1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号〜1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第34回。このエッセイを執筆していた浅田さんは40代半ば。徐々に老いを意識するお年頃だった。そんななか起こった激痛を伴う老化現象の顛末。
攣について

ケツの筋肉を攣ったことがありますか?

12月1日午前8時30分ごろ、突如として大臀筋(だいでんきん)が攣(つ)った。

筋肉が攣るというのは、医学的にはどういうことか良くは知らぬが、手元の人体図で見るかぎりたいてい下腿三頭筋(かたいさんとうきん)、もしくは長腓骨筋(ちょうひこつきん)、大腿二頭筋(だいたいにとうきん)あたりと決まっている。

大臀筋とは要するにケツの筋肉のことで、生まれて初めての体験とはいえたいそう痛かった。

どのくらい痛かったかというと、折しも散歩中のことであったのだが、思わず愛犬パンチ号の引縄を「アッ!」と叫んだなり手放してしまい、しかも路上に跪ひざまずいて犬の如き姿勢となり、しばらくそのまま「うー、うー」と唸っていたほどであった。

はたして読者の中に、大臀筋が攣ったという稀有の体験をお持ちの方が何人おられるであろうか。私だってまさかケツの筋肉が攣るなどということが、突然わが身に起こるなどとは予想だにしていなかった。

徹夜原稿を書きおえ、さてそろそろ寝るべいと座椅子を倒したところ、書斎の縁側にパンチ号が顔を出して、「旦那、そっちの商売のご都合で日に一度のあっしの楽しみをとり上げるなんざ、あんましじゃあねえですかい」というようなことを言ったので、シブシブ散歩に出たのである。

つまり、長時間にわたって文机に向かったあとの急激な運動が、大臀筋の叛乱という結果を招いたのであろう。

自慢じゃないが私はいいケツをしている。前を褒ほめてくれた女は一人もいないが、ケツは全員が褒めてくれた。これは俗にいう「兵隊ケツ」というやつで、古今東西、兵隊は特殊な訓練(筋肉の鍛練と、教練つまり気ヲ付ケの姿勢による緊張)のために、いいケツになるのである。

しかも大臀筋は他の筋肉に比べて落ちにくいので、自衛隊除隊後すでに四半世紀を経過したというのに、私のケツはいまだプリッと上がっている。

古今東西と書いた手前、いちおう英和辞典で「GI HIP」という項目を引いてみたが、やっぱりなかった。でも、辞書が俗語を採用していないだけだと私は信ずる。

ともかく、私の大臀筋は45歳の常人に比べ、はるかに豊かなのである。その兵隊ケツの左半分が、ビシッと音を立てる感じで攣ったのであるから、ひとたまりもなかった。

登り坂の中途で、何となく足が変だなと思った。左足をややいたわりながらさらに急坂にかかったとたん、ビシッときたのである。

それは、骨盤が折れたのかと思うほどの痛さであった。とっさに犬の引縄を放り出し、クソ袋も取り落として私はガックリと路上に膝をついた。

再び余談であるが、お散歩用の「クソ袋」は昨年ミスタードーナツのオマケでもらったデニム地のカバンである。たいそう気に入って、三色の色ちがい欲しさのために毎日ドーナツを食った。そのうちブルーのものをあろうことか犬のクソ袋にしてしまったのであるが、先日宮部みゆきさんがハンドバッグがわりに同じものを提げていらしたところを見、たいへん申しわけない気持ちになった。

そんなことはさておく。

ものすげえ痛さであった。四ツん這いになって「うー、うー」と唸りながら、ケツに手を当ててみれば、わが自慢の兵隊ケツは鋼のごとく硬直していた。しかも、しかもである。手を当てているうちにその硬直部位は、どんどん盛り上がってくるではないか。当初はソーセージのように引き攣っていた筋肉が、みるみる、いや見てはいないのだけれど、さわるさわる、巨大なボンレス・ハム状に盛り上がり、突出し、ケツ全体がカチカチに固まってしまったのである。

それに従い、「うー、うー」という呻うめき声は「わー! わー!」という絶叫に変わった。

愛犬パンチ号も初めのうちは疑り深い目で、

「旦那、へたな芝居はよしにしなせえよ。具合が悪いからもう帰えろうなんて、古い古い」

というようなことを言っていたのだが、私のあまりの苦しみように、

「だ、旦那! ちょいと辛抱していなせえよ、てえへんだ、てえへんだァ!」

と、人を呼びに走った。

激痛を堪えながらの独り四十八手

気息奄奄(きそくえんえん)としつつ、それでも世にも珍しき体育会系作家である私は、とっさにストレッチを試みた。

そう、筋肉が攣った場合の応急処置として、まず当該部位を伸ばさねばならぬ。

しかしご存じの通り、この応急処置はさらなる痛みを伴う。下腿三頭筋、内転筋、広背筋といった部位であれば、一人でも十分に伸縮させることはできるが、大腿四頭筋、二頭筋などの場合は他人の協力を得なければ無理なのである。

いわんや、大臀筋においてをや。

まず膝ひざをついたまま尻を持ち上げた。とたんに強烈な激痛が脳天を貫き、私は天に向かって吠えた。

次に民家の壁づたいに立ち上がって、グイと腰を落とした。「おかーさーん!」と私は泣いた。

痛みは全然静まらぬどころか、わが大臀筋はヘタクソなエクソシストの聖言に怒り狂ったサタンのごとく、さらに剛直した。

私は怯まなかった。仰向いたり、横になったり、縦になったり、えーと、こういう動作を文章で的確に表現するのは至難であるので、文芸担当編集者たちからの譴責を覚悟でわかりやすく表現すると、要するに当初は後背位()、次に立位()、さらに後側位()、座位()、背面騎乗位()、ここで痛みは絶頂に達したのでいったん正常位()に戻って一息つき、後背位()から正常位()へ、そしてしまいには右を下にして左足を抱えこんだ変則松葉くずしの体位で、ついに果てた。

そんなことを、朝の路上で5分もやっていたのである。

「大丈夫ですか」と声をかけて下さる奇特な通行人もいるにはいたが、まさか大臀筋が攣ったので手を貸してくれとは言えず、むしろそれどころではない痛みを何とかやわらげようと、私は必死で四十八手をくり返していたのであった。当然通行人は気味悪がって去ってしまった。

パンチ号に肩を借りて、ようやく帰宅したはよいものの、その後も机の前に長く座っていると、しばしば同じことが起こるのである。そのつど哀れ私は、ヒイヒイと泣きながら四十八手をくり返す。

前出の宮部みゆきさんが日本SF大賞を受賞なさったにもかかわらず、授賞式に参会できずに義理を欠いた本当の理由はこれであった。まさか東京會館のレセプション会場で、独り四十八手はできまい。

しかし、まずいことには、明日は版元紀尾井屋の忘年会である。直木賞をいただいた手前もあり、こればかりは欠席というわけにはいかぬ。ホテル・オークラの宴会場で突然絶叫し、独り四十八手を始めたら参会者たちは何と思うであろうか。

そのうえ短篇集『月のしずく』に続き、久々の中国歴史物『珍妃の井戸』が12月10 日に刊行され、全国各所でサイン会が始まる。恐怖である。もし私がサイン会場で、絶叫は何とかこらえるにしろ脂汗をかきながら独り四十八手を黙々と開始したならば、きっと売れる本も売れはしないであろう。

ところで、最新刊『珍妃の井戸』は清朝末期の紫禁城を密室になぞらえた著者初のミステリー小説であるが、その作中に「攣」という文字についての考察がなされていたことを、ふと思い出した。以下、最終章「天子サン・オブ・ヘブン」より、光緒帝の玉音を抜粋。

「戀(こい)」は古くは「攣」の字を用いたという。漢書の「師古注(しこちゅう)」に、「攣、又読んで戀と曰(い)う」とある。すなわち恋とは、心攣(ひ)かれることじゃ。愛し合う心と心が、あたかも悍馬(かんば)を攣く手綱のごとくに張りつめ、靱(つよ)く猛々(たけだけ)しくたがいの愛を求め合うさま──それこそが恋じゃ。

ああ。同じ作家が書いたのかと思うと、心が引き攣る。

(初出/週刊現代1997年12月27日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)
『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『きんぴか』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。