「普通の人間であること」にコンプレックスを持つ人がいる、と気づいたのは小学校高学年の頃でした。
過去に記事にもしていた、幼なじみのSちゃんです▽
勉強、運動、容姿、友人関係、家庭環境…。あらゆる事象において必要以上にマウントを取りたがり、「自分よりも下位」と認定した人間に対して高慢な態度を続けるSちゃんに心底疲弊してしまい、中学校卒業と同時に交流を断絶しました。
大人になった今、当時のSちゃんの能力はどう贔屓目に見積もってみても「普通の人」の範疇なのですが、本人には「普通じゃない魅力を備えた特別な私」という肥大した自己像があったのかもしれません。彼女への嫌悪を差し引いてみても、周囲に対し特別扱いを求める姿勢には痛々しいものがありました。
SNSの隆盛期を迎え、Sちゃんのように「普通じゃない人になりたがる普通の人」というのは想像以上に多く存在していると気づくようになりました。
私たちアラフォー世代の義務教育期から特に顕著になっていった、「個性的であること」を求める風潮が影響しているのかもしれません。
「個性的であること」が強迫観念となり、「普通であること」に必要以上の劣等感を抱き、「普通じゃない人」になりたがる「普通の人」。ワーママ系のインフルエンサーにも散見されるように思います。
しかし冷静に考えてみれば、自分と家族が寝食に困らない程度の仕事があって、悲惨な事件事故の加害者にも被害者にもならず、美味しいものを食べて美味しいと思える感性があって、ミサイルが飛んでこない部屋で安心して眠れる「普通の暮らし」以上に貴重なものはありません。「普通じゃない人」として衆人の注目を浴びるよりも、よほど気楽で穏やかで幸福な状態ではないでしょうか。
「普通であること」の価値は、大きい。
そして「普通じゃない人」を志向する人ほど、悲しくなるくらい「普通」であることが多い気がします。客観的にみて「普通に幸せ」な状態にあるのに、自らその「普通」から逸脱して「普通じゃない人」になりたがる人が散見されるのは、やはり「個性偏重社会」の呪いのような気がしています。
「自分の本質とは異なるもの」になろうとするのは、不幸の始まりです。
「普通であること」を受け入れて感謝して、「普通じゃない人」に無闇に憧れたり逆に差別したり排斥したりしないで、気楽で穏やかな幸せを享受維持することに全力で取り組んでまいりましょう。