5歳くらいから「明日死ぬかも」と思って毎日を過ごしていて、それはおそらく悲しいほどの愚直さで科学に忠実な母親の影響です▽
5歳のある日に語られた「人間はいつか必ず死に、そして死んだら『無』になる」という母親の教えは心の中にしっかりと根を張り、私の価値観の土台となりました。
努力至上主義の熱い人々から「あなたはガッツが足りない」「向上心がなさすぎる」「大人のくせに昼寝をしすぎだ」等々と謗られながらも、鋼の決意で「できるだけ怠惰で愉快な暮らし」を求め、張り切らない日々を是として生きているのは、「明日死ぬかも」という諦めがあるからです。
先日、急な病気で亡くなった親戚のお通夜に行ってきました。
享年57歳。退職後にやりたいことや、行ってみたい場所もたくさんあったでしょう。
明日死ぬかもと思って暮らしていても、命の儚さにはため息が出る思いです。
30歳を超えてから、定期的に写真館で遺影を撮ってもらっています。
新聞のお悔やみ欄も熟読します。
「死」は空気のようにいつでもそこにいて、気配が濃くなったり薄くなったりはするけれど消えてなくなることはありません。
生に過剰な意味を求めたりせず、同様に死を必要以上に特別視したりせず、「明日死ぬかも」の低体温な諦めを心底に据え、地に足をつけて「できるだけ怠惰で愉快な暮らし」を求めていきたいと改めて思った通夜の日でした。
諦めたらそこで試合終了という考え方がある一方で、諦めから始まる怠惰で愉快な暮らしもあるよね。