南京陥落後に約11万体の遺体を埋葬したという『崇善堂』の埋葬記録について考察する。

東京裁判に提出された崇善堂の埋葬記録によれば、合計112,266体を埋葬したという。
対比のために紅卍字会の埋葬記録も示す。合計43,071体埋葬したとある。
・崇善堂の成立は古く、陥落直後の時点でも実在した。しかし、陥落後は南京特務機関に『昭和13年9月開設』と認識されてしまう程度に存在感が薄かった。
・崇善堂の埋葬隊発足は陥落翌年の1938年1月中旬と思われる。東京裁判提出の埋葬記録(1937年12月26日〜)と矛盾している。
・南京特務機関員・丸山進氏の話からすると、崇善堂埋葬隊の作業は紅卍字会の下請けとして従事した可能性が高い。崇善堂が自治委員会に出した書簡からも、上部組織の指示で動いていることが読み取れる。
・崇善堂の膨大な埋葬作業は、日本軍将兵、南京特務機関および宣撫班、日本の記者、南京在留欧米人らになんら認識されていない。かろうじて、同盟通信・小山武夫記者が崇善堂を「葬儀屋」として記憶していた程度である。
・これらの状況証拠からすると、崇善堂の本来の埋葬数は下請けとして紅卍字会の埋葬記録に含まれているに過ぎなかったが、戦後の東京裁判および南京軍事法廷に向けて、元請けの紅卍字会の記録を凌駕する数字で埋葬記録を偽造したものと推測するしかない。
南京陥落直後に紅卍字会に遺体の埋葬作業を委託した特務機関員の丸山進氏は次のように述べている。
そこで紅卍字会に着目して、その内部を調査した結果、紅卍字会は陳漢森という立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになった訳です。
後になって、崇善堂その他の弱小団体からも作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝えて、自治委員会では受け付けなかった訳です。紅卍字会の下請けとして彼らが作業に従事したであろうことは考えられますが、そうであったとしても、その埋葬作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていたはずです」
(南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想/『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)
崇善堂その他の弱小団体の埋葬作業は、あったとしても紅卍字会の数字に含まれているはずだと丸山氏は述べている。
さらに、丸山氏は埋葬作業を始める際の視察で「死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位」と見積もっているが、次の私の記事で考察したように水葬にしたと思われる揚子江岸の遺体を除くと埋葬実数は約2万3千であり、整合している。同一エリアにこの数倍の遺体が他にあったとは考えられない。
中支那派遣軍参謀・大西一少佐は、紅卍字会に埋葬作業を委託した特務機関員・丸山進氏の上司だった。南京戦当時の階級は大尉で南京特務機関長補佐官長と名乗り、翌年3月に少佐に昇格し特務機関長となった。その人が、当時は崇善堂など知らないと言っている。
以下は「」内が大西一・南京特務機関長、聞き手は阿羅健一氏。
「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するということはありません。逆に軍が紅卍字会に、どこそこの死体を埋葬するようにと頼んだことがある」
――紅卍字会をご存知ですか。
「赤いマークをつけて、よくやっていた」
――自治委員会も埋葬活動をしたと記録にありますが......。
「自治委員会も働いたが、死体の埋葬はそんなにやらなかったと思います。 紅卍字会が中心にやってました。それから、何とかいう団体が埋葬したというが・・・」
――崇善堂ですか。
「そうそう。当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない」
その南京特務機関が昭和17年に発行した南京市政概況。
紅卍字会については『埋葬』も明記しつつ『事変後昭和13年2月再開以来は一層その能力を発揮したことは世人の注目に値するところである』と紹介しているが、崇善堂についてはその次のページに他の団体と一緒に列挙し『昭和13年9月開設』としてる。陥落翌年。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267359/127


この扱いの差は南京特務機関の認識としては紅卍字会の存在とその活躍は大きく、崇善堂についてはその他の団体のうちのひとつでしかなかった、ということを示している。
それどころか、『昭和13年9月開設』という記載から見ると11万体の埋葬をしていたはずの時期にはまだ存在すら把握されていなかった、ということになる。
占領地で日本軍が住民を宣撫することを目的に特務機関に設けた宣撫班の記録にも崇善堂は登場しない。
このことについて著者は次のように書いている。
参考までに、紅卍字会への言及箇所を引用する。なお、判読が難しい文字が多いので、画像で引用し、要点を意訳で書き出す。

第二回報告(2月中状況):
・紅卍字会の隊員約600名。
・2月末現在、約5千に達する遺体を埋葬。
第三回報告(3月中状況):
・活動成果を賞賛しつつ彼らの準備金は既に消費し尽くし、最近に至り行動不能の域に達した。
・3月15日現在、城内1,793体、城外29,998体、合計31,791体を下関ならびに上新河地区の指定地に収容。
・春になれば収容埋葬に手数を要することや、疫病発生その他を考慮して方策を研究中だが、既に紅卍字会のみの資金力では到底至難の業。
・同会の消費した金額はこれまでに11,175元になるが、まだ放置された地区の埋葬、さらに土盛りや墓地の消毒作業は絶対に必要で、同会作成の予算によれば8,950元を必要とするが、同会としては今後の活動は不可能なので、援助方法について研究中。
冒頭の「工作人員」の一覧には1項に挙げた丸山進氏の名前も見える。
内容的には、紅卍字会の活動成果を評価しつつも、活動資金に困難を抱えているので、資金援助の方法を探っていることがわかる。
また、この宣撫班の記録からも紅卍字会の活動とその埋葬記録が事実であることが裏付けられる。特に城内1,793体は、東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録と一致している。
アメリカ人の宣教師であり、南京の金陵女子大学で教師・教務主任を務めたミニー・ヴォートリンは日記(日記形式ではあるが関係団体への報告書の位置付け)で、紅卍字会の埋葬記録については触れているが、崇善堂の話は登場しない。
二日―きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。
(4月6日)
六日―国際救済委員会は救済事業を推進している。二○○人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。
(4月15日)
一五日―紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた――彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、 三汊河の地域は含まれていない。
(『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 / ミニー ヴォートリン)
ヴォートリンの日記に登場する紅卍字会の埋葬数は、東京裁判に提出された埋葬記録とほぼ整合している。特に城内に埋葬したという1,793体という数値については一致している。
他の日にもヴォートリンは紅卍字会について日記に書いているが(例えば、1/27、1/29、2/2、2/15、2/25)、崇善堂の埋葬の話は出てこない。
安全区国際委員会のリーダーを務めていたドイツ人、ジョン・ラーべの日記も見てみる。
文面からは、紅卍字会の活動あるいはその報告に対する一定の信頼感が読み取れる。
他の日にもラーべは紅卍字会について触れているが(例えば、12/16、12/26、2/10)、やはり崇善堂の埋葬の話は出てこない。
次の資料の昭和13年4月16日付大阪朝日新聞の記事に紅卍字会の埋葬記録の話が出ている。
記事の内容としては、概ね4項の宣撫班の記録と整合している。
この記事の4月時点で3万強の遺体を埋葬するのに苦力(労働者)が延べ5〜6万人も動員されていたという。すると、単純計算では11万人を埋葬したという崇善堂は18.5〜22.2万人の労働者を動員していたはずである。しかし、そのような存在感はなく、当時の大阪朝日新聞でも把握していなかったようである。
ちなみに、【入費】とは辞書を引くと『必要な金。費用。』とある。
この件について、紅卍字会に埋葬作業を委託していた特務機関員の丸山進氏は次のように述べている。
なぜ日本軍から経費が出たことを表に出さないのかについても説明している。
(南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想/『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)
大阪朝日新聞の記事で『入費』という単語を使い、また『さらに8千圓ほど金を出して』と金額に触れているのは、上述のように日本側から費用が出ている内情を把握した上での記述と思われる。
それに対して、崇善堂の活動についてはこういった話が全く出てこない。
南京陥落翌年春から南京に派遣された同盟通信・小山武夫記者(後に中日ドラゴンズ社長などを歴任)は次のように述べている。
(同盟通信・小山武夫記者/『証言による「南京戦史」(4)』)
陥落直後の時点で崇善堂が実在しなかったかというとどうやらそうでもない。
『南京事件資料集 中国編』に収録された資料の文面を見ると、崇善堂の埋葬隊が組織されたのは1938年1月中旬と思われる。ということは、東京裁判提出資料の埋葬期間=昭和12年12月26日〜はウソになる。
中華民国二十七年二月七日着
拝啓 査するに弊堂が埋葬隊を成立させてから今まで一か月近くたち、作業割当はたいへん頻繁であります。しかし、車輛が非常に不足しております。そのうえ今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じます。一漁、ここにご高覧を仰ぎたく存じ上げます。弊堂所用の自動車は二十四年製造のものであり、目下修理に急を要しますので、次の各用品を配給されたくとくに書簡でお願い申し上げます。一、バッテリー 二、ピストン肖子 三、クラッチ等
貴会がどうか補助の方法を講じ、事業に利を与え、慈善事務を推し進めることができますよう、この段どうかご明察のほどあわせてお願い申し上げます。 ご返事はこの上にいただければ幸甚でございます。
南京市自治委員会御中
〔以下自治委員会の指示〕
直接丁三自動車修理部と相談するように 二月八日
71 崇善堂堂長周一漁が補助金請求のため江蘇省振興委員会に出した報告書抄録 一九三八年十二月六日
補助を求めて困難を解決し、慈善事業を引きつづきおこなうために、貴委員会の救済事業の趣旨を伺います。弊堂が、寡婦救済・育児・診療・施薬・掛け売り・給米・貧窮者子女教育等の慈善事業をおこなうことは前清より現在まで百有余年間、絶えることがありませんでした。今事変において、弊堂は難民区内に診療所を設け、埋葬隊を組織し、その他の救済事業も取り計らいました。難民区が解散するに及んで、いたるところ無衣無食の罹災民たちでいっぱいであります。市内における慈善事業の必要性は、以前に倍しており、弊堂の困難もまた昔に倍しております。
(『南京事件資料集 中国編』)
その他、気づいた点を列挙する。
・2月6日付書簡の冒頭に『作業割当はたいへん頻繁であります』とある。つまり、これは崇善堂の自主的かつ単独の作業ではなく、上部組織の指示の元に行われた、と読める。 丸山進氏の証言と重ね合わせれば、上部組織は紅卍字会と推測できる。
・自治委員会に対して所有する自動車(おそらくトラック)の修理部品の提供を求めている。つまり、独自の潤沢な予算や資材があったようには見えない。
・1938年12月6日の報告書で、前清の時代から100年以上の歴史があると書いている。そして、この日華事変においては診療所を設け、埋葬隊を組織したとしている。それでも、南京特務機関に『昭和13年9月開設』と認識されてしまうというのは、陥落後はその程度に存在感が薄かったことを示している。
これらの状況証拠からすると、崇善堂の本来の埋葬数は下請けとして紅卍字会の埋葬記録に含まれているに過ぎなかったと思われる。しかし、戦後の東京裁判および南京軍事法廷に向けて、いわゆる“南京大虐殺”の犠牲者数の水増しをするために、元請けである紅卍字会の記録を遥かに凌駕する数字で崇善堂の埋葬記録を偽造したものと推測するしかない。
また、このこと自体が“30万人大虐殺”が全くの虚構であることを示している。
2021.02.19 新規
★南京大虐殺の真相(目次)
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/15/133336
《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2015/07/21/030036
以上。