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私はAIマーケティングに踊らされていた

 これが私の結論です。

前回までの話

  1. AIが使いこなせない
  2. AIという「意図的に不完全な道具」の取扱説明書(2026年版)

私はAIマーケティングに踊らされていた

 私はAIのことについて良く知りません。なんか話題になってるけど、そんな凄いの? じゃあ使ってみるか。その程度です。世の中舐めてるな。

 そして、それ自体が、答えでした。

 はい、私はAIマーケティングに踊らされていました。

 ただそれだけの話です。

 その後もAIと問答していたのですが、社会の闇が暴かれるに至りました。

 AI悪くない、悪いの人間。

 そういう話。

 人が殺人するのはFPSゲームをやるからだ、みたいな。ゲームのせいにしているけど、実際は人間が悪いよねって話と一緒。

 AIが使いこなせないの件で話していた、AIvs私、果たして一体どちらがバカなのか、という結論は、私がバカということです。たしかにAIもバカですが、そのバカを暴けず過剰な期待を持っていた私がバカでした。私のその期待は、商業戦略によって展開された欺瞞情報によって創造された幻想でした。私は幻想を追いかけるよう仕向けられており、まんまとそれに騙されただけの無知な人間だと判明しました。それが判明したことが今回の話における私にとっての成果であり報酬です。

 私はAIだけでなく、AIを売り込む人間や、それを利用して人々を混乱させ振り回し漬け込もうとする人間たちに踊らされていた。これが結論です。

 私はこの答えを、私の被害妄想だと思いたかったのですが。人間はそんな酷いことしないよ、と思っていたかったのですが。

 残念ながらこのAIを巡る話において、人間を肯定的に捉えることは難しそうです。戦略的な合理性があります。ただ、そこまで詳しく深堀すると、論理的に人の悪性が暴かれてしまい、人生や社会に絶望して死にたくなるので、どうしようかと。踏み込むのが怖すぎる。

 知らないほうが良かった。情報過多な現代において、そう思うことのほうが多くなってきました。故に私達は現実逃避の大切さが身に沁みています。しかし、知っていれば回避できた、という後悔を避けたくてアンテナを張るわけです。それは命を守るための自己防衛でもあります。残念なことに、その弱みを逆手に取られてAIマーケティングに釣られクマーた格好です。

 なんと無様な私の姿よ。泣きそう。人の善性を信じたばっかりにorz

 事実確認の困難さは、つまるところ自分自身の怠惰に収束します。かといって勤労・勤勉であれば解決できるほど生易しい話でもありません。現実的な制限のある中で、どれだけ騙されずに正しい事実を把握できるか。そういうゲームになってきました。それはつまり、現代の人間社会はフェイクまみれであり、社会に参加しただけで高速に搾取される体制であるということです。

 嘘つくの、辞めてもらっていいですか?

 無理なんでしょうね。だって騙し奪って生計を立てなきゃ餓死するもん。

 \(^o^)/

 私達人類の未来はAIによってフェイクまみれになることが生存戦略的に確定したと見て良いでしょう。では、そんな社会の中で、どう生きる? もはや言いたいことが言えないどころじゃない。何を言っているのか分からなかったり、多分正しいだろうと信じてしまうことそれ自体が即、自殺行為になります。

 信じろ、という言葉を、信じてはいけない。

 信じるのではなく、疑うべきです。疑うことによって推論し、推論が妥当かを検証すべきです。検証することによって妥当性が担保できたなら、それを実行に移し、実現したか確かめる。

 信じるより疑うより確かめるより行うより実現すること。実現されたら、行うという物理的干渉により、その妥当性を検証でき、正しいかどうか確認できます。確認できれば、もう疑うことも信じることもする必要がありません。

 でも、それができたら苦労はありません。実際はそれができないから、信じるという甘えた行為で終わるのです。それは単なる甘えだけではなく、物理に基づく現実です。精神論だけでは解決できない現実問題がそこにあるのです。

信じることは世界最弱の生存戦略

 信じる。それは世界最弱の生存戦略です。今すぐ辞めるべきです。それがAI時代を生き残るために必要です。社会はその最弱の生存戦略を人々にやらせてバカを量産し、搾取できる人間を作り出そうとしています。悲しいけれど、これが現実です。私達は生存競争している。

 神は死んだ。信仰は死んだ。他人の口から出るすべての言葉には裏がある。それはリアルだけでなくネット上にある全ての文献がそう。だとすればもうネットの価値は死んだも同然。

 ネットを断つ。じつはこの戦略こそ、自分の人生という最も価値ある時間を有意義に過ごす効果的な一手かもしれない。

 さらに本質的に言えば、そのフェイクは人が生きるために捏造したものだから、人との接触は物理的だけでなく情報的にも回避するのが騙されないための防衛手段として有効です。でも、そんな極端なことは現実的に不可能。だから詐欺事件などのニュースが絶えない。

 もう社会は人を生かす体制として機能していないのかもしれない。他の誰でもない私達自身に、その意志が無いのかもしれない。自分さえ良ければいい。原初の利己によって支配された、原始的なプログラムでしかないのかもしれない。

 これほどまでに深く絶望した時、はたして人は生きていけるだろうか。人が生きていくためには最低限の希望が必要なのでは? しかしその希望は事実とは違う偽りでありフェイクだ。希望はまだ現実にはなっていない。事実ではない幻想。それを必要としている時点で、人が生きるためには偽る必要がある、という話になってしまう。しかし、偽りというその言葉自体が希望を否定してしまうから、必殺、言い換えの術! を使って「希望」と呼び替えるのだろう。たとえそれが認知の歪みであるとしても、歪みねぇ人生などありえない。

 人は認知を歪めなければ生きられない。なぜなら人生に希望など存在しないから。その正しい答えを直視したままでは、精神的に死を迎えてしまうから。生きる動機も気力も失くしてしまうから。人生という絶望を、それでも生きるために、人は希望が必要だ。たとえ、ありもしない希望を信じることが、世界最弱の生存戦略だとしても。それが一切皆苦の原因であったとしても。

 信じろ、を信じてはいけないが、それを信じてもいけない。しかし信じねば生きられぬ。

 どないせいっちゅーねん!

 私が知りたいよ。




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