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情動論的転回とは何か(2)––クラフ&ハリー, 『アフェクティブターン:社会的なものを理論化する』(2007)イントロダクションの意訳

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上記の続きです。アフェクティブターンは社会学理論および批判理論にとってどのような変化をもたらすのかを考えるためには、クラフのこの本のイントロダクションはよくまとまっていて重要です!このイントロダクションはKindle等で無料公開されています。

*ちなみに名詞のアフェクトのアクセントはア。

イントロダクション(パトリシア・ティチネート・クラフ)

––「混沌から秩序の、この一般化された産出におけるそれぞれの自己再生システムは、広く「政治的」次元...「経済的」的次元...と呼べるものの調節の組み合わせであり、そして「文化的」と呼べる方法で貢献する。より良い言葉がないため、政治的、経済的、文化的次元の混沌とした共機能は「社会的」と呼ぶことができる。これらの指名designationは、すべてこの時点ではかなり恣意的だが。」

ブライアン・マッスミ、「私たちの将来の死者のためのレクイエム(資本主義権力に対する参加型批判に向けて)」

 

アフェクトは、マッスミがいう意味での「社会的」なものの変化の徴候である。この論文集は、批判セオリーのアフェクトへの転回を捉えようとするものである。

この論文集は、社会学、女性学、カルチュラルスタディーズの人々によって書かれており、近年の批判理論におけるアフェクトへの転換を探求するものである。特に、スピノザベルクソンに遡ったドゥルーズガタリの思想のラインの延長線上におけるアフェクトの概念の探求である。

これらの学者は、多くの場合、意識を超えた自動的な反応であり、潜在的な身体的反応に基づいたものとして、情動を扱っている。

アフェクトは基本的には、アフェクトしアフェクトされる身体的能力(キャパシティーズ)のことである。それは多くの場合、生きていること(つまりアライブネスとバイタリティ)についてのセルフ・フィーリングとリンクしている自動情動(autoaffection)のことである。

ただし、アフェクトは「前社会的」なものではない。意識的な経験から情動への逆流(reflux back)がある。アフェクトは非線形の複雑さを持つ。

アフェクトは人間の身体との関係でのみ理論化されるべきではなく、アフェクトを「見る」ことを可能にし、身体的能力(capacity)生み出しているテクノロジーとの関係で、理論化される必要がある。アフェクトを伴ったテクノサイエンス的な経験は、有機的/非有機的という対立を超えている。

そんなわけで、アフェクティブターンとは、身体、テクノロジーの新たな布置(configuration)のことであり、批判理論の思想のシフトを扇動する(instigate)問題(matter)である。この論文集では批判理論における次のようなムーブメントを探究する。すなわち、主体アイデンティティや表象、トラウマに関する精神分析的な批判主義から、情報とアフェクトに関わるものへ; 特権化された有機的身体から非有機的な生命へ; 閉鎖系での均衡点を模索する仮説から、準安定性の平衡からは遠く離れた条件下での開放系における複雑性の仮説へ; 生産と消費のエコノミーにフォーカスを当てることから、生政治的なコントロールの領域にある前個人的な身体的の能力(キャパシティズ)やアフェクトのサーキュレーションのエコノミーにフォーカスを当てることへ。これらのことを踏まえると、アフェクティブターンとは必然的に社会的なものの理論化であるということをこの論文集は提起するものとなる。

これは、ただたんにアフェクトは西洋の資本主義的産業社会において歴史的に変化してきたということを意味するだけではなく、政治、経済、文化の認識は世界の多様な地域によって異なる形で理解されていることを認識することを意味する。この認識は比較的方法によってもたらされるというよりも、地政学な分析によってもたらされる。グローバリゼーションの中での性そのもの再編のされ方とも深く関わっている。アフェクティブターンは西洋の産業社会が否認してきた「取り憑かれた身体(ghosted body)」や消された歴史におけるトラウマ化された残留物(remains)を呼び戻して、未来へと送るものとなるだろう。

アフェクティブ・ターンは、理論と方法に領域横断的なアプローチをもたらす。それは、私たちの身体を通してサーキュレートされるようなものだが、それを個人的なものにもパーソナルなものにも、心理的なものにも還元できないようなものとしての社会的なものを捉えるための理論と方法である。

アフェクティブ・ターンは、おそらく人間身体を含んだ情報/コミュニケーションシステムズの中でのセルフ・リフレキシビティ(すなわち自ら自身を振り返り、自ら自身に基づいて行動すること)の強化として描写されるだろう。この時の「人間身体(human body)」とは、マシーンにメモリーアーカイブされているようなものであり、そのメモリーとはメディアテクノロジーと人間のメモリーの全ての形態をとっており、資本の流れの中で、人間の労働とテクノロジーを通した価値のサーキュレーションを含み、規律と監視と制御の生政治的なネットワークの中にあるものである。

自己反省的システムは恒常性と 平衡の追求から、平衡とは遠く離れた条件下でのシステムの複雑さの制御と自由の追求へと移行する。

この論文集では、現在の社会を編成しているカオティックなプロセスのセンスについても論じる。また、アフェクティブターンの中で、既存のさまざまな理論をどう再洗練化させていくかについても論じる。

 

トラウマ化された主体から機械的アッセンブラージュへ

1999年に、私(クラフ)は、「精神分析と社会理論」というコースを教えていた。そこでは、トラウマやメランコリー、ロスについての精神分析的な言説から、ドゥルーズの時間、身体、イメージ、記憶についての仕事へと導かれるリーディングリストを作成し、それに沿って講義していた。私は、テクノサイエンスによる人間の有機的生理的な制約を超えた身体的能力の生産と、トラウマの両方の関係の中で身体について検討することを、学生たちに求めた。

(←原典の本文中にある記号で区切りを示しているもの。省略の意味ではない)

本論文のいくつかは、実験的やオートエスノグラフィックと呼ばれるだろう。なぜなら、それぞれの書き手の主観性が反映しているからである。しかし、より重要なのは、エンボディメント(具現化)のプロセスを変化させているその方法であり、つまり、身体の時間性(テンポラリティズ)と物質性(マテリアリティ)を捉えるための新しい書き方/方法が採用されているということである。

Grace M. Cho’s の論文 “Voices from the Teum: Synesthetic Trauma and the Ghosts of the Korean Diaspora”は、精神分析的トラウマ理解から、ドゥルーズ機械的アッサンブラージュの概念へと遂行されたムーブメントである。

*グレース・M・チョウのこの論文は、アン・クヴェコヴィッチもトラウマ研究の新たな展開を示す重要なものとして引いていました。クィアセオリー系アフェクティブターンにおける重要な経験的論文の一つ。こういう研究がしたいですよね!丹念な経験的事例分析をしつつ、新たな理論や方法論を切り開いていくような研究…!ミスコン研究でそれができないかとこの5年くらいずっと思っているのですが、うーむ、ミスコンはマジョリティ寄り文化すぎて難しいかなぁ、切り口次第かなぁどうかなぁ。第三波文化的ではあるのだが(めっちゃ独り言、多い、私)

チョウの研究は、日本の植民地下の韓国からアメリカに渡った韓国女性のトラウマティックな歴史に光を当てたものである。ディアスポリックな身体を世代を超えた取り憑かれ(transgenerational haunting)の影響として捉え、組み立てられた機械的アッサンブラージュとして捉えた。ディアスポリックな身体は機械的なビジョンを持っている。それは前世代の女性たちが見たけれども見たとは語らなかったもので、彼女たち自身は見ていないビジョンである。

この論文集には、Hosu Kimの"The Parched Tongue"が掲載されている。これは、器官なき身体におけるトラウマのプロダクションにフォーカスしたものである。器官なき身体とは、器官に特権を与えない身体であり、それゆえに、身体パーツを機械的アッサンブラージュ(集合体)へと解体することができる。キムは、言葉を形作ることに失敗したり成功したりする「口」にフォーカスしている。

世紀転換期に私と学生たちは、自己反省的方法としての精神分析から始め、トラウマ・スタディーズとメランコリーや喪失(ロス)をクィアリングすること、そしてテクノサイエンスやテクノロジー、時間、身体の存在論などについて考えることへと進んでいったことは、特に驚くべきことでもない。20世紀の最後の数年間の批判理論は、精神分析から借りてきたトラウマ、ロス、メランコリーにフォーカスを当てるようになっていた。

精神分析の言説は、西洋の思想の認識論的危機という状況に合致していたし、身体、時間性、記憶、物質性(マテリアリティ)の存在論について考える未来を切り拓くものでもあった。

世紀転換前には、批判理論はラカンの言語によって構築される主体という考え方に深く関わっていた。

 

ルース・レイズによれば、トラウマとは記憶(メモリー)なしに忘れることである。だから、トラウマ的効果とは、決してそのようには経験しなかったことに代わる症状である。そこには経験したことの抑圧があるのではない。したがって、投企も、置き換えの可能性も、ない。その代わりに、トラウマは、自我(エゴ)に引き戻すものであり、エゴは、オブジェクトやイベントによって超過し(overrun)、固定化されたものである。

レイズによれば、エゴとはトランス状態に近く、オブジェクトやイベントへの魅了された没入感であり、オブジェクトとエゴの切り離し難い状態である。トラウマとはエゴを記憶の中で高めるものである。しかし、メモリーとは無意識のメモリーではなく、身体化された(incorporated)メモリーであり、ボディメモリーであり、細胞的メモリーであると考えた方が良い。

そして、このトラウマは世代を超えるものでもある。

といったことを踏まえると、絡み合った身体(body of entanglement)とは、一体どのような身体なのだろうか。ゴースティド・ボディや亡霊に取り憑かれたマテリアリティ(haunted materiality)の存在論的地位とはどのようなものなのだろうか?20世紀末の批判理論は、身体を再考するためにトラウマの精神分析的説明を用いてきた。ジュディス・バトラーを見よ。バトラーはラカニアンの記号論を超えて、身体や物質、テクノロジーを考える身体の理論を開いた。

だが、Pheng Cheah(フェン・チア)がバトラーを批判して言うように、バトラーのいう身体のダイナミズムは、文化的形式が身体に押し付けることで生じる生産性の効果である。バトラーが言うような「肥大化された生産性」は、歴史的、政治的な観念の形式によるものである。人間領域における社会的歴史的な権力の形式の生産性のみが考えられていて、物質は差異化されないままにとどまっている。「社会的なもの」も権力によって差異化されるようなものとして社会が考えられており、文化的形式としての権力がなければ未分化なものとして想定されているのだ。つまり、物質は非歴史的で変化の影響を受けないものになっている。そのために、バトラーの身体の取り扱い方は、人間身体を超えた身体的物質性や物質一般について考える思考をもたらさないものである。

*バトラーは「セックス」や「身体」「主体」などを形而上学的実体として想定することを強く批判していたのだから、バトラーのいう身体は「非歴史的で、変化の影響を受けないものになっている」という批判は、ちょっとバトラーに対して厳しすぎる解釈だと個人的には思います。が、バトラーの『ボディーズ・ザット・マター』が人間身体を超えた身体を考えていくための理論や方法をもたらさないという見方は鋭いなと思いました。たしかに、ハラウェイたちのようなわかりやすいマテリアリティの方法論を提示したわけではない、ということは言える。この点は今後もう少し考えてみたいと思います。(バトラーに対してそれが言えるなら、現象学的なボディスタディーズはどうなんだろう、ということも考えてみることは重要かも)

 

この後、

有機的身体から非有機的生命へ

 

規律と表象からコントロールと情報へ

 

生産と消費からアフェクトの循環へ

 

という節が続きます。

どれも重要です。意訳シリーズも次回に続きます。

 




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