現在劇場公開中なのでネタバレ注意
かなり面白かった。
スピンオフ元である『怒りのデスロード』同様、社会的な含意を読み取ることも可能にしつつ痛快なエンタメとして鑑賞することもできる柔軟さを持ち合わせていて、前者を重視する層と後者を重視する層とで鑑賞後に生じる心境は食い違うものになるだろう。俺は後者のエンタメ至上主義に属している。劇場まで足を運ぶのはエンタメとして映画を観るためであって、厳格なテーマを学ぶなら本やドキュメンタリーの方がいい。
シャーリーズ・セロン以外にフュリオサを演じられるやついるの?などとたかをくくっていたが、アニヤの鬼気迫るオーラはすばらしい。彼女は全身からアニマにいたるまで全てがフュリオサと化していた。
幼少期の聡明ながらか弱い子供時代のエピソード───使命を優先できなかったことで母を無駄死にさせた上にディメンタスの所有物兼家族の代替物に堕とされてしまうくだりは初見時、この先の展開がこのようなものであったら退屈になるだろうなどとわずかに不安がよぎったが、シタデルに到着し、イモータン・ジョーとディメンタス一味が対面してから一息に盛り上がりが増している。
■ジャックのタンク護送以降の展開の密度とテンポが完璧だった
敵対勢力がウォー・ボーイズの爆弾槍をメタッてまさかの空中爆撃!
戦前の価値観を継承した理解者の登場!
ディメンタス一味のアンブッシュに対しての奮闘と無残な結末...
腕を切り落として脱出しそのまま急こう配をバイクで駆け抜けるフュリオサ
シタデルに帰投後、髪を切り落とし義手を作成し見慣れたフォームへ変貌するフュリオサ
リクタスとスクロータスを置き去りにして勝手に独りで追走するフュリオサ
その後ろ姿を指さすヒストリーマン
"That is The DARKEST OF ANGELS" ヨハネ黙示録「第五」の騎士
カーチェイスにおいては敵に追われながら戦う一方だったこれまでから一転、冒頭のババリーニ同様に追う側/狩る側として復讐を貫徹するフュリオサ
ディメンタスとの決着、フュリオサの決断と未来
■フュリオサの選択
ここかなり興味深かった!
ディメンタスは普段の振る舞いに反して厭世主義者で、理性的な葛藤を捨て去りウェイストランドへの適応には成功したが、ただそれだけとなってしまった人間。おそらく最も大切だった存在を失ったことが彼に悪影響を及ぼしたのであろう、本音では何もかもどうでよくなっている面は、生業にしている暴力さえも楽しみきれず「飽きた」と口にするくだりに表れている。一方フュリオサは理性を保ち、鉄の意志を貫きつつも、「心の中に獣を飼っている」と評された復讐者。THE DARKEST OF ANGELS
ディメンタスが説く、お前は俺と同じ殺人者にすぎない的な最後のスピーチはいかにもヴィランの負け惜しみで退屈だが、問答の決着が私的な復讐の完遂であり、なおかつディメンタスの虚無的な主張を完全に否定するものとなっているのがすばらしい。(ジャックの強制ダッシュと母の磔両方をやり返した上で、ディメンタスを果物が成る木の土壌に改造)
フュリオサの出身地”緑の地”は現代寄りの倫理観を保っていたであろう理想郷で、そこで生まれ育った彼女は地獄のバイク軍団やシタデルの生活を通してどれだけ彼らの残虐性に染まっているのか?フュリオサがカリスマとスピーチ極振りのディメンタスに惑わされないだけの自己を確立しているか?ウェイストランドに暮らす人間は破壊と死しかもたらせないのか?こうした諸々のポイントをフュリオサは問答の中で受け止めただけでなく、破壊と死しか生み出せないディメンタスを生命発現の源に改造してしまうことで完璧な意趣返しに成功している。すべてにおいてディメンタスを超越したフュリオサの眼はもちろん未来へ向けられていて、それが『怒りのデスロード』へと接続していく。
全然関係無い余談。本作のこの問答を眺めていて、失われたとされる『大きな物語』に代わるなにかしらの概念みたいなものの種がここ数年のエンタメ作品のなかで芽吹きはじめているのではないか?と感じた。これは無教養者特有の錯覚に過ぎないんだろうか?古典的な道義や正義と、個人が持つ信念とそれをもとに行う選択とを折衷した道を提示する大手作品が目立つようになってきた気が... 単なる素人の錯覚で、これも古き良き古典の、あるいはリベラルの1形態に過ぎないのかもしれないが、そのような感慨を抱くきっかけをもらった。似た話をしている学者がいそうなので少し調べてみようと思う。
■ウォー・ボーイズいいよね
洗脳されていいように道具として扱われているだけ、という残酷な真実が根底にあるにもかかわらず、どうしてやつらのことをこんなにも気高く、美しく、誉れ高く感じてしまうのだろう。
自身の所属する共同体に身命を捧げ、崇高な目的のために指針がブれることもない彼らの在り方は俺では絶対にたどり着けない境地であり、俺のあこがれはそこから来ているのかもしれない。
シタデルでスメッグがウォー・ボーイズを一人指名するよう求められるシーンでさえ、これから起こる事柄を確信して身体の中に雷鳴が迸るような想いをおぼえた。スプレーの死化粧。お決まりの叫び"Witness me!"はまさしく”終極の語彙”だ。隆慶一郎作品における『いくさ人』的な、素朴だがそれゆえの力強さを持つ生き様が俺にはまぶしく映ってしまう。
ウォー・ボーイズいいよね、という話はたとえ「いやお前ヤバいよ」と真顔で言われても語り続けられる自負がある。いいものはいいんだ、ヤバくても。むしろ好ましいヤバさだからそのヤバさがいい。
■ディメンタス
色々細々と書いていこうと思ったんだけど問答に関する感想のくだりでまあ書きたいことはだいたい言及してしまった。リトルDとの関わり方とかもあるけど、最終的には厭世主義者でまとまってしまう感
こいつ悲哀含めそこそこのドラマ性を抱えてはいるっぽいんだけど最終的な結論も含めて基本しょうもない俗物にすぎなくて、その浅さが逆に、かつて伊藤計劃が言及した「世界精神型」の悪役像を巧みに反転させたようなタイプで興味深い造形になっているな~と見れなくもないのだが...あくまで2024時点では興味深い側の造形だよね程度のコメントに落ち着く印象。
というか崇高な信念みたいなものを何も持たないが故の存在が理性的な葛藤にとらわれ続けるprotagonistを止めようとしてマジレスされる、みたいな展開自体は割と凡庸寄りではあって、やっぱり個としての存在感を放っているのはヘムズワースの怪演があるからこそみたいなところはある。でもそういう話題を掘り下げると役を見てキャラを見ずみたいになってしまうので(もちろんフュリオサにもそういう見方ができてしまうわけだから)、考えるだけ野暮か。野暮だな。