き込んでみると苔に覆われた藁葺き屋根の建屋が何棟か見える。どこからともなく焚き火の匂いが漂ってくる。
創業当時の1970年頃といえば、日本は年10%を超える高度経済成長期の後期にあたり、急速に近代化を果たしていた時代だ。自動車の普及、新幹線ほか公共インフラの拡充もあって、空前の国内旅行ブームが沸き起こっていた。ホテルは大型化し、団体旅行を受け入れるための大型浴場や宴会場が必須の設備とされ、限りなくオートメーションなシステムが欲された。
そんな時代に『忘れの里 雅叙苑』は開業している。団体客を受け入れられる大型バスの駐車場も、宴会場も、大浴場もない、二階建て5部屋の小さな宿の運営は、開業からしばらくは苦労の連続だったそうだ。状況が激変するのは数年後に近隣の農家から譲り受けた茅葺き屋根の家を移築した頃から。さらに当時としては画期的とも言える全室内風呂を完備するようになると、その人気はさらに増した。地産地消を前提とした料理も話題になった。いくつかのインタビューで田島代表は「都会へ人が集中するのは仕方ない。けれども、帰れる場所は用意しおいてあげないといけない」「もの凄い時代のスピードからふと逃れたくなる時がすぐに来ると考えた」という類の話をされているが、当時としては相当特異な発想だったに違いない。
現在の雅叙苑の礎にもなった、20畳を優に超える茅葺き屋根を誇る「いちょうの間」でお食事をいただいた。室内は燻煙によりいぶされた香りに満ちていて、全体に満遍なくすすけている。屋根の最頂部は視認できないほどに暗く、高い。当然囲炉裏も用意されているのだが、それらを眺めていると、つい日本人の生活と建築の知恵に引き込まれてしまい、時間を忘れてしまう。「素晴らしいと言っていただけるのはありがたいのですが、県内ではもう茅の手配も職人さんの手配も困難になりつつあります」ということだそうだが、技術伝承のためにもこうして茅葺き屋根を維持する意味はあるという。
興味深いのはコロナ禍以前、およそ50%近くに達しようとしていた外国人ゲストから、しばしば「懐かしい」という言葉が聞かれたという話。日本人の我々からしてもすでに実生活の中での記憶には存在しないようなこの空間に、外国からのゲストが同様の感覚を覚えるのは、どこか共通する人間のルーツのようなものを感じるからか、どうか。
土と水と火。自然を構成するこの3つがここではとても近い存在だ。敷地内のところどころに舗装されていない土の小道を残し、朝に収穫された野菜は、湧水によって洗われ、保管される。レセプションの隣には年中消えることなく囲炉裏に薪が焼べられ、談笑の場となっている。土と水と火という人間の生活の礎となるファクターが目の前にあることが、意図せずにして海外からのゲストにも共通の魅力となっているのではないか。