1927年12月16日に発生した魚雷営での事件について、清水潔氏の著書に興味深い記述があったので、これを起点にして「計画的処刑説」の視点で検証してみる。
1)魚雷営の建物の壁に穴を開け、屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという。その際に、銃身を振るため壁穴を水平に拡げたという。しかし、建物が鉄筋コンクリートなので穴を水平に拡げるにしても鉄筋ピッチに制限される。また、重機関銃の左右振り角度は最大36°の仕様であり、いずれにしても死角が生じる。また、射界内であっても射撃開始直後は手前の人物が弾丸を受けるため、奥には届きにくい。
2)小野日記によると複数の将兵が魚雷営に三千人の捕虜を連行したと書いている。三千人を魚雷営に整列させると20m×65m程度の面積になる。これに建物内から重機関銃4挺を向けても半分程度しか射界に入らない。さらに建物1棟は40m程度なので捕虜集団より短いことになる。これでは「刑場」にならない。集団処刑目的なら、もっと有効な機関銃の配置もあったのに採用していない。
3)魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉(第5中隊長)は、万一の場合を考えて機関銃を用意したという。万一とは何か。護送兵力の約15倍にもなる捕虜集団の暴徒化であろう。集団処刑には最適化されていない重機関銃の配置は、実はいわゆる“突撃破砕線”の設定ではないのか。もし暴徒が押し寄せてきても防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、角田中隊を防護できる。
4)屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという話にとって重要なのは穴の形状である。清水潔氏による再現描写では銃身を左右に振るため穴を水平に拡げたとあるが、日本兵の証言にはそのような発言は見当たらない。一方で、“突撃破砕線”の設定ならば暴徒が押し寄せてくるという想定なので、防護射撃時に銃身を振る必要はない。つまり、穴を水平に拡げる必要がない。そして、捕虜の全てを射界に入れる必要もない。
魚雷営というのは、中華民国がドイツから購入した魚雷艇 Sボートの基地である。
そこには、揚子江岸の岸壁に建物が約10棟ほど立ち並んでいた。頑丈な鉄筋コンクリート製の3階建だったとされる。
その建物群の前の細長いスペースに角田中隊は数千人とも言われる捕虜を連行して事件になった。

本書のタイトルは『「南京事件」を調査せよ』となっているが、内容的には幕府山事件が主題となっている。
さらに、その内容は次の小野日記(=通称)に主に立脚している。
それで、下記引用部分は上記著者の小野賢二氏が元日本兵に取材した際の録音テープなどを、清水潔氏が文字起こしをしてまとめた箇所である。
「捕虜が歩かされてきたんですよ、夕方になってから……。夜というよりは、日が落ちるか落ちないか、そんな頃だったですよ。場所は……、わたしらは軍艦学校と言ってた。揚子江に沿って建っていた鉄筋コンクリートの相当細長い建物だわ。そこに機関銃を並べて〝お客さん〟が来るのを待っていたんだ。捕虜のことを〝お客さん〟って呼んでたんですよ」
「やがて、静々とお客さんたちがやってきた。捕虜たちが三十横隊ぐらいで、ぎっしり繫がって来たんですよ。びっしりとすごい数だった。建物と揚子江の間の細長い場所だから端の方はもう川に落っこちそうだった。本当にこれを撃つのかと……、そう思った……」
(上とは別人と思われる日本兵氏)
「建物は3階建てぐらいの海軍兵学校か何か。川沿いにあったんだけどコンクリートでできていて非常に頑丈だった。基礎工事がしっかりしてあった。その壁の厚いコンクリートにツルハシを使って穴を開けるんだけど、なかなか開かなくて大変だった……」
(清水潔氏による再現描写)
揚子江岸辺にぽつんと孤立する中国海軍の建物。
昼頃、カーキー色の軍服を着た日本兵が集まっていた。やがて江岸に乾いた音が響き始める。男達の手に握られていたのは十字鍬と呼ばれるツルハシだった。尖った先を建物のコンクリート壁に打ちたてている。場所は川に面した低い位置だ。鉄筋コンクリートの壁は厚く堅牢で、作業は容易には進まなかったが、やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……。
宿営地から運ばれてきた機関銃と弾薬箱が降ろされる。
組み立てられた機関銃は建物内に次々と運び込まれた。
隣の銃との間隔は約 10 メートル。三脚のハンドルを廻して開けられた穴の高さにセットしていく。銃口はめだたぬように、壁面から飛び出さない位置に合わせられた。細長い隙間だが銃口は左右には振れるから〝死角〟はない。
こうして「刑場」は完成した……。
上述のような「刑場」が成立するのかどうか、以下でみていく。
まず初めに、当時使われていた三年式機関銃の寸法から、左右の振り角度と壁の穴の幅の関係を確認してみる。
そこで、台座回転部の中心軸から先の銃身が620mm程度だろうと見積もって計算すると、左右の振り角度と壁に必要な穴の幅は次のようになる。
左右振り角度/穴幅
18°/20cm
36°/40cm
52°/60cm

次に、上記数字に対して射界がどの程度になるかを図上で検証する。
この場合「射界」というのは、捕虜を並べた面積に対して、射撃が有効になる面積の比率を指すものとする。
左右振り角度/穴幅/射界
18°/20cm/約20%
36°/40cm/約50%
52°/60cm/約70%
なお、連行捕虜数はとりあえず3千人と仮定し、清水潔氏著書の証言「捕虜たちが三十横隊ぐらい」を用いて、100列とした。
また上記証言にあるように、建物が3階建ての鉄筋コンクリートということだから、穴が開けられる最大幅は鉄筋のピッチに依存する。開けた穴から鉄筋が出てくれば、ツルハシごときで切断あるいは除去できるはずがない。
そうすると、穴幅(=鉄筋のピッチ)が20cmなら妥当な値だが、40cmになるとなんとも言えない値(仮に現実的上限値とする)となり、60cmになるとちょっと信じられないように思う。

さらに、重機関銃のスペック上でも左右振り角度が決まっている。
以下の資料を見ると、「薙射角度」として「左右各、十八度」とある。つまり、左右で36°である。
このスペックは三年式機関銃でも九二式重機関銃でも共通のようである。

上記の「薙射角度」を超えて銃身を振ろうとすれば、それはもう三脚ごと持ち上げて陣地変換するしかない。ちなみに機関銃と三脚を合わせると50kg以上の重量がある。
そうすると、左右振り角度の結論としては、鉄筋ピッチおよび三年式機関銃のスペックの両方から、36°が現実的な上限と解釈して差し支えないといえる。
次に、現実的上限値とした「振り角度36°/穴幅40cm/射界約50%」の設定で、射撃時の射角や死角などの状況をもう少し詳しく見てみる。
(1)平面方向
すると、下図のように、50%は弾が当たらない安全地帯であり、25%は射撃開始直後なら水に飛び込んで逃げられる可能性のあるエリアとなり、25%が射撃開始の早い段階で被弾するエリアとなる。

(2)上下方向
上記の「25%は射撃開始直後なら水に飛び込んで逃げられる可能性のあるエリア」というのは、以下の理由による。
(a) 三年式機関銃の銃身高は、37~55cmである。前項掲示のスペック表に書いてある。
(b) 床の高さが不明だが、軍事物資の保管施設を兼ねているなら民家と違って床は低いだろうと考え、高くてもせいぜい10cm程度と仮定する。
(c) すると、理論上の銃身高は47~65cm程度の範囲になる。
(d) 捕虜が着座姿勢であれば、銃身高はおおむね胸部の高さになる。
すると、特に射撃開始直後は手前の人物が弾丸を受けるので、奥に行くほど弾丸が届きにくくなる。
三年式機関銃の弾自体は三八式歩兵銃と同じであり、貫通力としては2人目まで行く場合はあるにしても、それほど多数の人体を一気に貫通することはない。

清水潔氏の著書にもこういう証言があり、手前の人物ほどより多く被弾している様子がわかる。
そして、この魚雷営の岸辺は自然の浅瀬ではなく、岸壁である。重量物の魚雷を魚雷艇に積み込むために岸壁が必要なのである。小野日記にも「岸壁」という表現が登場する。
つまり、捕虜が座らせられている場所は岸壁の上の地面なので、水に飛び込めばとりあえず重機関銃の射界からは免れることができる。
そうすると上述のように、この現場設定では射撃開始当初には25%程度しか弾が届かず、撃ち続けても50%程度にしかならない上に、届き始める前に河に逃げられてしまうかもしれないのである。
これが果たして「刑場」として適切かどうか。
(重機関銃4挺の論拠)
上記で、重機関銃の数を4挺としているが、その論拠を以下に示す。
捕虜の立場で魚雷営に連行された殷有余氏が生き延びて次のように証言している。その中で、「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで」と言っている。
一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。
*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。
次に、12月16日に魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉(第5中隊長)は、機関銃数について『南京の氷雨』にて次のように証言している。正式に準備した重機関銃が2挺と、鹵獲した機関銃も使ったような気がするという。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって......。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と......。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」
銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。(P87)
また、『南京戦史』でも「第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって」とまとめている。
第二節 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵の取り扱い
五、幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後の対応
(中略)
新旧両説と、山田日記、両角手記等を総合して判断すると、歩六五の捕虜対応の模様は以下のようである。
十二月十六日夕、歩六五第二大隊は捕虜五百~二千人を中国海軍碼頭(魚雷営? 上元門上流約1キロ)付近に連行(目的は釈放のためといわれているが判然とせず)したところ、騒乱状態となり、日本軍護衛兵一名が殺されるという状態になったので、第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって同日夜、暴動集団の主力を制圧した。射殺死体は同夜中に護送部隊のみで江中に投棄できる程度の数だったという。(P325)
以上が、重機関銃数を4挺とした根拠である。
(機関銃の間隔 10メートル)
次に、清水潔氏が自身の再現描写で重機関銃について「隣の銃との間隔は約 10 メートル」と書いているので、これを用いて前述の図を書き直してみる。
すると、射界が約50%であることはほぼ変化がないが、横方向のカバー率があまりにも悪すぎる。すなわち、捕虜の隊列が65m程度にもなると思われるのに、40m程度しか射界としてカバーできていない。
従って、これを「刑場」と考えるには、どこかの前提なり仮定がおかしい。

(捕虜三千人)
参考までに連行捕虜人数について、小野日記から一部を引用する。
16日に魚雷営に出動した複数の将兵が「三千」人の捕虜を連行したと書いているので、“処刑場”として現場設営するなら、この数字を基準にしたはずである。
ところが、上図のように重機関銃の数あるいは射界で言えば、全く足りていない。
(捕虜隊列より短い建物)
当時の地図に1km方眼があるので、これを用いて100m方眼を作って魚雷営の建物群に当てはめてみた。
すると、100mグリッドにちょうど2棟ずつ収まっている。つまり、この地図の記載に従えば1棟は40m程度である。
捕虜3千人が占める面積は長さ方向で65mにもなると思われるので、そうなると捕虜集団は1棟の前には収まらないことになる。
この建物のひとつに機関銃4挺を据え付けたところで、集団処刑場としてはますます機能しない。

(処刑場としての対案)
連行場所として、魚雷営の建物と岸壁の間の狭い空間をなぜ選んだのか、という話は脇に置くとしても、本当に「処刑場」として現場設営するなら他にも方法があったはず。
「処刑場」として考えた場合の対案を下図に示す。
(a) 処刑対象者3千人をより多く射界に捉えているのはどちらか?
(b) 処刑対象者から見て、より脱出困難なのはどちらか?

上述したように、空間配置を見ればこの重機関銃は処刑用の配置とは思えない。
魚雷営での作戦を指揮した角田中尉率いる第5中隊は120名。応援を入れてもせいぜい200名前後のはず。それ以上なら中隊長が率いる規模でない。連行捕虜数3千人なら、護送兵力の約15倍。たとえ丸腰でも何かあったら角田中隊の方が逆に撃破されかねない。
(機関銃中隊は重機関銃という質量と物量のある兵器を扱うので、小銃を抱えて捕虜移送隊列の護送や警備は担当していないはずである。よって上記の200名に含めない。また、魚雷営での配備位置は建物内だった。)
また、角田中尉の証言を見ても「万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており…」との記述がある。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうかーー。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」
逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。
「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。(P86)
魚雷営の狭い空間での「万が一」とは何か。それはもちろん、捕虜の暴徒化であろう。
そう考えれば、この重機関銃の配置は、いわゆる“突撃破砕線”の設定ではないのか。

(1) 平静時
建物と岸壁に挟まれた幅20mの狭い空間で、角田中隊は自軍兵力の約15倍となる3千人の捕虜集団と対峙。
(2) 暴動発生時
何かをきっかけに捕虜集団が暴徒集団化して角田中隊に襲い掛かかって来たら、人数が多いだけに丸腰であっても防ぎきれない。(可能性がある)
(3) 防護射撃時
暴徒集団から角田中隊を防護するには、いわゆる“突撃破砕線”の設定が有効になる。突撃してくる敵集団を破砕するための仕掛けである。
“突撃破砕線”としての設定なら、建物の壁穴から重機関銃の銃口を岸壁に向けるのは理に適っている。暴徒集団の進行方向に対して真横からの射線でこれを阻止しつつ、重機関銃の射手らは暴徒からの攻撃を受けずに済むからである。
角田中隊に近い方に10m間隔で重機関銃を配置すれば、防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、かつ角田中隊の最前面の暴徒集団は小集団化される。暴徒であっても小集団なら、角田中隊の歩兵銃で制圧できる。
このように、“突撃破砕線”としての設定であれば、重機関銃の射界で捕虜集団の全域をカバーする必要はない。
すなわち、この重機関銃の配置は、角田中隊の防御用と考えられる。
これで、「刑場」としての不自然さの理由は解明できたように思う。
当時の日本軍には「突撃破砕線」という用語も思想もない。しかし、魚雷営の現場設営で「捕虜が暴徒化した場合にどのように自らの部隊を守るか」という解決すべき課題を考えたなら、結果的に図のように捕虜集団の前半分の位置に建物内からの射線を設定し、角田中隊との間に阻止線を引くことをを思いついた、というのは不思議でもなんでもない。今は「突撃破砕線」という用語があるので、これを用いて説明したにすぎない。
補足2:
“突撃破砕線”としての射撃であれば、これは指揮官からの命令が出たらひたすら連射し続ける形になる。射手が射撃目標に狙いをつける必要もない。「撃ち方やめ」の命令が出るまで盲目的に撃ち続ける。“突撃破砕線”を突破されたら自軍部隊に突入されてしまうからであり、危機が去るまで撃ち続けて機関銃弾による阻止線を維持することになる。
なお、角田中尉はこう証言している。「猛り立つ捕虜の群れ」という状況になったので自分達を守るために建物内に仕込んだ“突撃破砕線”すなわち最終防護射撃の命令を出したという展開に見える。
ちなみに、“突撃破砕線”による射撃すなわち「突撃破砕射撃」を「最終防護射撃」と表記した場合の「最終」の意味するところは、これをもってしても敵の突撃を阻止できなかったらもはや敵味方入り乱れての白兵戦とならざるを得ない、という意味である。
自衛隊だと「突撃破砕射撃」、諸外国だと「最終防護射撃 Final protective fire」という。
(横に拡げた壁穴)
壁穴を通して配置した重機関銃の目的が「刑場」なのか“突撃破砕線”なのかを判定するには、上述した射界や射撃方法はもちろん、壁穴の形状も重要になる。
再び清水潔氏の著書に戻り、壁穴を横に拡げたというのは誰の証言なのかを確認する。
「やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……」とあるが、ここは清水潔氏による再現描写の作文である。
揚子江岸辺にぽつんと孤立する中国海軍の建物。
昼頃、カーキー色の軍服を着た日本兵が集まっていた。やがて江岸に乾いた音が響き始める。男達の手に握られていたのは十字鍬と呼ばれるツルハシだった。尖った先を建物のコンクリート壁に打ちたてている。場所は川に面した低い位置だ。鉄筋コンクリートの壁は厚く堅牢で、作業は容易には進まなかったが、やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……。
宿営地から運ばれてきた機関銃と弾薬箱が降ろされる。
組み立てられた機関銃は建物内に次々と運び込まれた。
隣の銃との間隔は約 10 メートル。三脚のハンドルを廻して開けられた穴の高さにセットしていく。銃口はめだたぬように、壁面から飛び出さない位置に合わせられた。細長い隙間だが銃口は左右には振れるから〝死角〟はない。
こうして「刑場」は完成した……。
そのすぐ前段に元兵士の証言からの文字起こしがある。
元兵士の証言からは、壁穴を開けるのは大変だったという話は登場するが、壁穴を横に拡げたという話は見当たらない。
“突撃破砕線”としての設定なら、壁穴を横に拡げる必要はない。
暴徒集団の方が押し寄せてくるという想定だから、重機関銃の射線を真横から差し込んでさえいれば良い。
2022.09.17 初版
《幕府山事件》概要編
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/100037
《幕府山事件》地理編
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2015/07/21/100535
《幕府山事件》時系列編
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2021/02/26/213211
《幕府山事件》自衛発砲説
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/040001
《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/050027
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https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/063055
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https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/070004
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★南京大虐殺の真相(目次)
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