源頼朝・北条政子の銅像。静岡県伊豆の国市(写真提供:Photo AC)

写真拡大

プレゼンテーションや会議、商談といったビジネスの場はもちろん、日々の生活のなかでも、友人や家族など、自分以外の誰かに動いてもらわなければならない場面が多々あります。でも、相手を“思うように”動かすのはなかなか大変……。歴史家・作家の加来耕三さんは「その方法を教えてくれるのが、歴史上の偉人たち」と語っています。たとえば、後鳥羽上皇の挙兵を前に動揺した御家人たちを奮い立たせた北条政子の演説からは学ぶものが多いそうで――。

【絵】『武者鑑』に記された北条(平)政子。「嫉妬深く根性悪き相」と記されている

* * * * * * *

北条政子の演説

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれていますが、北条の一族を中心とした鎌倉幕府の勢力が増していく中、京都にある朝廷では、徐々にその勢いを憂慮するようになります。特に三代将軍・源実朝が暗殺されたことで、朝廷と鎌倉幕府の関係はさらに不安定に。

ついに、その勢力を挽回すべく挙兵した後鳥羽上皇が“北条義時追討”の院宣(いんぜん)を諸国に出すと、朝敵とされた鎌倉の御家人たちは動揺しました。これがいわゆる承久の乱です。

一方、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、政子は御家人たちを前に、次のような言葉をかけたといいます。

ーーー

皆さん、心を一つにして聞いてください。これが私の最後の言葉です。亡き頼朝公が朝敵を征伐し、幕府を創設して以来、皆さんの官位といい、俸禄(ほうろく)といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いと言えましょう。皆さんも、その恩に報いる心は浅くないことと思います。

ところが今、上皇は逆臣どもの讒言に心を惑わされてしまったのか、物事の道義に反した命令を下されました。その名を惜しむ者はただちに京都に上り、裏切り者である藤原秀康、三浦胤義らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺産を守りぬきなさい。

ただし、上皇側につきたい者は、今すぐに申し出なさい。

ーーー

優れていた点(1)―「朝廷」対「御家人」という構図へのすり替え

さて、この政子の演説はどこが優れていたのでしょうか。そのことを明らかにする前に、まず押さえておきたいことがあります。


『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(著:加来耕三/PHP研究所)

後鳥羽上皇が命じているのは「義時追討」であって、「幕府追討」ではない、ということです。上皇自身も幕府と正面からの武力衝突をするつもりはなく、鎌倉方の武士も含めた多くの武士たちを、自らの味方につけることで、武力を背景に、幕府の中から義時を排除することを狙っていました。

ですから、ほかの御家人の立場からすれば、「義時どのに犠牲になってもらえば、我々も逆賊にならずに済むし、幕府も安泰ではないか」という選択肢もあり得たわけです。

そんな中で政子の演説が優れていたのは、本来なら「朝廷VS.義時」だったはずの対立の構図を、「朝廷VS.幕府に仕えてきた御家人たち」という構図にすり替えたことでした。

「頼朝公が幕府を創設して以来、皆さんの官位も俸禄もずいぶん上がりましたよね。これはすべて頼朝公のおかげです。皆さんもきっと、頼朝公に対する感謝の気持ちは深いことでしょう。ところが今、頼朝公が私たちに与えてくださったものが、すべて奪われようとしているのですよ」と、政子は訴えかけたのです。

御家人たちは、朝廷や平家全盛の時代、自分たちが牛馬のようにこきつかわれ、どんなにひどい目に遭ってきたか、ということをよく覚えていますし、若い世代は、そうした話を親世代から聞きながら育ってきました。

上皇の命に従って義時を追討すれば、どうなるのか。幕府は維持できるかもしれませんが、朝廷との力関係は再び逆転し、朝廷に平身低頭、ひざまずかなくてはいけない日々が戻ってくることになります。政子の演説は、もし上皇の命に従えば、自分たちの暮らしが今後どうなるのかを、御家人たちに具体的にイメージさせるものでした。

優れていた点(2)―「朝廷」対「頼朝」という構図へのすり替え

この演説のもう一つのポイントは、追討の対象は義時であったにもかかわらず、政子は「義時のために」ではなく、「頼朝公の恩に報いるために立ち上がれ」と訴えかけたことです。「朝廷VS.義時」の対立の構図を、「朝廷VS.頼朝」の構図にもすり替えたわけです。

御家人たちにとって?鎌倉殿?頼朝は、カリスマ的な存在でした。ですから、「あなた方は、頼朝公が与えてくださった恩に報いますか。それとも恩を仇で返すのですか」と政子から問われれば、「それは報いますとも」と答えるしかありません。

もし政子がこのとき、「弟・義時のために立ち上がってください」と訴えかけたとしたら、御家人たちの心を一つにまとめることは不可能だったでしょう。

さらに政子は、御家人たちが朝廷に弓を引くことへの抵抗感を、取り除くための配慮、工夫もしていました。

演説をもう一度読み直してみると、政子は「後鳥羽上皇と戦え」とは言っていません。「悪いのは後鳥羽上皇に讒言(ざんげん)をして、上皇の心を惑わした者たちであり、その君側(くんそく)の奸臣(かんしん)である藤原秀康、三浦胤義(たねよし)たちを討て─」と言っています。

藤原秀康は後鳥羽上皇の近臣の武士であり、三浦胤義は鎌倉武士ではありましたが、当時は京都におり、秀康から誘われるままに上皇側についた人物でした。

「この戦いは上皇との戦いではなく、君側の奸臣との戦いである」という方向に、政子は御家人たちの意識を向けさせようとしたのです。

畿内在住の武士と東国武士では、同じ武士でも朝廷に対する距離感はだいぶ異なり、東国武士には独立の気風が強くありました。とはいえ、天皇や上皇に対する畏怖(いふ)の念は抱いています。政子の発言には、「自分たちは恐れ多いことをしようとしているのではないか」という御家人たちの恐怖感を、和らげる作用がありました。

「何を話すか」と同時に「誰が話すか」も重要

こうして見ていくと、政子の演説は、何を言えば御家人たちの琴線に触れるかをよく心得たものだったことがわかります。おそらく義時と一緒に、事前に内容を相当練り上げ、予行演習も積んだものと思われます。

蛇足ながら、この演説は亡き頼朝の妻であり、頼朝の直系が潰えた後は、実質的に四代目の将軍である、と御家人たちから見られていた政子がおこなったからこそ、効果を発揮しました。もし、義時が同じ内容の演説をおこなったとしたら、御家人たちからは、

「自分が助かりたいために、頼朝公の恩を持ち出してくるなよ」

と、反感を抱かれたかもしれません。

何度も繰り返しますが、交渉事は問題の当事者ではなく、別の人間に発言してもらったほうが、説得力が増すケースが多々あります。誰かと組んで交渉に臨む際には、「何を話すか」と同時に、「誰が話すか」を吟味することが非常に重要になります。

交渉成立後は拙速を尊ぶべし

政子の演説の後、幕府の中では二つの作戦案が検討されました。

一つは、足柄・箱根で防衛ラインを固め、京都からの追討軍を迎え撃つという案。もう一つは、今すぐ積極的に京都へ攻め込もうという案でした。

前者のほうが、敵方が来るのを待っている間に軍を整えられ、より大勢で戦いに臨むことができます。しかし、幕府の官僚であった大江広元(おおえのひろもと、十三人衆の一)は、これに真っ向から異を唱えました。

「戦うことが決まったのに、なお日時を無為に過ごすのは上策ではありません。そんなことをすれば御家人たちは、いらぬ思いをめぐらしかねません。もし、心変わりする者が出てきたら一大事です。それゆえ、たとえ泰時どの(義時の子)一人だけだったとしても、すぐに出撃させるべきです」

この意見に、政子と義時は賛同。すぐさま兵を整えて、出陣することが決まりました。

「兵は拙速(せっそく)を聞く。未(いま)だ巧(たく)みの久しきを睹(み)ず」

という言葉が『孫子』(作戦篇)にあります。「戦いは、たとえ拙劣でも、即決が大事であり、いかなる戦巧者(いくさこうしゃ)でも、長引いて成功したためしはない」という意味です。

交渉も同じです。合意が得られたら、相手が心変わりする前にすぐさま行動しないと、せっかく決まったことが覆されるリスクがあります。

承久の乱において、政子・義時姉弟が、朝廷に弓を引いて勝利するという、日本史上唯一の例外を成し遂げることができたのは、御家人たちとの交渉成立後に、拙速を尊んだ行動ができたからでもありました。

※本稿は、『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。