提供:週刊実話

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 それまで「門前の小僧」よろしく、田中角栄の「選挙プロ」ぶりを見て育った小沢一郎は、二階堂進幹事長を補佐する立場の総務局長ポストに就くや、選挙でその手腕をいかんなく見せつけた。田中が病魔に倒れる前の、昭和58(1983)年のことである。

 この年1月、田中がロッキード裁判一審で、懲役5年(追徴金5億円)を求刑された。ある程度、予想された事態とはいえ、自民党にとっても、改めて“震度5強”に見舞われた感があった。そうした中で、この年は4月の統一地方選、6月の参院選、そして8月には旧中選挙区制のもとでの衆院京都2区の補選が待っていた。どう乗り切るか。小沢の“腕力度”が問われる形になったのだ。

 結果、統一地方選では知事選で自民党系候補の取りこぼしがあったりで、まずまずであった。一方、それまでの「全国区」を「比例代表」と改めた公職選挙法改正後、初めての選挙である参院選は、自民党は前々回より5議席増、前回より1議席減と、逆風の中でこちらもまずまずの善戦であった。小沢の「田中角栄の“秘蔵っ子”」はすでに知られており、各地からの応援要請に応じた小沢は、党本部にいる時間はほとんどなかったものだった。

 そうしての、衆院京都2区の補選である。この地は伝統的に共産党が強いうえ、折りから自民党には逆風が吹いている。定数2の争いだが、二階堂幹事長ら執行部は「候補を1人に絞り、確実な当選を目指すべき。2人擁立では、共倒れの可能性がある」としたのだが、小沢だけが2人擁立を強く主張、譲らなかった。結局、小沢が押し切った形で、自民党公認は、野中広務、谷垣禎一の2人が出馬した。結果は、見事に2人当選であった。当時を取材した政治部記者の証言がある。

「裏では田中もだいぶ動いたが、小沢がやった2人の“票割り”がドンピシャだったのが大きかった。選挙結果が出たあと、中曽根康弘首相が目を丸くして言っていた。『あの小沢君の票割りは、まるで“名手術”を見るようだった』と。逆風の中での補選の完勝、参院選の善戦が、以後、小沢の『選挙プロ』の名を定着させたと言ってよかった」

 このとき当選した野中は、やがて自民党幹事長となり、その後、自民党を割って新党へ走ることになる小沢とは、連立などをめぐってたびたび丁々発止を繰り広げることになる。野中はのちに、小沢を評して「あの独断専行の思い上がりが変えられるだろうか」と、小沢の“唯我独尊”ぶりに危惧の念を述べたものだった。

 この選挙後、小沢は総務局長のポストを降り、衆院の議院運営委員長となった。この議運委員長は、国会の会期、進行などについて野党と調整していくポストである。国会対策委員長が野党と“裏”折衝をやるのに対し、議運委員長は“表”での調整ということになる。議運、国対の両委員長とも、調整能力と決断力が問われることは言うまでもなく、ここでも田中の小沢に対する「親心」があったと、田中派幹部の次のような声が残っている。

「田中は、小沢を“裏技”で揉まれる国対畑はあまり踏ませたくなかったようだ。一方で、時に田中をめぐる議員辞職勧告決議案が衆院に提出されており、これを自民党としてどう取り扱うべきか、小沢議運委員長に託したという側面もあった。結果的には決議案をウヤムヤに持っていったことにより、田中は感に耐えぬように『一郎は大したもんだ。ハラがすわっている』と言っていた」

★「ワシをはずす気か」
 黙々と汗をかくことの多かった小沢だったが、総務局長、議運委員長のポストを踏む頃にはハッキリ物を言い、自民党内での存在感は一気に高まり、先の野中の「独断専行」が、顔を出し始めたということであった。そうした背景には、ロッキード裁判を抱える田中の政治的影響力に、影が射し始めていたことと無縁ではなかった。