それまでの3試合を振り返っても、三都主は途中交代で1試合に出場したのみ。西澤に至っては、これが初めての出場。誰が見ても、意外な選手起用だった。
「一番(の変更理由)はヤナギ(柳沢)のケガでした。当時は外に出せない情報でしたが、首を痛めてムチ打ちのような症状があったんです。トルコ戦にもベンチには入っていましたが、使うことはできない状態でした」
その一方で、「大会前に盲腸(急性虫垂炎)になって調整が遅れていた西澤は、コンディションが上がっていた」という。
「状態さえ上がってくれば、西澤はもともと主力で考えていた選手ですから、十分にいけると思いましたし、過密日程のなかでの疲労と新鮮さを考慮しての判断だったと思います」
では、もうひとりの三都主はどうか。西澤とは違い、日本代表ではそもそもFWに入ることがなかった選手を2トップの一角で配したのである。
だが、そこには事前の分析に基づくトルコ対策があったと、山本は明かす。
「トルコの右サイドバックが攻め上がった時の裏が空くので、そこを起点に崩すという戦略だったんです」
トルコの右サイドバック、ファティー・アキエルは非常に攻撃的な選手で、この大会でもDFながらチャンスメーカーとしての働きを見せていた。
しかしその反面、守備での反応が鈍く、日本が守備から攻撃への切り替えを速くすれば、背後のスペースを突くことができる。そんなスカウティング情報があったのだ。
「アレックス(三都主)を前に置き、相手のサイドバックが攻めに出た背後に流れて、そこから崩す、というのが我々の戦略でした」
ところが、である。
「トルコが超守備的で、サイドバックが全然攻撃参加してこなかったんです」
山本が苦笑いを浮かべて続ける。
「日本が狙っていた穴は、完全に埋められていて、アレックスが生きるスペースがありませんでした。
日本はまだ(前回大会まで)ワールドカップで勝ったことのない国だったから、相手のことを分析して格上相手に何とか戦おうと必死にやっている。でも、相手のトルコもそんなに勝ったことのない国だから、やっぱり開催国の日本をかなり警戒して、対策してきました。
経験のなさと言ってしまえば、それまでですが、相手のことばかり考えて自分たちがどうするかを決めても、ワールドカップの、それも決勝トーナメントになると、相手はそれをやらせてはくれない。相手も僕らのことを研究して、違うやり方をしてくるわけですからね。
日本相手に『そんなに守りを固めてくるのか』とは思いましたが、僕らもやられたくないように、彼らもやられたくない。そのなかでとるか、とられるか。結果は0−1でしたが、1点の重みを思い知らされた試合でした。
相手は守りを固めてくるかもしれないし、立ち上がりから前半勝負で一気に仕掛けてくるかもしれない。そういうことを想定して構えるというか、準備しないとダメなんだなと、あとになって気づかされましたね」
当時が2回目のワールドカップ出場だったトルコにしてみれば、開催国で勢いに乗る日本を相手に、それは当然の対応だったのかもしれない。
だが、日本にとっては予想外の"リスペクト"。完全に出鼻をくじかれた。
「事前の分析では、右からの攻撃がトルコの強みだと思っていたのが、まったくその逆で守備的に戦ってきた。もちろん、トルコが普通どおりにやってきてくれたら、分析が生きたとは思いますけど......」
結局、トルコ対策で起用されたはずの三都主は、前半のみの出場で交代。後半開始から代わって鈴木が投入されたのに加え、稲本潤一に代わって市川大祐が投入されたが、残り5分というところで、再び市川に代わって森島寛晃が投入された。
結果論とはいえ、チグハグな選手起用に終始した感は否めなかった。
「交代カードを1枚無駄にした感じになって、交代の交代はもったいなかった。そもそもトルコ戦当日が雨だったことを考えれば、先発はスピードのあるアレックスよりも、馬力がある(鈴木)隆行のほうがよかったのかもしれない。そういうわずかなことが積み重なって......、それでも先に1点とれていれば、とは思いますけど......ね」
しかしながら、"奇策"が失敗に終わったとはいえ、それだけが敗因ではなかったのもまた事実だろう。
「あの時のトルコはベスト4まで行きましたし、いいチームでした」
そう語る山本は、それと同時に、未知の世界に足を踏み入れた日本代表の経験不足を指摘する。
「もちろん、トルコに勝ちたいとは思っていました。でも、考えてみてください。
初戦でベルギーと2−2で引き分けて、ちょっと悔しい勝ち点1。でも、『初めての勝ち点1は新しい歴史だ。次だぞ、次!』って、試合後のロッカールームも引き締まる。
そして2戦目のロシア戦で、初めてワールドカップで勝ったわけですけど、そこでかなりエネルギーを使っている。
そのなかで3戦目のチュニジア戦。まだ決勝トーナメント進出は決まっていないからと、もうひと踏ん張りしてどうにか勝った。でも、前半は明らかに選手の動きが重かったですからね。全然動けないのを見て、『これはヤバい』と思っていました」
どうにか決勝トーナメントには駒を進めた。表向き、日本代表は勢いに乗っているかにも見えた。
だが、実際は心身ともに限界が近づいていた、のかもしれない。
山本が続ける。
「(当時の日本代表は)ベスト16でどう戦うかよりも、そこへ行くためにどうグループリーグの3試合を戦うか(が優先)、でした。
ベスト16へ行ったら、そこから先は別の戦い。その時にどのくらい余力があったのかと言えば......、どうしても気力は若干低下しますよね。それまでのように、牙をむいて獲物を狙う感じはなくなっていました。目標だったグループリーグを突破したことで、一定の達成感はあったんだと思います。
極端に言えば、もう満足していたのかもしれないですね」
(文中敬称略/つづく)
山本昌邦(やまもと・まさくに)
1958年4月4日生まれ。静岡県出身。国士舘大学卒業後、JSLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)入り。DFとして奮闘した。29歳の若さで現役を引退。指導者の道に進んだ。とりわけ、協会のナショナルコーチングスタッフとして手腕を発揮。U−20代表のコーチ(1995年、1999年U−20W杯※当時ワールドユース)、監督(1997年U−20W杯)、五輪代表のコーチ(1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪)、監督(2004年アテネ五輪)、A代表のコーチ(2002年W杯)を歴任。すべての世界大会に出場という、輝かしい成績を残した。現在は、指導者、解説者として奔走。