昭和59(1984)年10月、中曽根康弘が自民党総裁「再選」となって間もなく、田中角栄が語った“中曽根首相評”である。
時に、田中は金脈・女性問題で首相退陣、その後、追い討ちをかけられるようにロッキード事件に関与したということで逮捕され、裁判で疑いを晴らすべく悪戦苦闘の日々であった。
自らの退陣後、政権は自分の思惑を離れた三木武夫、福田赳夫と続いた。しかし、このままでは最大派閥である田中派の領袖といえども、影響力の衰退が必至である。そういった危機感の中、福田の次には「盟友」の大平正芳を、その大平が急死したあとは鈴木善幸を率先して担ぐことで、田中は影響力の温存に成功してきた。ただし、鈴木は政権としていかにも頼りなく、そのあとに担いだのが中曽根ということであった。
そのときの昭和57年11月の自民党総裁選は、あえて世論の批判をかわすように、最大派閥ながら田中派からは候補を出さず、田中は派閥として中曽根を推すことにした。他の候補は、河本敏夫、現首相の安倍晋三の父・安倍晋太郎、中川一郎であった。結果は、田中がバックについた中曽根の圧勝であった。
だが、田中は第1次中曽根内閣に、政権の“お目付け役”として腹心の後藤田正晴官房長官をはじめ、田中派からなんと6人もの入閣をゴリ押ししたため、中曽根内閣は、田中の影響をもろに受けた内閣として、「直角」「田中角影政権」、あるいは「田中曽根内閣」などとも揶揄されていた。
ところが、中曽根内閣のもとでの影響力温存という田中の思惑は、2年後の中曽根「再選」が近づく頃には“亀裂”が生じつつあった。世論、自民党内から、なお「闇将軍」として影響力を発揮する田中に対して、さすがに批判が高まる一方、田中派内でも自らの派閥から総裁候補を出せぬ不満が高まりつつあったのだ。また、中曽根に対しても、必ずしも田中派の意向通りには動いてくれないではないか、との不満もあった。
中曽根「再選」の時が近づくと、ついにと言うべきか、長く一枚岩を誇ってきた田中派に異変が起きた。田中とは側近として「合わせ鏡」とまで言われた副総裁の二階堂進が、田中派内の小沢一郎(現・国民民主党)ら中堅議員、あるいは他の自民党勢力のほか、公明、民社両党をも巻き込んだ形で、「再選」を目指す中曽根への対抗馬として名乗りを上げたのだ。田中派内に起こった初めての“反乱劇”であった。
★「中曽根政権はボロみこし」
結果、最終的に田中派の総会で、反乱劇は田中の次のような一言で落着した。
「諸君! この国の政治は、われわれが本流だ。カゴに乗る人の一方で、そのカゴを担ぐ人、そのまたワラジを作る人がいる。諸君たちだ。私は敬意を表する」
まさに、田中の“鶴の一声”によって、田中派は中曽根の「再選」支持を決めたのだった。時に、田中派幹部だった金丸信(のちに副総理)も、こう挨拶したものだった。