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シータとアディルの両親が営むパン屋にある日男が訪れる。男はアディルにカセットテープを渡し、これを聞いて神のために生きなければならないと確信したと告げて出て行く。その直後別の客がレジの金を盗み、シータにいわれて両親が追いかけにいくが、次の瞬間、隣のアメリカ系ドーナツ屋の店が爆発し、巻き込まれた両親は死亡する。カセットを渡した男による自爆テロだった。再生したカセットからは爆撃のような音と悲鳴が響き渡った。
二人はプサントレン(イスラム系全寮制学校)に預けられるがシータは爆弾テロの原因となった神も神の罰も信じることができない。アディルと共に逃げ出そうとするが唯一の出口である洞窟でイスマイルと名乗る少年の幽霊に出会って失敗する。ある夜、プサントレンを経営する富豪によりレイプされたアディルを助けてシータはもう一度洞窟に入り、出口へと向かっていく。
大人になったシータは富裕層向けの高級老人ホームで働き、アディルは死者の洗体の仕事をしている。死後の拷問は存在しないという証を社会に突き付ける、という目的に執着するシータは、ホームで死にゆく老人の身元調査を繰り返していた。そして居住者の一人であるワーユがあのプサントレンのレイプ犯だということを突き止める。ワーユの死後、シータはカメラを持って遺体と共に墓の中で一晩を過ごす。
拷問などなくなにも起こらなかった夜の後、シータは録画データをもってテレビショーに出演しようとするがSDカードが入れ替わっていて証明することができない。老人ホームでは入居者とスタッフの浮気が騒ぎとなり、妻が洗濯機に体を巻き込まれて死ぬ。妻を呼び出す降霊会が行われて浮気相手は刺され、アディルの洗体所では死者が動き出す。墓で録音したという死後の拷問の悲鳴がSNSで拡散され、恐怖が社会全体に広まる中、シータは再びワーユの墓に入ることとなる。果たして、死後の拷問は存在するのか。
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凄まじかった。インドネシア映画の極致と呼べる作品だった。脚本も演出も撮影も音楽も役者も何もかも最高峰だった。打ちのめされるような映画体験。映るもの全て、見えるもの聞こえるものありとあらゆるものに意味があり、全てが生きていた。
主題の「死後の拷問」はイスラム教の教義のひとつである。死後、人はまずあの世とこの世の狭間の存在となり、墓にいる間に天使が訪れて質問をするという。最初の質問は「あなたの神は誰か」であり、全ての質問に正しく答えられた者のみに楽園の扉は開かれる。わからないとしか答えられない不信心者の墓は肋骨が折れるほど狭まり、恐ろしい見目をした天使によって拷問を受けることになる。インドネシアでイスラム系の教育を受けた者なら誰でも小さなころから言い聞かせられている恐ろしい罰の話だ。
死後の拷問は身近な恐怖であり、また「死ぬまでは真実かどうかわからない」恐怖でもある。そして、人間にとって最も恐ろしいのはその、わからなさだ。
先に結末の話をすると、シータは二度目に入ったワーユの墓で、死の天使による拷問をすぐ隣で見ることになる。墓が狭まる中、シータに助けの手を差し伸べる兄アディルは蛇に噛まれたかのように片目と首が腫れ、歩くことすら難しく「俺は弱い、もう君はひとりで行かなければ」とシータに伝える。シータは「生きなきゃ、私たちは生きなきゃいけないんだ」とアディルを支えて歩き続ける。そこに轟くのは「あなたの神は誰だ」という問いだった。
このクライマックスの後、洗濯機に巻き込まれ死んだはずの居住者のものと思しき手が映ること、一度目のワーユの墓のシーンでアディルの横を蛇が通り過ぎていたことなどから、観客の主流の解釈は
「ワーユの墓に最初に入った時、地表で待つアディルは蛇に噛まれて死亡、空気穴の塞がれたシータも助けを求められずに実はあの時点で死んでいた。その後の物語は死後のシータの譫妄でありクライマックスでは生と死の間にいるシータの元に死の天使が現れたのだ」
とするものである。
確かに説得力がある。裏付ける情報も揃っている。この解釈ができないとは言えない。しかし絶対の解釈ではなく、私はそれをとらない。
なぜか?
その解釈ではSIKSA KUBURの凄まじい魅力は語れないからだ。
死後の拷問はあるのか、という問いに戦いを挑んだ傲慢なシータが作中の早い時点で既に死んでおり全ては妄想で、不信心な彼女は拷問に合うことになりました、などという道徳的で啓蒙的な物語のどこが面白いんだ? と思うからだ。
これはそんなつまらない物語ではない。そんな物語ならこんなに心は動かない。ジョコ監督は常に破壊から創造するパンドラの箱のような作家だ。SIKSA KUBURにあるのも、予定調和ではなく破壊だ。破壊されるのは常に、当たり前の顔をしてそこにある既存の価値観だ。そしてSIKSA KUBURには、いくつもの破壊のための爆弾が仕掛けられている。
シータにヒジャブを被れば綺麗だよといわれるアディル。結婚に努力が必要な男と共にはいられないと離婚を告げられるアディル。シータから私がいなきゃめちゃくちゃになってるよと言われてとっくに壊れてるよと言うアディル。死体の下半身に泣きながら繰り返し水をかけるアディル。
洞窟で助けを待ち続ける、ワーユにレイプされ殺されたイスマイル。
障害があり、父母に愛されず、だから美しいといわれて嬉しかったんだ、と居住者と不倫した結果その妻は死に、不倫相手には殺されかけ、何のために生きるのかわからないとナイフを体に突き立てる老人ホームのスタッフ。
両親の死は自分のせいだと苦しんでも、誰にもあなたは悪くないといってもらえなかったシータ。
不信心であれば拷問が待っていると教えながら子供へのレイプを黙認するウスタザ(プサントレンの教師)。
不注意な妻に私がいないとお前は何もできないどこにも行けないと繰り返し呪いの言葉を吐く夫。
死後の拷問という恐怖に支配され混乱をきたす社会を、これこそが望んだ社会だというイスラム指導者。
彼らの苦しみはこの世界を破壊するに値する苦しみであり、彼らの暴力はこの世界を破壊しなければ消し去ることのできない暴力だ。だから死の天使が破壊するべきものがあるとすればそれは不信心者ではなく、この世界そのものでしかない。SIKSA KUBURは道徳を謳うものではなく、世界を破壊する作品である。
シータは人々を思い通りにできると思っていた。誰かに信仰を捨てさせることすら可能だと信じていた。それが両親を死に追いやった自分自身を救う唯一の手段だったからアディルの傷すら慮ることをしなかった。その姿は、死後の拷問を恐れ神を信じる余り爆弾テロを起こした男の態度と鏡映しだ。自他の境界線をなくし、自分のための行為を世界のためだと信じ込み他者の存在を見失っている。シータと爆弾テロ犯は対の存在だった。
けれども、自分のためだけの破壊からシータは抜け出す。シータは否定すべき死後の世界の住人であるイスマイルの手を握り、助けを求める声に答える。それは両親の死以来初めて、シータが他者を他者であると認めた瞬間だった。
だからイスマイルはシータに「Kamu bisa lompat(君は飛べる)」という。墓の穴を飛び越えていくことができると告げる。
だからシータもアディルにいうことができる。「Kamu harus hidup, Kita harus hidup(あなたは生きなきゃ。私たちは生きなきゃいけない)」死の天使を目の当たりにしてもなお、生きなければという。
ここで死者の世界と生者の世界は繋がっている。神も天使もその存在は否定されない。そして、それを知った上でシータは生きる選択をする。破壊された世界の後でも生きようとする。誰よりも死後の拷問を恐れていたシータは死ぬために生きていた。でもこの先に待っているのは生きるために生きる茨の道だ。それはシータの信仰の形なのかもしれない。または信仰の拒絶そのものなのかもしれない。どちらにせよそれはシータが自分で掴んだものだ。私はそれに破壊の後の創造を見る。
SIKSA KUBURは信仰を否定しない。むしろ、信仰をそれぞれの手に取り戻すための映画だと感じる。恐怖から。死から。あなたの神は誰か? という問いは、あなたの信仰はあなたのものか? という問いに読み替えられる。
前半~中盤が冗長であるという評も散見したが、私は人々の苦しみと暴力とを繊細に描いた前半こそがこの作品の肝であると思っている。本当に素晴らしかった。
映像の美しさも相変わらずで、ワーユが踊りながらイスマイルに近づいてくるシーンは鳥肌が立つほどで死の天使の登場よりもよほど恐ろしかった。洗濯機での死も、これだけ多くのホラーが生み出されている中でまだ新鮮なゴア表現を見ることができるんだなと驚いた。
5分に満たない出演ですらインドネシア屈指の俳優を揃えた役者陣についてはもういうこともないくらい全員が完璧だった。クリスティンハキムの愛らしさといったらもう。テロ犯役アフリアン・アリサンディの瞳もずっと印象に残る。一人残らず賛辞が送れる。
インドネシア映画を好きになって、ジョコ監督作品の新作を見られることが幸せだし、ホラーではないという次作も本当に本当に楽しみにしています。
ちなみにこの作品には元々ジョコ監督による同タイトルの7分のショートムービー(2012)がありYoutubeで見られます。短編に出てくる連続殺人犯は2024年の今作でもシータが老人たちを埋める墓場と同じ場所に埋められていて、連続性が示唆されているので、SIKSA KUBURを見る前でも後でも、見ておくと良いです。