「これはすごい投手になる」
人生初の全国大会。人生初の神宮球場のマウンド。断続的に雨が降り続く悪コンディションをものともせず、稲川はスコアボードにゼロを刻み続けた。
試合後には大勢のメディアに囲まれ、緊張からかややこわばった表情で「こんな結果を出せると思ってなかったのでうれしかったです」とコメントした。
まぎれもない本心だろう。何しろ1年前の今ごろは、全力で腕を振ることすらままならない状態だったのだから。
稲川は福岡県の折尾愛真出身だ。高校時代の実績はほとんどない。それでも、九州周辺からはこんな噂が聞こえてきた。
「折尾愛真に江川卓(元巨人)みたいなピッチャーがいる」
隠し玉ドラフト候補を紹介する雑誌の企画で、稲川に会いに行った。身長182センチ、体重88キロの立派な体格に、いかにも無骨そうな顔つき。期待は一層高まったが、ブルペンで投球練習する稲川のボールは目測で130キロ台前半程度のスピードしかなかった。
前年の8月に走塁練習中に左足首を骨折しており、以来「体重移動のタイミングがかみ合わない」と全力投球ができなくなっていたのだ。
だが、「令和の江川卓」の片鱗ははっきりと見てとれた。球速は130キロちょっとでも、きれいなバックスピンのかかったボールはホップするように捕手のミットを突き上げた。当時、私は雑誌でこのように書いている。
<まるで大型のダンプカーが徐行運転をしているかのような不気味さ。全力で腕を振れば、とんでもないボールを投げるのではないか......。>(『野球太郎』No.039より)
当時、監督を務めていた奥野博之さん(現・折尾愛真学園野球部GM)は「本当にいい時の稲川を、まだどの球団の方(スカウト)にも見ていただけていないんです」と惜しんだ。「本当にいい時」の投球内容を聞いて驚いた。2年夏の練習試合で6イニングを投げ、15奪三振をマークしたという。江川卓は1973年春のセンバツで9回20奪三振の快投を見せているが、「令和の江川卓」も本家に迫る奪三振ショーを演じていたのだ。
スポーツドクターの名医である原正文(久恒病院院長)は、稲川の下半身の肉付きを見て「これはすごい選手になる」と評したという。身長も完全には止まっておらず、発育段階にあった。
そして印象的だったのは、稲川に剛腕にありがちな「速い球を投げたい」といった野心があまり感じられなかったことだ。稲川はこんな投球哲学を語っていた。
「自分は勝てるピッチャーになりたいです。勝たないと面白くないですから。リズム、テンポがよくて、流れを読めるピッチャーにならないと。ここは絶対に抑えないといけない場面でしっかりと抑えられれば、勝てるピッチャーになれると思います」
全国初舞台で完封勝利
だが、同年夏の福岡大会で折尾愛真は5回戦で敗退。稲川は本来のボールを取り戻せないまま、高校野球を終えている。同秋にはプロ志望届を提出したものの指名漏れに終わり、九州共立大に進学している。
九州共立大の上原忠監督から「春先のオープン戦から使ってみるね」と言われた奥野さんは、苦笑しながら「無理でしょう」と即答している。「稲川が戦力になれるとしたら、大学3〜4年からだろう」という思いがあったからだ。
そんな恩師の思惑とは裏腹に、稲川は大学入学直後から猛烈な勢いで台頭する。伝統的に好投手を輩出してきた九州共立大でリーグ戦の先発投手に抜擢され、春のリーグ戦で4勝0敗、防御率0.62をマーク。10年ぶりの大学選手権出場に大きく貢献した。
東北福祉大との大学選手権初戦では、上原監督が「うまくハマってくれたらいいな」と先発マウンドに稲川を送り込んでいる。
稲川は「いつもより緊張しなくて、おかしいな」と半信半疑ながら、立ち上がりから平常心で投げ続けた。球速は常時140キロ台前後と、目立つ数字はない。それでも、高めに伸びていく稲川のストレートに東北福祉大打線は次々と空振りしていく。大きな体といい、力感のない腕の振りといい、まさに「令和の江川卓」ならではの投球だった。
稲川はカーブ、スライダー、スプリットの変化球も効果的に使い、150球を投げ抜いて全国初登板を完封で飾ってみせた。
試合後の会見では、上原監督にOBの大瀬良大地(広島)と比較する質問も飛んだが、上原監督はこう応じた。
「大瀬良が1年生の時(2010年)は1回戦で負けて、彼もリリーフで投げただけでした。でも、まだまだ大瀬良と比べること自体早いですし、おこがましいです」
その言葉どおり、稲川には課題も多い。高校時代の恩師である奥野さんも「技術的にできないことがたくさんあります」と認める。そして、奥野さんはこう続けた。
「だからこそ、4年間でどれだけ成長するか楽しみですよ」
東北福祉大戦後の記者会見が終わり報道陣の輪が解けると、稲川がこちらに気づいて挨拶に来てくれた。「1年前からは想像もできないことになったね」と声をかけると、稲川はようやく緊張が解けたのか顔をほころばせてうなずいた。
令和の江川卓・稲川竜汰は4年間でどこまで成長するのか。ロマンに彩られた大学野球生活は、まだ始まったばかりだ。