いや、率直に嬉しい驚きでした。

 前回連載(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70681)ランキングインしてくれればよい・・・くらいに思って出稿しましたが、初日の夜にはトップビュー、2日目以降も多くのアクセスをいただいています。

 冒頭に掲げた問題は、SNS上で議論を続け、コンピューターで解を求めてくださった方も出(https://twitter.com/novisoftware/status/1540626580623331328)大賑わいとなりました。

 改めて心からの感謝をお送りするとともに、その印として、別の問題を出してみましょう。図を見てください。

 何か、中学校で見たような、「ピタゴラスの定理」と似たような、しかし相当フザケた絵、ではない、図が出ていますね。

 名付けて「アタマの柔らかい人向け<ピタゴラスの定理>」。

 右の図や、特に「顔」が微妙に違うとか、細部を突っ込まないように・・・。

 出題から図まで時間のない私自身ですべて描いていますので、その種の細かいことはご容赦ください。

 実は、問1も問2も数学の人なら「自明」おわり!となります。しかし、多くの人にとっては、自明ではないかもしれない。

 そこで、その「自明」という人がAI化の進んだ2030年以降、雇用が確保されており「分からない・・・」という状態だと、職が残っているか、リスクが考えられる。

 それをみんな「分かった!」となる、東京大学が無料発信する「遊びの教室」(https://mitsishikawa.wixsite.com/musicmanufacture/jukugi20yugi8)のお知らせも記しておきます。

 先週の問題も、上のも原稿にすると無駄に長くなるので細かな解を連載には記しません。

 ご興味の方には、前題も含め哲学熟議「東京大学<遊びの学校>」(https://mitsishikawa.wixsite.com/musicmanufacture/jukugi20yugi8)へどうぞ。

 フリーウエブのストリーミングでも流し、当日も入場無料で行いますので、ご興味の方は予約申し込みしてお運びください。

 期日は 7月3日日曜、9日土曜と2回行います。ご興味の方は上記リンクから申し込みアドレスに必要事項を記入のうえ、お申込みいただければと思います。

 上の問題、特に右の図は、当初は「目鼻」などついていて、「ふざけているのか?」とお叱りを受けるかもしれません。

 しかし、子供が心を開いてくれるのは、こんなきっかけだったりもするという、40年来の経験から、卵に目鼻をつけた面があります。

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「笑うピタゴラス」の定理

 実際、私としては「真剣に遊んでいる」のです。当初はあのような目や口など入れていませんでした。

 しかし、一般に子供は目や鼻がついたキャラを喜びます。これは本源的な傾向です。

 だからといって、横にゆるキャラの挿絵がついているだけで、図はクソ真面目なまま、という凡俗と同様のことはしたくない。

 本質的でないゆるキャラをイラストレータに発注するだけの「おふざけ」は、私(というか教師だった私の母が)実は大嫌いなのです。やるんだったら本物で真剣に遊んだ方がいい。

 上に示した「定理」は、ドーナツのように中に穴があいていようと、相似形であればあらゆる場合に条件は成立します。

 ですから顔と明記せず、円形や半円形の穴があいたトポロジーでも成立する、そうしたことを言うなら、数学的な内実もあって、気が利いてていいや、ってな具合で、こんなふうに出題しました。

 そういう意味では随時「遊んで」います・・・と書いていた矢先、「遊び」の大先輩からお電話をいただきました。

 先ほど「東京大学 遊びの学校」のご登壇をお願いした甘利俊一先生から、何ともったいないことに直接電話を頂戴してご快諾いただきました。

「情報幾何学」という分野を創出された「ニューラルネットの生みの親」の先生です。

 ちなみに、学術的にはどうでもよいことですが、文化勲章も受けておられます。

 甘利先生は1967年、今日では「深層学習」と呼ばれるマシンラーニングの原点というべきニューラルネットの祖型「多層パーセプトロンの確率的勾配降下法」を定式化された、AIの歴史的パイオニアです。

 今から36年ほど前、私が学生時代に「位相数理工学」を教えていただいた頃も、今現在も、実によくお笑いになり、まさに数理と「戯れて」おられます。

 文化勲章の何のというのは、まあ、失礼にならない範囲ですが、どうでもよいことで、仕事が第一です。

 ナニ賞をもらっていようがいまいが、素晴らしい方、素晴らしい仕事は、素晴らしい。

 それが分かるのが真贋の別で、スカはスカでしかありません。はっきり言って、つまらない文化勲章も出ていると思うし、権威主義は犬のエサにでもした方がよろしい。

 甘利先生は40年前も、いま現在も「数楽」が服を着て歩いておられるような、歴史を創り出された真のパイオニアとして、今現在も日々、数楽と戯れておられます。

 真剣なゲームとして数理と「戯れる」というのは、囲碁や将棋、チェスやマージャンが「ゲーム」であるというのと同様、真剣な「遊び」だということです。

 また、ピアノやバイオリンなど楽器を演奏するのも「プレイ」と言いますね?

 動物がいのちを繋ぐためにエサを集めたり、天敵から逃れるために身を隠したりするのは「遊び」とは言い難い。

 でも、そうした行動以外のあらゆる動物のアクションは「遊び」としての解釈が可能です。

 例えばプーチンの愚かな戦争も、言葉の正確な定義に従って「遊び」と言って構わない。

 しかし、プーチンの遊びで現場に投入されるロシア兵にとっては、ことは遊びでは済みません。

 つまりホイジンガやカイヨワが予言的に分類したような「遊び」は、対象によって決まるのではなく、クロード・シャノンの情報理論よろしく、認知観測の仕方によって変化してしまう。

 こうした観点に立ってホイジンガの「遊び論」をシャノン情報学流に書き改める必要があります(ただし、そういう理論的な仕事をする人がいないので、結局自分自身でやっているわけです)。

ハシモトホーム事件が教える文科行政の誤り

 これ、何も難しい話ではありません。最低最悪の、反語的な例で平易に解説しましょう。

 東北地方の「ハシモトホーム」なる中小企業で、新年会の余興として「表彰状」ならぬ「症状」なる代物を発行(https://www.asahi.com/articles/ASQ6T6TG2Q6TOXIE016.html)、イジメを受け翌月に自殺した社員の家族が提訴(https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000258858.html)した事件が報道されています。

 イジメは加害者にとっては「遊び」半分、会社側は「あれは新年会の余興だった」と強弁しているようです。

 しかし被害者にとっては遊びで済む話であるわけがなく、イジメの度が過ぎれば鬱を発症して取返しのつかないことになったりもする。

「イジメ」という行為そのものは「クロード・シャノン流の認知観測」は分かりにくいので、これは「遊びの学校」で説明します。

 この観点から、複数の解釈が可能になる。この結論は明確です。

 同じ「症状」ごっこが、社長会長には「お遊び」、ハラスメントでもてあそばれた側には遊びでは済まず、鬱を発症する引き金になった可能性がある。

 ふざけた「症状」の弁護士提供画像(https://news.yahoo.co.jp/articles/17e5f9c4ae9816c26dcb5cbba5fa85a7ee2b5d61/images/000)は、新年会の余興として社長、会長にとっては最悪の「遊び」でもあり得たでしょう。

 しかし、上のリンクでモザイクになっている「会長」名付近には、朱色分布しており、捺印されている可能性が考えられます。

 もしこれが、そこに文字が書かれている「会長」の公印であるなら、こんなものを捺された社員側では「遊び」で済む話ではなくなります。

 この先こんな会社にいて、自分はどうなるのか、こんなもの家族にも見せられない・・・と絶望し、鬱を発症する引き金になって当然です。

 こうした事実は冷静に直視する必要があるでしょう。

 こうした「まじめ」と「遊び」の転換を、プラスの方向で考える必要があります。

 そしてその意味で、「遊び」の側面を日本社会がこぞって、極端にそぎ落としているのが「勉強」だと思うのです。

 そのようなつまらない「お勉強」に貶めてしまった、文部科学行政の罪たるや、絶大なものと言わねばなりません。この詳細については、別の機会に具体的に記したいと思います。

教室を「地獄」から「真剣なあそび場」へ

 多くの人にとって「勉強」は「苦痛」の記憶しかないかも知れません。

 しかし学校の教室で月曜の1限から土曜まで行われている何事かを「遊び」だと「認知観測」している人間もいるのです。

 実の所、幸運にも私自身はそういう記憶が強く、今現在も東大生を相手に、知的遊戯の技法を教えつつ、ラボとして新たな物理現象の発見をサポートしたりしています。

 率直に記しますが、私の母校(私立武蔵高等学校中学校)は「勉強」という意識がほとんどないところで、授業から放課後のクラブ活動、学園祭から遠足まで、すべてが「遊び」という記憶しかありません。

 もしかして、私一人の錯覚ではないかと自分ツッコミし、上下20学年くらいの同窓先輩後輩に訊いてみましたが、同様のレスポンスでした。

「勉強」と呼ばれるものは「ハシモトホーム」事件同様、取り組みによっては「遊び」にもなれば「イジメ」にもなる。

 そして、会長印が捺されたかもしれない「症状」と同様、「通知表」や「合格/不合格通知」の類は、それによって自分の人生が決定されてしまうかもしれないという「烙印」になることで、「あそび心」を消失させてしまう。

 そういう「ホイジンガ=カイヨワ=シャノン的構造」を指摘するところから「東京大学 遊びの学校」は真剣に「問題を遊び」ます。

 教室を空疎な「真面目の身振り」のパントマイムから、真剣な「子供の遊び場」に取り戻さねばなりません。

「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動るがるれ」

 後白河法皇が愛好した「今様」、平安末期、法皇が編ませた「梁塵秘抄」(1180頃)の中でも、最も名高い「童心の歌」です。

 実際、子供というのは、放っておけば遊び始めるものです。

 その自発性の延長で、ピアノやバイオリン、サッカーや野球と「真剣に遊んだ」人間が、その道のプロになっていきます。

 才能あるサッカー選手は「手玉に取る」ように敵からボールを奪っていきます。相手の筋の弱いところが全部透けて見えてたりする。

 そういう「余裕」と、特にミスへの「ツッコミ」の力が、関西人では日常会話のセンスとして必須不可欠とされるようです。

 我が家もルーツは神戸で「男は30秒に1回はセンスを持って人を笑かさんといかん」という教育を受けました。

 そのためか、私のレッスンやゼミナール、あらゆる講義は常にニヤニヤしながら行うわけです。

 この「ツッコミの力」こそが、2030年以降、AIがはるかに普及した日本社会で、現行の50%と言われる職種が「蒸発」したのち、残る仕事と思って外れません。

 簡単な話です。

 スーパーのレジで、いしいひさいち描くような大阪のオバちゃん(https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93.jpg)が会計しているとしましょう。

 商品の値段、バーコードが読み取る数字の一つでも目を皿のようにしてチェック、売り場で見たのと違って1円でも高ければ「あんたその値段、間違ってんのとちゃう?」とツッコミを入れるかもしれない。

(逆に1円でも安ければ、黙ってニヤニヤしていそうです)

 また足し算も決してレジ任せにするのでなく、常に暗算で並行チェック。合っていれば「よし!」。

 間違っていたら「あんたその値段・・・」と自分の計算間違いでも、レジの子にツッコミを入れたりする・・・。

クリエイティブ教授は大阪のオバちゃん似

 この「オバちゃん状態」は、大学院のゼミなどで、水を得た魚のように数理物理など展開する院生や助手と大差ありません。

 というか少しでも気の利いた、クリエイティブな大学教授の研究チェック、学位論文審査なども、まあ似たようなものです。

 一つひとつすべて目を皿のようにして見て、ちょっとでもミスを見つけると「あんたそれ・・・」とやる。

 それを知的ゲームの愉悦として指摘する。

 エンリコ・フェルミやリチャード・ファインマンのような学風、ウチもその芸風ですが、性格の悪い「ビートたけしのこにくらじいさん」風(1984年のドラマですが、中身は大体お察しいただけるでしょう)でやるかによって「あの先生は鋭い!」となるか「うちの研究室のゼミは地獄」になるかの分かれ目になる。

「ハシモトホーム」的なゼミがあれば現在ならアカハラですが、私が10代で師匠から受けた音楽のレッスンは軒並み「イジメ」ならぬ「カワイガリ」でしたので、ああいうことだけはしまい、と固く心に誓っているわけでもあります。

 2030年、AIが普及した時代、雇用が大幅に削減ないし消える「蒸発する仕事」として以下のような種類が挙げられます。

「一般事務、銀行員、一部の接客を覗く窓口業務、小売店のレジ、タクシーからトラックまで様々な運転手、建設作業員、非熟練工・・・」

 これらの職種で「普通にこなす仕事」は自動化されるでしょう。

 その時残るのは「ツッコミ」を入れる力、あるいは顧客から「ツッコミ」が入ったとき、さっとそれに対応できる力のある人とされています。

 そこで求められるスキルとして、「非認知能力」という言葉がよく使われます。ただし、これまたよく理解されないまま、教育現場に混乱を巻き起こしている様子です。

 それらを一刀両断する必要があるので東京大学「あそびの学校」を始めることにしたわけです。一言で言えば、AIが叩き出してくる結論に「あんたそれ、まちごうてるよ!」と瞬時で言える能力が求められている。

AI社会の雇用を保障するツッコミ力

 今でも地方のローカル線駅では見られると思いますが、都市部でも40代以上の人はご記憶でしょう、かつて駅の改札には、必ず切符切りの駅員さんが鋏をもって張り付いていました。

 あれが現在の「自動改札」になる状態が、2030年の「AI社会化」と思えば、大きく外れない。それがいろいろな職種で起きる。

 でも自動改札の横に1人程度は窓口に駅員スタッフが張り付いているのは、しょせん機械は頭がなく、愚かなミスを平気で犯しつつ無頓着なので、顧客がトラブルになったとき、それをサッと解決する必要があるからです。

 2030年もほぼ同様と考えて外れません。

 そこで求められる能力ないし「脳力」とは、以下に示す標準的な「ピタゴラスの定理」を「本当にきちんと理解」し、冒頭の問題を見た瞬間「!」と直感的に正邪の判断がつくセンスです。

 自明なことが自明と分かること。それが人間ならではの「センス」=感覚・意識・意味・判断力です。

 人間らしいセンスをもった人材を育てなければならない。学齢の教育はもとより、社会人、シルバー人材に至るまで、国がやるべきことは実は山のようにあります。

 AI・人工知能の出力を唯々諾々と「真面目に」受け止め右往左往する人は、2030年に雇用が確保されるか怪しい。

 近未来社会で求められるのは「真面目」だけど「愚直」なことしかできない「AI君」の出力を見て「あたりまえでんがな」とその正気さを確認でき、またオカシな出力があれば「むちゃくちゃでござりまする」あるいは「アホかいな!」と鋭くツッコミを入れ、システム異常を常軌に戻せる「正気」を持った人材ということになる。

 それが「人間らしい」ちゅうことになるのんと、ちゃいますやろか?

 そしてその育成のコツは学校の教科からスポーツ、ゲーム、パフォーマンスに至るまで「あそびの精神」で分別する「大阪のオバちゃん」的感覚の養成にあるかも、というのが、ここでの作業仮設、提案になるわけです。

 というわけで、東京大学「あそびの学校」は前回稿(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70681)で言及した「検定不合格・数学教科書」と同様、対面だけ取り繕ってしかつめらしく、その実中身のない「真面目風」の不真面目を一掃し、真剣にプレイする試みにほかなりません。

「ハシモトホーム」事件のような悲惨は、内部に矛盾を持った組織が、多くの不満をそらし、一過性のはけ口としてスケープゴートを仕立てて溜飲を下げるという、質の低い「供犠」であると、亡くなった山口昌男さんやクロード・レヴィ=ストロースなら言うかもしれません。

 そうではない、退屈なルーチンワークしかできないAIという「中心」と「周縁」とを転倒する「祝祭的空間」として、学校が本来の童心の領域、「こどものあそび場」に戻る必要がある。

 あらゆる細部に「あそびとツッコミの愉悦精神」が満ちた、楽術本来の酸素に満ちた血液が行き渡った「日本の教育」は、GHQと戦後横並び教育によってここまで破壊されてしまいました。

 これを、識字率50%弱の日本を99%以上にした「1920年の教育改革」の原点に戻って、今一度再生する必要があります。

 空洞化した教育に中身を再び充填することで、2030年以降も雇用が確保され、所得水準も維持、社会のAIデバイドなど階層分化、貧困固定化などを防がねばならない。

 私が育った20世紀後半、場末の基地の町では(教師の母は父の死後、地元「母子会」の副会長としてヤンママたちが泣くのを聴く役目になっていましたので)、仕事のない寡婦が夜の商売で子供たちを育てざるを得ない様々な悲惨を私自身目にしています。

 その記憶が去来するわけです。

 ウクライナの戦後でも、旧約聖書の昔でも、1945年以降の日本でも、そういう現実は繰り返されてきた。そんな未来のディストピアを、みすみす放置して出現させてはならない。

 人間が、人間ならではの、人間らしい能力を発揮して、自動改札機と大差ない「電気無脳」AI人工知能の犯すミスを正し、雇用が確保され、社会の好循環を確保する「2022年教育改革」によって「失われた40年」を食い止めるべきだと思うのです。

筆者:伊東 乾