エヴァ解釈の話。 ytakahashi0505.hatenablog.com
私は前回のエントリーで、「人類補完計画は、人類の融合と性的「融合」(セックスのこと)を重ね合わせて表象されているが、主人公のシンジにはその誘惑をふりはらうことが期待されていた。ミサト、リツコ周りの性描写を見ても、肉体を伴った性愛は批判的に描かれているように見える」という主旨のことを論じました。
しかし、この記事を読んでくださった人とこの間、喋っていたら、『エヴァ』という作品においてはもう少し、性に関して含みがあるのでは、ということが分かってきました。私はエヴァの性をめぐる態度を、性の肯定/否定という二項対立で捉えていたのだが、次のような三項関係で整理することもできる。
- 身体を失った上で精神的な融合を果たす人類補完計画——プラトニックな融合、身体なしの精神の融合
- 身体としての境界と精神としての境界をもつ人間の、性愛的融合——「身も心も一つになる」ということ
- 食べるというかたちでの身体的融合・同化——使徒を食べるエヴァ、精神的融合なしの肉体の融合
で、シンジに求められていたのは、身体の境界線を失って融合するという男たちが望む人類補完計画(1)でも、ユイが臆せずやるような「使徒のS2器官を取り込むために食べる」という肉体的融合のあり方(3)でもなくて、身体と精神の境界を備えた人間の性愛を肯定していくということだったのではないか、と。うん、たしかに。
身体としての個の境界があるがゆえに、相手と身体的にふれあうということや相手に抱かれるということがもたらす固有の快楽みたいなものがあり、それは「人類補完」をしてしまうと失われるものである。また、抱く抱かれるみたいな快楽は、食べる快楽とは違っている。
(抱く抱かれるの話で言うと、どこかで使徒がエヴァを抱こうとするシーンがあったよね。で、一瞬何をされるのかわからなくて攻撃が遅れる、みたいな。レイを抱き込んで自爆しようとする第23話の使徒の話ではなくて、アスカの弐号機を包み込むみたいな使徒いなかったっけ。私の妄想かな。使徒は知恵の実食べてないから、精神的な「個」の概念がないので、抱かないか?→追記:旧劇場版で量産機のエヴァがアスカ弐号機を最初抱こうとし、その後、弐号機を捕食だったような気がしてきた)
使徒的な融合と、人類補完的な融合を描き込んでいる『エヴァ』という作品は、身体融合なき精神の融合(人類補完計画)も、精神の融合なき身体の融合(使徒のあり方)をも「悪」とし、身体と精神の個を備えた人間の性愛のあり方をいとおしいものとして描いたものだったのではないか、といえる。その意味で、オタクコンテンツの代表的一例であるエヴァは、肉体を伴う性的なものを「汚れた」「穢れた」ものとして位置づけているというよりも、最終的に肉体を伴う精神的な融合としての性愛を称揚しているのではないかと読解することもできる。……なるほど!!
- この方向で解釈するとすれば、ミサトと加持の関係や、リツコとゲンドウの関係といった29歳の人たちの現実の性愛が少しネガティブに描かれているのが気になるが、このような現実に成り立っている「身も心も一つに」とは異なる、もう少し理想化された「身も心も一つに」が称揚されているのだということになるのだと思う(それが具体的にどのようなものかは、作中では明記されていないが、それは人類補完した後の新たな人類の形が描かれないのと同じことだろう)。
というわけで、ロマンティックなものに付き合ってくれる優秀な人と喋るのは楽しい。以上、備忘録でした。