人やAIによるフェイクまみれの世界を生き残るために、最低限必要な心構えは何か。それを探ってみたが。しかし自己矛盾によって破綻してしまった。どうしたら良い? ワカラナーイ!
前回までの話
信じろ、という言葉を、信じてはいけない
人もAIも平気で嘘をつくから。
信じろ、という言葉を、信じてはいけない。
信じるのではなく、疑うべき。疑うことによって推論し、推論が妥当かを検証すべき。検証することによって妥当性が担保できたなら、それを実行に移し、実現したか確かめる。
信じるより疑うより確かめるより行うより実現すること。実現されたら、行うという物理的干渉により、その妥当性を検証でき、正しいかどうか確認できます。確認できれば、もう疑うことも信じることもする必要がありません。
でも、それができたら苦労はありません。実際はそれができないから、信じるという甘えた行為で終わるのです。それは単なる甘えだけではなく、物理に基づく現実です。理想論や精神論だけでは解決できない現実問題がそこにあるのです。だから人は信じてしまう。でも、信じたらAIや人々に騙され搾取されちゃう現実が今まさにある。信じてもダメ。確かめてもダメ。詰んだ\(^o^)/
だから私はAIマーケティングに踊らされていたとき、表題のように感じてしまったのです。
信じることは世界最弱の生存戦略だ
信じる。それは世界最弱の生存戦略です。今すぐ辞めるべきです。それがAI時代を生き残るために必要です。社会はその最弱の生存戦略を人々にやらせてバカを量産し、搾取できる人間を作り出そうとしています。悲しいけれど、これが現実です。私達は生存競争している。
神は死んだ。信仰は死んだ。他人の口から出るすべての言葉には裏がある。それはリアルだけでなくネット上にある全ての文献がそう。だとすればもうネットの価値は死んだも同然。
ネットを断つ。じつはこの戦略こそ、自分の人生という自分にとって最も価値ある時間を有意義に過ごす効果的な一手かもしれない。特に私のようにあっさり騙されるバカにとっては。
フェイクは人が生きるために捏造したものだから、人との接触は物理的だけでなく情報的にも回避するのが騙されないための防衛手段として有効。でも、そんな極端なことは現実的に不可能。だから詐欺事件などのニュースが絶えないのだろう。
騙される被害者をバカにすることは、同時に人間や生きることの悪性を暴くことになり、自殺へ向かわせる思考と隣合わせだ。自分の心身を守るために、被害者をバカにするのだろうが、しかしよく考えると、人を信じたいという気持ちをバカにする時点で、もう人として社会人として終わってるわけで。
人を騙すな、だと? 俺に死ねって言ってんのか?!
みたいな感じ。お前、マジか。いやでも、たしかに現実的に考えれば、人から騙し取らなきゃ生きていけないし。うーん、このジレンマ。
もう社会は人を生かす体制として機能していないのかもしれない。他の誰でもない私達自身に、その意志が無いのかもしれない。自分さえ良ければいい。原初の利己によって支配された、原始的なプログラムでしかないのかもしれない。
これほどまでに深く絶望した時、はたして人は生きていけるだろうか。人が生きていくためには最低限の希望が必要なのでは? しかしその希望は事実とは違う偽りでありフェイクだ。希望はまだ現実にはなっていない。事実ではない幻想。それを必要としている時点で、人が生きるためには偽る必要がある、という話になってしまう。しかし、偽りというその言葉自体が希望を否定してしまうから、必殺、言い換えの術! を使って「偽り」を「希望」と呼び替えるのだろう。たとえそれが認知の歪みであるとしても、歪みねぇ人生などありえない。
いや、たかが名前を変えただけで解決するわけないやろ! もしかして、名は体を表す、みたいな格言すら欺瞞なのでは? もう人が操る言葉の全てが信じられない。それでも尚、信じることが必要なのだろう。
人は認知を歪めなければ生きられない。なぜなら人生に希望など存在しないから。その正しい答えを直視したままでは、精神的に死を迎えてしまうから。生きる動機も気力も失くしてしまうから。人生という絶望を、それでも生きるために、人には希望が必要だ。たとえ、ありもしない希望を信じることが、世界最弱の生存戦略だとしても。それが一切皆苦の原因であったとしても。
一見、弱そうに生きている人のほうが、よほど強く生きているんじゃないのか。強く生きて!と他人から言われるような弱々しく見える人ほど、じつは強く生きているんじゃないのか。人は嘘つきだ。「それでも人を信じる」ということを口先で他人に欺瞞として言うのではなく、自らの人生で実践しているからこそ、騙されて奪われて、弱っているんじゃないのか。だとしたら。
弱っている人のほうが強いってことだ。人が人として失くしちゃいけないものを、その弱った人こそが持っているんじゃないのか。それをバカにする人は、もうすっかり失くしてしまったから、まるで損するだけのバカだとしか解釈できないのではないのか。
いやーそれでも痛い目に合うくらいなら、人間を嫌い軽蔑するほうがいいっすわw
そういうことなんだろうな。悲しいけど、そうしちゃう。弱いから。
強弱の論点がどこにあるのか。それで表現の仕方が変わる。強い言葉は便利だが、信用するに値しない欺瞞に満ちた脆弱なものだ。
信じろ、を信じてはいけないが、それを信じてもいけない。しかし信じねば生きられぬ。
どないせいっちゅーねん!
私が知りたいよ。
足りない私では生き残れない
考えれば考えるほど、自分が如何にバカであるかを露呈することになる。この無限ループに、果たしてどこまで耐えられるかな?
いっそ如何にバカを露呈するかを真剣に考えて実践すべきか。そうすれば、これは計画的な活動であって、素でバカなわけじゃないんです、という言い訳が立つぞ。よし、そういうことにしよう。いいね?
もう何も恥ずかしくない!
……いや、まずくないか? ちゃんと正常に恥ずかしがっておくべきでは?
まいっか。
……あれ、今私、自分を信じちゃった? 最弱っちゃった?
大丈夫。だってそれが正しいもん。はい論破。
だめだ、何をどうやってもバカにしかならない。
雄弁は銀、沈黙は金。そういうことだ。バカは喋らないほうがいい。男は黙って行動あるのみ。
どんな戦略であれ長所もあれば短所もある。最弱とか最強とか、そんな一元的に測れる話じゃない。自分の価値観で評価するしかない。その価値観が致命的な問題を抱えているとしても、それはもう産まれながらの欠陥だし、修正したところで、他の長所と短所に変わるだけだからキリがない。短所を消滅させることはできないのだから。いくら認知を歪めた所で、物理的な現実から短所が消滅するわけじゃない。単に危うい認知になるだけ。
わざと大げさで間違いを含む極論にしたほうが、その間違いを指摘しやすい。だからわざと極論で考えるわけだが。すると反対側にも思考を巡らせることになり矛盾する。弁論術的には、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼが来てくれるはずだが。ダメだ、私には足りないものが多すぎる。それはわかってる。でもそれだけじゃダメだ。足りないことが分かっているだけじゃ足りない。
だが足りない。足りないぞ。
私に足りないものは、それは。
情熱、思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さ!
そして何よりも、速さが足りない。
世の中の速さに、ついていけない。
諦めずに改善するのが成長だと言えるが、諦めて現実を受け入れることが成長だと言われても否定できない。
矛盾を包含しながら流されていく。明日はあるのか。
私に足りないのは、足りない自分自身を受け入れ拒絶し自己矛盾し自己破綻しつつ、それでも生きていく覚悟かもしれない。
信じても裏切られると知っているから、信じる覚悟すら持てない。でも信じることでしか無明の世界を切り開けない。だから信じるという最弱の生存戦略ができない弱者には、自分を生きることができない。たとえその結果、他者に騙され奪われるという自分を生きることとは程遠い姿に見えても、それこそが人間としての自分の真の姿なのかもしれない。そこまでの域に到達するには、私にはまだ、修行が足りない。