小林秀雄と菊池寛。二人の知られざる「敬意と絆」の物語――。9月7日、著書「小林秀雄の『人生』論」で山本七平賞奨励賞を受賞した文芸批評家・浜崎洋介氏による「小林秀雄と文藝春秋」の一部を転載します(文藝春秋2022年10月号より)。

【画像】菊池寛が小林秀雄のひとまわり以上年上

菊池寛が好きだった「我事に於て後悔せず」の真意

 小林秀雄の代表的エッセイの一つに「私の人生観」がありますが、年譜を見ると、それは小林が戦後初めて取り組んだ纏まった仕事だったことが分かります。

 昭和23年11月10日、新大阪新聞社主催の講演会で「私の人生観」を講演した小林は、その翌年、それに修正を加えたものを『文學界』(7月)、『新潮』(9月)、『批評』(9月)に分載し、さらに加筆したものを、同年10月『私の人生観』として創元社から刊行します。


文藝春秋文化講演会での小林秀雄

 ということは、文庫本で80頁にも満たない講演録の修正に、小林は、およそ1年間を費やしたことになります。実際、後に、この講演録は「戦後の小林の立脚点を集約的に示す評論として、第二の『様々なる意匠』〔小林秀雄の文壇デビュー作〕とも言うべき位置を占め」るものになります(吉田凞生「『私の人生観』私見」昭和44年、昭和56年改稿、〔 〕内引用者、以下同)。

 ところで、ここで興味深いのは、講演のクライマックス部分で、突然、小林秀雄が、菊池寛の名に言及していたことです。小林は、次のように切り出します。

「宮本武蔵の『独行道』のなかの一条に『我事に於て後悔せず』という言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだったらしく、人から揮毫を請われるとよくこれを書いておられた。〔中略〕これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。〔中略〕昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。〔中略〕後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、〔中略〕それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。」

 ここで重要なのは、この講演会の8カ月前、小林が言及している菊池寛が亡くなっていたことです。

「いやな時代」に亡くなった菊池寛

 敗戦の翌年の昭和21年3月、表向きは資金難から、しかし、本当のところは国家敗亡に対する失意から、文藝春秋社の「解散」を口にした菊池寛は、さらに翌昭和22年の10月、つまり、「私の人生観」が講演される一年前、GHQから公職追放の指令を受け、訪問客も少なくなった自宅で急な狭心症に襲われ、60年の生涯を閉じていました(昭和23年3月)。

 敗戦直後の混乱期、食糧難でごった返す大塚駅のホームで、偶々河上徹太郎に出くわした菊池寛は、「君、いやな時代が来たねえ」と漏らしていたと言いますが(『文藝春秋七十年史』第六章)、まさに「戦争責任」をめぐって「自己批判だとか自己清算だとかいう」言葉が溢れかえっていた「いやな時代」に菊池寛は亡くなっていたのです。そして、それを知る小林秀雄は、あえて菊池寛が好んだ言葉を引いて言うのでした、「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、〔中略〕今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て」と。

 後に小林秀雄は、ハッキリと「私は、菊池寛という人を尊敬していたし、好きだったし」(「菊池寛」『文藝春秋』昭和30年6月)と書くことになりますが、この「私の人生観」の一節を読んだだけでも、菊池寛に対する小林秀雄の敬意と絆とは明らかでしょう。

 しかし、初めから二人の関係は深かったのでしょうか。そうではありません。

 小林秀雄の四つの菊池寛論や「文藝春秋と私」(『文藝春秋』昭和30年11月)といったエッセイから推すに、小林秀雄の菊池寛への信頼は、最初、無意識のレベルで育てられながら、それが次第に頭にまで達して、次第に意識化されていったものであるように思われます。つまり、偶然が必然化していった例として、小林秀雄と菊池寛との関係は深まっていったのだということです。

 では、小林秀雄の菊池寛への敬意は、どのように成熟していったのか。その過程を見ておきましょう。

「雑誌屋を兼業している通俗作家」

 先に触れた「文藝春秋と私」というエッセイによれば、戦前に限って言うと、小林秀雄と文藝春秋との関係は、大きく3期に分けられます。一つは、生活上の必要から小林が無署名で、埋草原稿を書いていた頃の関係(昭和2〜4年)。もう一つは、デビュー直後の小林が、新進気鋭の批評家として文芸時評欄を担当していた頃の関係(昭和5〜6年)。そして最後に、昭和8年以来、小林が携わり続けてきた雑誌『文學界』の発行元を、文藝春秋社に移してからの関係です(昭和11〜19年)。

 こうしてみると、小林秀雄と文藝春秋との関係は、相当に深いものだったように見えますが、小林が菊池寛に出会った当初は、全くそんなことはありませんでした。

「僕は、大学生時代、家出して女〔長谷川泰子〕と一緒に自活していたので、いろいろな事をしてかせがなければならなかったが、『文藝春秋』に匿名の埋草原稿を買ってもらうのが、一番楽な仕事だったから、毎月せっせと書いたものである。だから菊池さんには、ずい分早くから御世話になっていたわけだが、長い間面識はなかった。〔中略〕その後、〔中略〕、菊池さんにしばしば顔を合わせる様になったが、ろくに挨拶もしなければ口も利かなかった。昔の事〔生活に困った小林が、原稿料の前借りを頼みに行った際、将棋で忙しかった菊池寛に話が通せなかったという一件〕を決して根に持っていたわけではないが、悲しいかな、二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである。」(「菊池さんの思い出」『時事新報』昭和23年3月18日号、19日号)

 この頃、長谷川泰子と同棲していた小林秀雄は、大学には顔を出さずに、翻訳と家庭教師で糊口をしのぎながら、ときに編集者の菅忠雄を頼って、「アルチュル・ランボオ伝」(昭和2年7月〜翌年5月まで)や、「シャルル・ボオドレエル伝」(昭和3年〜翌年12月まで)などの匿名原稿を『文藝春秋』に寄稿していたと言います。小林によれば、その時の原稿料が1枚2円、「今日の二千円の稿料よりはいいだろう」(「文藝春秋と私」昭和30年)と言いますから、今の価格で言えば1枚3万円程度でしょうか。いずれにしろ、無名の一学生に払われる金額としては破格の原稿料だったことは間違いありません。にもかかわらず、「二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである」と言うのだから、いつの時代も青年の生意気さは変わらないと言うべきかもしれません。

若手批評家が感じた「疲労」

 けれども、そんな生意気盛りの小林秀雄に、文芸批評家としての成熟の機会を提供したのも『文藝春秋』でした。文藝春秋編集部は、「様々なる意匠」(『改造』昭和4年9月)でデビューしたこの若手批評家に、文芸時評で筆を振るうチャンスを与えるのです。

 最初、3カ月の約束で始まった文芸時評(連載名「アシルと亀の子」)でしたが、文壇事情に通じているわけでもなく、誰に気を遣うわけでもなく書かれた小林秀雄の文芸時評は、その難解さにも拘わらず、たちまち文壇の注目するところとなり、連載は1年に渡って延長されることになります(昭和5年4月〜6年3月)。

 ただし、ここで注意したいのは、その時すでに、小林秀雄が「批評家失格」との思いを抱いていた事実です。

 文芸時評連載中であるにもかかわらず、「批評家失格?」(『新潮』昭和5年11月)、「批評家失格?」(『改造』昭和6年2月)というエッセイを続けざまに発表した小林秀雄は、そのなかで、相手の揚げ足をとることに躍起になっている批評家と、そこに自分の名前がないかと怯える自意識過剰な作家たちとで構成されている文芸業界のバカバカしさと、そんな一般読者から遠く離れた世界に生息せざるを得ない自分自身の惨めさと……、要するに、任意のポジショントークに汲々とするだけで、自分の「直観」を正直に語ることのできない文芸業界に対する厭味をたっぷりと書き付けることになります。

 少し後のことになりますが、小林秀雄は、業界の習慣として続けられてきた文芸時評について、次のように語っていました、「月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言う事に疲労を感じて来る。いい加減やっているうちに疲労を感じて来ない様な人は、少しどうかしているのだと僕は思う」(「文芸時評に就いて」昭和10年1月)と。

 では、その「疲労」の中心にあった問題とは一体何だったのでしょうか。

 かつて、菊池寛は、文芸作品のなかには、表現技巧において評価される「芸術的価値」とは別に、一般読者が好む「内容的価値」(生活的・道徳的・思想的価値)があるのではないかと論じたことがありましたが(「文芸作品の内容的価値」『新潮』大正11年7月)、小林秀雄の「疲労」の中心にあったのも、それと近しい問題、言わば、文芸作品の価値基準に対する不信でした。

「一流作品」が見つからない

 たとえば、デビューから4年後、ということは文芸時評を担当してから3年後、「批評について」(『改造』昭和8年8月)のなかで、小林秀雄は次のように書いていました。

「正当な鑑賞のない処に批評は成りたたぬのは論をまたないが、文芸時評という仕事では、この正当な鑑賞という土台が既に事実上全く出鱈目である。作品を諒解する深浅は、成る程批評家の賢愚に準ずるが、これは大した問題ではないので、賢であれ愚であれ、一流作品の前では批評家は皆一応は正直な態度を強いられるものだ。」

 小林によれば、誰もが納得せざるを得ない「一流作品」が見つからないことと、それゆえに、文芸時評の明確な「土台」が見出せないこととは同じ問題でした。「名作」が見つからないからこそ、人々は、いつまでたっても「意匠」に囚われてしまうのであり、それが文学界に「混乱」を齎しているものの正体ではないのかと言うのです。

 では、なぜ、批評家に「正直な態度」を強いる「一流作品」は生まれないのか。小林によれば、それは、現代作家が、すでに「故郷」を失っていたからです。

「批評について」が書かれる3カ月前、小林秀雄は、「故郷を失った文学」(昭和8年5月)というエッセイを『文藝春秋』に発表していましたが、そこで議論されていた主題こそ、まさしく名作を生み出し、それを鑑賞する「土台」を失くしてしまった「抽象人」の問題でした。

「私の心にはいつももっと奇妙な感情がつき纏っていて離れないでいる。言ってみれば東京に生れながら東京に生れたという事がどうしても合点出来ない、又言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情である。〔中略〕自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性というものが大変欠如している事に気づく。〔中略〕この抽象人に就いてあれこれと思案するのは確かに一種の文学には違いなかろうが、そういう文学には実質ある裏づけがない。」

「文明開化」「富国強兵」の掛け声と共に、猛スピードで西欧化を推し進めてきた近代日本は、小林秀雄の言うように、「物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇」がなかったのです。とりわけ、明治35年(1902)生まれの小林秀雄の世代にとって、西欧化=近代化の流れは既定コースであり、それ以前にあった「日本的なるもの」――つまり、目の前の作品の良し悪しを決める故郷感覚や生活感覚は、すでに自明のものではなくなりつつありました。

浜崎洋介氏による「小林秀雄と文藝春秋」全文(20ページ)は、文藝春秋2022年10月号および文藝春秋digitalに掲載しています。

(浜崎 洋介/文藝春秋 2022年10月号)