
★★★★
オランダ植民地時代、ジャワの貴族と女中の間に生まれたカルティニは貴族の姫君(ラデン・アユ)として育てられるが、その境遇を望まず自由を求める。初潮と共に部屋に隔離され結婚するまで外出を許されない婚前閉居(pingitan)にあっても兄から秘密で受け取った本を世界への窓として学問を続け、同じく閉居になった妹二人とともにできうる限りの自由を求めて行動する。オランダ人と交流し、オランダの雑誌に記事を載せ、地域産業に貢献し、幼い少女たちのために学校を開き、念願だった留学のチャンスも掴みかける。しかし、家族はカルティニに結婚を迫る。
=====================
ハヌン・ブラマンチョ監督、サトリア以外本当に面白い。サトリアだけなんであんなに退屈だったのかわからないくらいストーリーテラーとして秀逸。特にこういう伝記ものは得意中の得意。
インドネシアのフェミニズムの嚆矢であるカルティニについての映画なんですが、知らないことがたくさんあって勉強になった。母親が誰でも正式に貴族の娘として扱われること、一見いい話だけど要するに女は貴族にとってコネを作り自分たちの特権を守るための道具だという話なんですよね。わかりやすすぎる家父長制。正妻以外(多分)は家でもしゃがんで摺り足で歩かなければならない、というのも衝撃的だった。ああして見せられると映像のインパクトってすごいな、と思う。使用人にそのように歩かせるのも凄まじい階級社会の現れなんだけど、結婚してない女は貴族の娘であっても使用人と同じって、女はみんな道具で持ち主がいるかいないかの違いでしかないということをこんなにもわかりやすく見せられるんだ……と衝撃的だった。
その状況が当然ではないのだということに気が付き、そして歴史に残る形で表明した最初の女がインドネシアにおいてはカルティニなんですよね。歴史に残る表明ができるような環境になかった「普通の」「気が付いていた」女はたくさんいたはずで、でも彼女たちは読み書きができなかったり生活するのに精いっぱいで声をあげる暇なんてなかった。カルティニにそれができたのは貴族で、そしてオランダ人との交流があったから。だからこれは白人救世主的に見える物語でもあるのだけれど、ハヌン・ブラマンチョはそれをうまく外してきている。「先進的な」カルティニを誉めそやし、助けようとするオランダ人はいるけれども、それよりも印象的なのは本を開いたときにその世界から出てきて物語の場面を再現する登場人物や、カルティニと著作について語り合う著者という、カルティニの想像の中の白人または文通によって互いに話を聞くことはできるけれど決してカルティニを助けることはできない遥か遠くにいる白人。だからこの映画で描かれるカルティニは白人によって啓蒙される存在ではなく、情熱と才覚で既存の知識を自分のものにしていく、独立した個人だった。オランダ語で記事を書いてきたカルティニがラスト近くで回想する、女中の母に教えられたジャワ語の自分の名前は、被植民地下であっても尊厳を失わない個であるプリブミを象徴するシーンだったと思う。
だからこれは「優れた白人文化に啓蒙され目覚めた女性活動家」として宗主国オランダに利用され、スハルト時代には国民の英雄に担ぎ上げられインドネシアという国家にも都合のいいように扱われてきたカルティニをプリブミの民衆という視点からもう一度語り直した映画なのではないかと思う。貴族に「教育を許せば女が知事になりたがる、それを許せば今度は農民が知事になろうとする!」という台詞を言わせていることからもカルティニを権力から取り戻そうとしているのがわかる。
妹の結婚式で、望まない結婚を強いられる妹だけではない全ての女の苦しみを数分の祝いの宴で表現するのもうまかった。二番目の妻にさせられた妹の表情はもちろん、欠席も許されない主賓の席で目を逸らす正妻、自分の立場が使用人だからこそ貴族と娘との結婚を喜ぶ実母。それらの苦しみに対して出し物に呼ばれた踊り子たちとやに下がった顔で踊る男たちの対比。見事でした。
カルティニの結婚相手がドゥイサソノなのはあがりました。好きなので。兄がレザラハディアンなのも特別出演感あったけど、複数の妻をもちながら更に女を娶ろうとしていて、でもカルティニの出した“ありえない”条件は全部のむ鷹揚で進歩的を自認する貴族という役がドゥイサソノに大変に合っていた。
条件全部のませた式であっても笑顔を一切見せずにペンを握りしめ涙を流すカルティニで終わるラスト、この作品で描かれてきたカルティニがぶれることがなくて本当に良かった。