1月4日午前9時。プロ入り26年目のシーズン開幕に備え、中村は彼を慕う若手・中堅選手たちと自主トレを開始した。
美しい緑の上でジョギングや軽めのダッシュを終えると、5人の選手たちが2人の鬼役にボールを取られないよう、限られたスペースのなかでダイレクトパスを回していく。なかにはJ1クラブの主力も複数人いるが、中村の足さばきは群を抜いている。今年6月に44歳を迎えるレフティの技術は、今も日本トップクラスだ。
数カ月前、スポーツ紙の記者たちは中村の去就を追いかけていた。横浜FCに所属した2021年はわずか12試合の出場で、0ゴール、0アシスト。中村自身、"その時"を覚悟したと明かす。
「そもそも、1年契約だからね。結果も出ていないわけだし。自分のなかでの引退のタイミングというか、クラブからオファーがあるかも含めて、"そろそろかな"っていうのがあったかな」
桐光学園時代から注目を集め、横浜F・マリノス、イタリアのレッジーナ、スコットランドのセルティック、スペインのエスパニョール、そして日本代表で栄光のキャリアを歩んできたが、2017年にジュビロ磐田に移籍して以降はかつてのような輝きを見せられなくなってきた。
長年の激闘を重ねるなかで肉体に負担がかかり、加齢による衰えとも向き合わなければならない。いつか"その時"を迎えるのは、己の体で勝負するすべてのアスリートにとって不可避なことだ。
【自分のサッカー感は間違いじゃない】
「サッカーだけに向き合って、燃え尽きたい」
愛着という言葉では片づけられないほど思い入れがあるマリノスを2016年限りで退団し、新天地のジュビロに移る際に中村はそう言った。当時から5年が経ち、横浜FCで43歳を迎えた2021年後半、中村にはある種の充足感があった。
「サッカーと向き合うことがこの半年でできたから、もう満足っていうか、いいかなっていうのはあったんだけどね」
2021年は12試合で0ゴール、0アシストに終わったが、決して数字には表れない感覚が残った。苦しんだ過去2年とは、明らかに違うものだった。
「最後の5節ぐらいを交代出場で出て、流れを変えられたんだよね。その感触で、『なんかまだ、できるんじゃないかな』って。あれがなかったら、早さん(早川知伸前監督/今季はコーチ)がいなかったら、やめちゃっていたかもしれない。またグラウンドに入ってプレーしたら、自分のサッカー感はやっぱり間違いじゃないって確認できたから。自分の感覚を戻せたことが、すごくよかった」
2019年途中、中村は出場機会を求めてジュビロから横浜FCに移籍した。クラブにとって13年ぶりのJ1昇格に貢献したが、翌年はリーグ戦で10試合の出場に終わる。故障を除き、サッカー人生で初めて"ベンチ外"という状況に置かれた。
「40歳とか41歳で、初めて何もないのにベンチ外になった。ベンチ外の選手用の練習とかもあるし、屈辱的だったよね。ワールドカップの南アフリカの大会中みたいな感じだった」
31歳で迎えた2010年W杯南アフリカ大会は、サッカー人生の"集大成"と位置づけていた。
だが開幕直前、岡田武史監督が戦い方を変えたなか、思うように調子を上げられなかった中村は日本代表の中心選手から控えに回る。チームがベスト16進出を果たした一方、わずか26分しかピッチに立てなかった。それでも、川口能活らとともに積極的に声を出すなど、サポート役としてチームを支えた。
【やっぱさ、サッカーってこうだよな】
同大会を最後に、中村は日本代表を引退。マリノスでのプレーに専念し、35歳となった2013年には当時現役最年長でJリーグMVPに輝いた。何度も屈辱を乗り越えることで、中村はサッカー人生を豊かなものにしてきた。
ジュビロで思うようにプレー機会を得られなかった2019年途中、新天地に横浜FCを選んだのは、"生きる伝説"を間近で見たい気持ちが強かった。
「俊輔、サッカー、楽しいな」
三浦知良にかけられたこのシンプルな言葉は、中村を強く前に駆り立てた。
「カズさんは朝早くからストレッチをして、帰るのはチームで最後とか言われるけど、それより"見えない部分"を知りたかった。サッカーに対しての熱量だよね。(川口)能活さんやボンバー(中澤佑二)も見てきたけど、そういう人をもう1回見て、自分に刺激を与えたかった」
50歳を超えて現役を続ける三浦と、中村は横浜FCの"ベンチ組"でチームメイトになった。紅白戦で対峙するのは、もちろんレギュラー組だ。
当時の下平隆宏監督が志向したのは、いわゆる"はめるサッカー"だった。チームの心臓には戦術があり、選手たちの立ち位置は細かく決められている。そうして集団でプレスをかけながら、相手のボールを奪うサッカーが求められた。
対して、サブ組は単なる"相手役"に収まらなかった。中村が相手DFの裏にスルーパスを狙ったかと思えば、三浦は前線から降りてきてボールに触わる。中村が三浦にパスを当てて、もう1度もらって攻撃を組み立てていく。
レギュラー組とは異なる展開をすることで、相手の選手たちに距離感のズレが生じた。サブ組はワンツーのパス交換を面白いように決め、攻勢を増していく。
かたや、立ち位置が細かく決められているレギュラー組は、「きれいに崩したい」という罠に囚われた。そうして横浜FCのサブ組は、レギュラー組に数週間続けて勝利した。
「俊輔、サッカー、楽しいな。やっぱさ、サッカーってこうだよな」
日本サッカーの"キング"にかけられた言葉は、中村にとって特別に響いた。
【自分のサッカーは時代遅れなのか】
「カズさんの経験からしたら、もうわかっているわけよ。サッカーってやっぱり、こういうもんだよって。『楽しいな』ってことは、自分らで考えて、お互いの発想をすり合わせて、いろんなパイプを作ってできた時に、めちゃくちゃ力が引き合わされる。『サッカーで会話する』ではないけど、それが『楽しいな』に込められている。俺には、すごい勇気が得られる言葉だった」
故障しているわけでもないのにベンチから外れることは、中村にとってこのうえない屈辱だった。それでも自身が置かれた状況を受け入れ、力を尽くした。
中村にとって在籍3シーズン目となる2021年。横浜FCは開幕から6連敗を喫し、8試合を終えて1分け7敗の最下位に沈んだ。クラブは下平監督を解任してユースから早川監督を昇格させたが、盛り返すことはできず、2試合を残してJ2降格が決定した。
低迷するチームにあって、40歳を超えてベンチから外れる試合が続いた中村は、「自分のサッカーはもう時代遅れなのかな」と感じることもあったと振り返る。だが、それでも前に進むことができたのは、三浦にかけられた言葉が大きかった。
サッカー、楽しいな----。
「その言葉には、いろんな意味が込められているからね。カズさんもヴェルディでそういうサッカーをやってきて、チャンピオンになってきたわけじゃん。現代サッカーも大事だけど、でも、『サッカーの根っことして大事なのはこれでしょ』みたいなことを毎回練習で確認できたことが大きかった」
三浦に背中を押されながら自身のやるべきことを続け、2021年シーズン終盤、早川監督からラスト5節のうち4試合でピッチへ送り出された。戦いの場に立つと、「自分のサッカー感は間違っていない」とあらためて感じられた。
そして新年まで残り1カ月をきった頃、横浜FCから1年契約の再オファーが届いた。
【このままでは終わりたくない】
「早さんが監督になってから、チームメイトの自分らしいプレーが増えていった。そうすると楽しいし、自分のプレーに責任感も出てくる。チームとして"はめすぎない"ことで、サッカーの楽しさをまた感じられた。自分ももっと勝負したい。戦いたい。そういう気持ちが強くなっていったね」
迎える2022年の舞台は、3シーズンぶりのJ2だ。それもまた、中村にとってモチベーションになる。
「落としてしまっていなくなるのではなく、取り返したい。スポンサーや会長の小野寺(裕司)さんたち、みんなが一生懸命なんとかしようとしてくれたりした。それでも落としちゃったから、このままでは終わりたくない。横浜FCにもまたオファーをしてもらえたから。チャレンジだね」
2022年に44歳を迎えるレフティは、また新たな挑戦心を胸に、芝生の上に立つ。
(後編につづく)