以下の内容はhttps://ystmokzk.hatenablog.jp/entry/2025/03/30/133248より取得しました。


the pillowsというバンドについて(8枚+35曲レビュー)【中編】

 解散してしまったthe pillowsの好きな曲を35曲並べてレビューする企画、この記事を“後半”として35曲選曲したうちの残り25曲を一気に書きたかったけど、3月忙しすぎて疲れ切ってて10曲しか書けなかったので、今回は“中編”となります。ふがいない限り…。『バビロン天使の歌』は『ストレンジ カメレオン』『ハイブリッド レインボウ』と同様に選曲してません。前半はこちら。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 上述のとおり、今回は35曲選曲したうちの11曲目〜20曲目を見ていきます。全体的に尺長めの重たい曲が多いな…どおりで書いてて疲れるはずだ。

 

 

11〜15:サウンドエフェクトを用いるthe pillows

 典型的なthe pillowsサウンドというのはカラッと乾いたクランチ〜ディストーションのギターサウンドを特徴とし、空間系とかモジュレーションとかは用いない印象ですが、使えないわけではなく使わない、一種の縛りプレイみたいなもの。使った場合どうなるのかの実例を5曲。

 

 

11. Swanky Street(アルバム『Please Mr. Lostman』1997年)

 アルバム『Please Mr. Lostman』で鳴らされる音の様式は要はマッドチェスター〜ブリッドポップの時期のサウンドだ。極論すればThe Sotne Rosesの1st。日本のバンドの多くがあそこにある種の幻想・楽園を見出した。彼らもまたあのアルバムでそれに挑み、潤んだギターサウンドを享楽的にスウィングさせたマッドチェスターとシューゲイザーの間のバンドサウンドでもって、ファナティックな確信をもって世界の果てに辿り着こうとした名曲であるこの曲が、『ストレンジ カメレオン』以上にそのひとつの達成点だったと思う。

 モジュレーションとエコーのエフェクトに潤んだリフの余韻自体を響かせる、余韻の奥行きこそが重要だと言わんばかりのイントロの振り抜き方。この時点でこの曲にはある種の思い切った確信があるなと感じられる。ドラムが入ってこない、フェイザーで旋回するギターの音だけの宙に浮いたままの感覚で歌が始まるこれは、身も蓋もないことを言えばThe Stone Roses『This is the One』を元にしている。歌い出しの諦めきった歌詞のフレーズの悲しさが、美しく旋回するアルペジオと時折のアタック感とで絶望的に照らされる。

 

誰の記憶にも残らない程

鮮やかに消えてしまうのも悪くない

孤独を理解し始めてる 僕らにふさわしい道を選びたい

 

当時のバンドヒストリーも被るため事情は違うが、この曲はスピッツ青い車』などと趣を同じにする、一種の“身投げ”の歌だ。そういうことが分かった上で、ブリッジ以降の展開を聴いていくことがこの曲の理解にはある程度必要になると思う。

 ブリッジでドラムがキックを刻み始め、ギターが煌びやかさを振りまきながら高まっていくメロディ、The Roosters譲りのダンダダーンダダーンという歌い回しも噛ませながら、シューゲイザーのギターサウンドの轟音とマッドチェスターなドライブ感を噛み合わせた、ある時代の日本人が本当に好きだった音響でもってサビのメロディが突き抜けていく。この、爽やかで壮大な爽快感でもって、優しさと悲しさに包まれながら破滅的なところの向かってポジティブに突き進んでいく感じは、このバンドでもこの曲だけのものだろう。その後のマンチェ効きまくりのギターソロ、それが終わり墜落していくのを横目にドライブ感が続いたまま2回目のヴァースに入っていく様は実に1990年代。『ヘッド博士の世界塔』以降の、あのアルバムでFripper's Guitarが示した享楽的な破綻をこの曲ではなぜか継承し、自分たちなりに突き詰めようという気概が溢れ、そして実際やりきることができたことは、ひょっとしたらこの後こういう潤んだ世界観からずっと乾いたオルタナな雰囲気に移っていくのに、いい具合に踏ん切りの付いた場面だったのかもしれない*1

 2回目にして最後のサビの後には歌詞とメロディが追加され、その後には享楽的なコーラスまで入ってきて、テンションが爽快に高まったまま最後にイントロと同じストロークでバーンと弾けて、この曲の旅路は終わる。それはバッドエンドなシーンなのかどうなのか。

 

僕らは間違いながら 何度も傷ついたけど

Sing god gun, I need it low demon Brake なんて踏まない*2

壊れてもいいんだ Speedを上げてよ

壊れてもいいんだ 僕らが全部憶えてる 壊れてもいいんだ

 

 この曲については後に再録したバージョンもある。歌い方もギターもオルタナ化以降のもので演奏されるため、はっきり言って物足りない。やっぱこの曲は原曲の潤みまくった音、素朴で不安げな声だからこそだろうと思う。第4期以降に再録してたらまた違ったかな。

 

www.youtube.com

 

 

12. アネモネ(アルバム『ムーンダスト』2014年)

 アルバム『MOONDUST』自体は第4期では二番目に良い。活動再開の気概を感じれるし、単純に曲の粒が揃ってる。タイトル曲がしっかりアルバム中の重しとして活躍する最後のアルバムで、そして同作のツアー終了後に“素行不良”という少し不思議な理由で長くベースを勤めていた鈴木淳がサポートから外れたため、彼が参加した最後の作品でもある。

 いきなり歌い始める割に5分を少し超えるこのバンド的には長めの尺のこの曲は、ふわりとした寂しさを纏った歌い始めからブリッジで順当に感情が盛り上がってサビでシンプルすぎる嘆きめいた歌い方に辿り着く、邦楽としてオーソドックスな構成をしつつも、あまり前面に出過ぎない形で鳴るトレモロの効いたギターが感傷的な小バラッド。5分を超えてるのに“小”バラッドって感じがするのがこの曲のいいところだと思う。

 いきなり始まる歌とささやかな伴奏の時間が、最もこの曲におけるトレモロを感じられるセクションかもしれない。トレモロののエフェクトとしての特徴は、他のコーラスやフェイザーなどのモジュレーション系エフェクトの少々ドロっとした感じと違って、至って乾いた質感があること。どちらかといえばむしろウェットな曲構成・メロディ・情緒の動きをしたこの曲が、どこか乾いた儚さを感じさせるとすれば、そこにこのトレモロエフェクトの貢献は少なくない。ボロついたセピア色を音にしたようなエフェクトだな。少なくとも、そういうものを求めて使用されているのがよく分かる局面。

 この曲最大の特徴は、しなやかでリリカルなヴァースから次第に感情が乗って、サビではヴァースのしなやかさが嘘みたいに直情的でシンプルすぎるメロディとフレーズに帰結するところ。同じミドルテンポのバラッド群(『ONE LIFE』とか『スケアクロウ』とか『雨上がりに見た幻』とか辺りか)と比べると肩透かしなくらいにシンプルすぎるこれが、しかし歌のテーマであるところの別れの感傷をあまりベタベタ垂れ流さずにサラッと惜別の情だけを差し出す潔さがあるようにも聞こえてくる。そう思うと、最初のサビ後の間奏がイントロとしての能力も十分持ってそうなのにあえていきなり歌から始まった意図もなんとなく分かる。「大袈裟に嘆きたくない別れの歌」みたいな節度を、『ワカレノウタ』やこの曲に感じれる。その感情の微妙な温度感が好きだ。

 

 

13. ハイキング(シングル『エネルギヤ』2011年)

 シングル『Comic Sonic』のカップリング曲のつもりで作り始めたという『エネルギヤ』が存外凄い曲に仕上がり評判が良かったため急遽シングル表題曲となり、その結果急遽カップリング曲が必要となったために、この曲がレコーディング完了直後に急にここに収録されることとなった、という経緯があるとは思えないくらいには完成度の高い地味な曲。この時期の録音物の完成度の高さは、バンドの状態が解散寸前まで低迷した状況だったとは思えないほど。意地とか底力とかだったんかな。

 ブーミー気味なベース、基本ワウなリードギター、ダル気味なシャッフルテンポ、低域が削られて存在感スカスカなボーカルなど、典型的the pillowsサウンドから外れた要素だらけな上でアンニュイでネガティブな表現をする様に妙な心地よさのある曲。焦点が合わない感覚ながら、ドリームポップと呼べるような浮遊感や煌びやかさは徹底的に避けられ、ともかく「ぼんやりとけだるい」感覚にしっかり焦点が当てられた感じ。「焦点が合わない雰囲気に焦点を合わせたアレンジ」って変な言い回しだけど、そういうことになると思うなこの曲や前編で取り上げた『Snoozer』は。空間系エフェクトの効きまくった『Snoozer』に対して、この曲はそんなにエコー分は無いところがかえって現実的なダルさを感じさせる。

 シングル表題曲の緊張感が嘘のようなユルユルグダグダな雰囲気が演奏の始まった瞬間から漂う。モッサリ籠った音のドラムのシャッフルやフィル、ブーミーさのみ出力したようなベース、とぼけ切ったワウギターが醸し出すこの、まるで煌めきも爽やかさも無い、でもコード的に暗くも無い、ぼんやりとダルい感じ。ささやかに右側で鳴るアコギは全然爽やかさをもたらさず、いい具合に貧乏くさいやるせなさばかりが募る。

 歌が始まってからの声の遠さ・スカスカ具合も的確で、ちょっとしたブリッジを経てすぐ間奏に入る、サビがなくて盛り上がらずにモッサリしたまま進行するのもこの曲のコンセプトとしてふさわしい。最後の歌展開前のギターソロの、ファジーだけどワウで絶妙に芯が死んだ音になってる具合など本当に絶妙。

 低音がごっそり削れて所在なさげな声で無感情気味に歌われるのは、一人で閉じこもっているような微妙に閉じこもっていないような、投げやり気味だけど激しくもならないし暗くなりすぎもしない、ぼんやりダウナーな感情の動き。なんでこんな曲の名前が“ハイキング”なんだ?と考えるとちょっと面白い。

 

独りぼっちが平気でも 好きなわけじゃない

雨の日曜日は寂しいな

同じ言葉を話すのに 通じない人も

もう慣れたはずだよ さあ出かけよう

 

誰かが僕を探していたら いいな

その人の待つ曲がり角 曲がらないまま

 

 

14. Brand-new Lovesong(アルバム『RUNNERS HIGH』1999年)

 この曲の収録アルバム『RUNNERS HIGH』の後半って中々の実験場っぷりで、結局彼らがその後の基本サウンドとしなかった空間系エフェクトが複数の楽曲で飛び交っている。3人構成になってから長らくプロデューサーを務めた吉田仁はSALON MUSICのメンバーとして1980年代から活躍し、ニューウェーブシューゲイザーオルタナもやってきた人だけど、そんなプロデューサーがいる中でバンドは『HAPPY BIVOUAC』を典型とするオルタナサウンドを自身の基本とした。それが成立していく過程の中で傍流になってしまった類のバンドの可能性が結構沢山詰まってるのが、あのアルバム後半の楽しいところ。

 この曲はそんなのの象徴じみた1曲。弾き語り派生のベタなバラッドっぽく始まっておきながら、曲が展開するにつれてどんどんサウンドの奥行きが増していき、サビではもはやシューゲイザーな音世界に到達する、彼らの楽曲でも例外的なベクトルのスケールの広がり方をした名曲。この曲や『NINNY』辺りに“the pillowsシューゲイザーバンドになっていたかもしれないif”を夢見てみるのも一興か。そうか…?

 この曲の歌い始めの段階では「ちょっとエコーの効いたフォーク」くらいにしか思わない。よく聴くとこの段階からシンセっぽい音が鳴ってたり、掻き鳴らすギターコードが妙にモジュレーション効いてたりするけど、アンサンブルが始まってからの方が、この曲のエフェクトの感じはより判る。この曲の場合、ミドルテンポのバラッド的な重い足取りのリズムのものをさまざまなエフェクトとシンセさえ導入して、本来そこまで浮遊しないものを半ば無理やりに浮遊させようとする構図にも見える。

 ブリッジに入るとボーカルのエコーは俄かに高まり、またギターのロングトーンもメロトロンめいたシンセも、ますますこの曲に浮力めいた儚さを込め始める。割と鬱屈気味なヴァースのメロディからの開放感も結構強い。しかしそれも、サビでの束の間のシューゲイザーの発動のための繋ぎっぽくもある。

 そして、なぜかこの時期の楽曲に多い、ワンフレーズのみで繰り返さずにサクッと終わるメロディ形式のサビ*3。この曲の場合音自体の伸ばしは長いけどそれでもあっさり風味でかつ終わりに演奏も強制ブレイク的な歌のキメが入る構成をしているために、ここで演奏として出力される、分厚い低音を伴ったシューゲイザーなギターディストーション音の壁も、実に呆気なく途切れて次のセクションに向かってしまう。このあっさり具合はしかし、シューゲイザーとしては異様な、歪な存在感を密かに持っていて、こんなに轟音に浸り続けることに冷淡なアプローチは、世界広しと言えどもそう多くはないはずで、彼らが偶然かどうかはともかく突如辿り着いては通り過ぎていった、孤立無縁の花園めいた境地だと言える。

 そのような不思議な禁欲さがあるからこそ、最後のサビだけは繰り返すために本来のシューゲイザー的な耽溺の感覚が少しだけ味わえることにも意味が浮かんでくる。しかし、それがこの曲のメインではないんだと言わんばかりに、その地点は3分半に満たない地点で通り過ぎ、残りの1分程度は、幾らか密度の薄まった轟音の中を夢見心地のサイケデリックさでフェードアウトしていく。思うに、ここでの彼らはThe Beatlesでいうところの『Accross the Universe』的な楽曲の幻想感を当代式で表現する手段として、たまたま気まぐれでシューゲイザー的なものを使っただけにすぎない感じがあって、そのある種の冷淡さが、大変稀なシューゲイザーの形式を作り上げていたことを自分たちでさえそんなに気づいていない節さえある。そういうところが、アルバム『RUNNERS HIGH』の後半部分の面白くも切ないところなのだけども。

 曲タイトルもまたこの曲のあり方の独自さと裏腹の凡庸極まるもので、作者はこの曲がこんなにいい曲になることを想定してたのかなとちょっと疑ってしまう(笑)。歌詞は実にこの作者らしい、自身に手を差し伸べてくれる人を見つけたことに対する感激を愛と混同したような内容。それはでも、誰しも混同したくなる類の感覚ではないか。

 

半分にちぎれて起き上がって 光のさす方へ向かえば

幻じゃないキミが立ってた

おしえてよ どこにいたの どうして僕を知ってるの

なつかしい涙が出て 孤独の終わりに響き渡る

Brand-new lovesong それはキミへの歌なんだ

 

 救いと愛、そして陶酔。陶酔感にはあまり用はなさげにサッパリと乾いたオルタナ方面に居場所を見出していくバンドの寄り道として、この曲ほどの魅力的な“オルタナティブ”なあり方も本当珍しい。

 

 

15. Nobody Knows What Blooms(アルバム『HORN AGAIN』2011年)

 アルバム『HORN AGAIN』は、妙にプリッとしてザラリとしたブライトさが死んだギターの音色で往年のthe pillowsをなぞるだけのような、そんなつまらなさを感じていたけども、今回このように解散したことで歌詞を読み直してみると存外暗くて、次作が『TRIAL』であることも踏まえると、その前哨戦として中々に相応しい、バンドの状態の悪さにも由来するんであろう不健康なつまらなさが密かに根を張った、実は結構いいアルバムなのかもしれないとか少しだけ思い始めた。威風堂々たる名曲然とした『Brilliant Crown』の歌詞の全く明るいベクトルの無い様子と、抜けの悪いサビメロディとの、奇妙な相性の良さ。

 そんなアルバム中において、一番そんな袋小路を飛び道具的な手法でどうにかしようとして、しっかりどうにかできている楽曲がこれ。典型的なUSオルタナ洋式から少し離れ、ゼロ年代以降のインディロック的にサックスやアコギソロ、ポストプロダクションによるエフェクト利用などのアクセントを多用して楽曲を異色に彩り、the pillows節の効いたサビでもファルセットを用いるなど、自身のサウンド様式のアップデートに一時的に成功した1曲。この曲や『ハイキング』などを聴くと、いやいやこの方向でバンドはまだ伸び代があったような、というifの可能性も感じたりするけど、それはでもthe pillowsというバンドが本来持つ伸び代とは違うものなのかもしれない。

 サクッとしたドラムの1音目のすぐ後から感じられる、らしくないけど実にスムーズな軽快さ。少し16分的なフィールも混ざったしなやかなドラムに、失礼ながらいつも直線的な8ビート叩いてるのと同じ人なのか、と。ベルと共にベルみたいに鳴るエフェクト込みのギターの音も特殊だし、そもそもコード系の伴奏を鳴らさず、この“音を置いていく”ようなギターの鳴らし方としなやかなリズム隊のみの洒落たスカスカさで進行していくヴァース自体がthe pillows様式をかなぐり捨てたスムーズさがある。楽曲はサビ以外このスタイルを基本とし、ボーカルは基本スピーカー音声的なEQの絞り方だし、ギターがトレモロや極端なファズで鳴ったり、間奏では時折サックスが入ったりドブロめいたアコギさえ入ってくるし、この辺のアレンジのちょっとした凝り方が、ゼロ年代後半の薄らアメリカーナ要素を挿れたセンスの良いUSインディーロックバンド感があって、とっくの昔にひとつのジャンルを築いた感じさえあるthe pillowsもちょっとそういうの横目に見て憧れるところがあったのかと思うと興味深い気持ちになる。

 この曲は、そんな少し洒落たところからサビでガッツリとthe pillows式のオルタナティブロックに切り替わるケレンみこそ魅力だと個人的には思う。実に堂々たるこのバンドらしいメロディ、太く歪んだギターの圧、ダブルトラックな声の重ね方。しかしながらサビ前半をファルセットで締めるのはやはり少々異色で、この曲では本当色々とチャレンジを試みてるんだなと感じるし、このファルセットの抜け方は普通に気持ちがいい。そしてそんなこのバンドらしいサビでも、いつになく細やかなハットの打ち方をするドラムもまた異質。

 終盤にも仕掛けを仕込む徹底っぷりで、間奏後半の意外なドブロギターソロからのブレイク気味な展開においては、ボーカルの帯域をEQで思いっきり削った上で、ブリッジ的なメロディをすっ飛ばしていきなりダブルトラックのサビ歌い出しに接続する時のアタック感は格別の爽快さがある。歌メロの最後の抜け方も気持ちよく、そこから点描めいたギターが何度か鳴った後に最後に残る音になるところのちょっとした寂しい感じも、なんだからしくないけどしっかりした良さがある。

 歌詞はアルバムの流れに沿って、曲調の割にネガティブな感じが基調となるけども、歌い出しのそれは実に山中さわお式のいじけ方。

 

夜も決して目を閉じないのは 僕と魚だけ

夢が地上に落ちる瞬間を 見続けてるんだ

現実でも拷問でも それは同じで

無限の宇宙 覗いてる途中 覚醒したんだ

 

こういうところから爽快感たっぷりのサビに接続する構図こそthe pillowsという感じはするから、そういう基本軸は異色の曲調でも貫いてるんだなっていう。

 

 

16〜20:曲構成上での独特なブレイクスルー

 Aメロ→Bメロ→サビとかヴァース→コーラスとか、そういう構成はまあ彼らも大体そんなパターンですが、時折「えっそんな構成も楽曲としてアリなのか…」と静かに驚かせてくる楽曲を世に放っています。その巧みさに感心するものから、いやそれはヤケクソすぎるだろというものまで5曲。

 なお、このセクションは他と比べても“いい曲”を並べすぎてます。

 

 

16. カーニバル(シングル、及びアルバム『HAPPY BIVOUAC』1999年)

 遂にこの曲について真剣に向き合って何か書くときが来たか…。the pillowsというバンド自体を超えて、オルタナティブロックという概念におけるひとつのマイルストーンとして取り扱うべき、孤高のこの曲を。the pillowsで一番いい曲を無理やりあげないといけないとすれば、それはもしかしたらこれかもしれない。

 何もかも素晴らしいのに一言でどう表現すればいいのか。イントロのリフ、荒々しく乾いた歪んだギターを軸とした演奏、グランジではなくあくまでオルタナとして絶妙すぎる緩急の付け方と、それを生み出した呆気なくも束の間の爆発力と切れ味の鋭さを有したサビ、孤独な“僕”と何故かそれに寄り添う“キミ”の袋小路の陶酔極まった歌詞世界等々、全ての研ぎ澄まされきった要素が噛み合って生じた、日本語オルタナロックの金字塔。一言としては長すぎるだろうけど、ひとまずはこうでもしておこう。

 クリーンのままパワーコードでリフを鳴らすだけのイントロ。この時点で既にこの曲の、街中の喧騒だとか、人の優しさ温もりだとかとは隔絶した音楽だと少し感じれる。ブルーズと呼ぶにはゴツゴツしすぎ、ハードロックと呼ぶには無愛想が過ぎるそのフレーズは、この曲の舞台が“隔絶した荒野”という意味での“オルタナティブロック”であることを示してくる。弦を指が滑る音やブラッシングの生々しさ。効果音的に処理されたスネアロールと共に始まる籠った録音に加工された歌は、殺伐としたメロディでもって、この曲の舞台設定・そして主人公のどうしようもない立ち位置を決して多くない言葉で端的に説明する。

 

観覧車に独りで暮らしてる 大嫌いな世界を見下ろして

 

あまりに当時の尖り切った山中さわおすぎるフレーズの後に始まるアンサンブルがまた、実にザラザラとした歪みのギターが左側で不可思議な幾何学的反復を続け、右側でベースと一体化したような低音の歪みのギターのパワーコードが鳴り続ける、明瞭に不機嫌なオルタナの音そのものとなっている。リードギターの理不尽さはしかし、これ単体で抜き出しても何も良くなさそうなそれが、この曲のキリキリとした緊張感のキーになっていると感じられるところに魔法がある。この荒涼感、この殺伐さ。これがこの曲の基調だけど、歌は冒頭の何もかも見下す独りよがりの孤高に耐えられず、何故か寄り添ってくる“キミ”をどうしようもなく求める。

 

待ってたんだ キミと出会う日を

かしこまった日差しに こげながら

僕だけの窓を開いて 待ってたんだ ここでこうなる日を

 

お気づきだろうか、この後も不敵な言葉を吐きながらも、孤独に閉じこもった自分に会いにくる他者がいる、いてほしい、という、書いてる自分も心痛くなるような身勝手な願いを。そんなこと、歌の中かなんかの物語の中でしか起きはしない。それを承知の上で、だからこそこの歌のシチュエーションに惹かれてしまう駄目な自分がいる。

 この曲がそんな、音は殺伐ながらヌルい願いを胸にしたまま淡々と歌われて終わる曲ならそれなりの価値で済むだろうけども、素晴らしいのは、初見では相当の確率で「えっこれだけ…?」となってしまうであろう、短すぎるブリッジとサビの、その緩急の鮮烈なところだ。もはやブリッジとサビに分ける必要あるのかと思うそれだけども、一瞬引き絞ってから、一気にノイズと共に解放し炸裂されるその流れは、ギターを始めたばかりの人でも追うのが簡単そうな実にシンプルなパワーコード上昇2回と、ヴァース以上の殺伐さと不穏さを感じさせるコードとで構成され、そしてボーカルもまた、突破感と虚無的な情緒と、ちょっと恥ずかしくなって誤魔化すようなファニーさとを、実に短時間に詰め込んで見せる。どうやってこんな曲構成を思いついたのか。理論的な算出では導かれなさそうな、閃きの一閃。書いた本人だってこんなの、これより後に狙って書けたことないような、人生一回きり感のある必殺のフレーズだろう。歌詞としては特に2回目のフレーズが好き。

 

目を開けてたら つきささって痛い 風の尖った夜*4

キミとキスして笑い転げる

 

 この曲のギターソロも素晴らしい。最初のサビ後はそれまでのヴァースの不可思議フレーズを少しほぐしたようなフレージングを見せ、2回目サビ後のしっかりそういう展開として尺をとったセクションでは、荒野の途方も無い広がりと吹く風の鋭さと、しかしだからこその厳かな開放感を示したような、不思議な雄弁さを持ったまま最後のブリッジに雪崩れ込む。最後はブリッジも2回繰り返し、つまりこれまでよりも強く強く引き絞った上で、最後のサビを勢いよく弾き出す。別に回数が増えたわけでも無い呆気ないままの最後のサビは、しかしメロディの解決により感情が乗ったようなフェイクを選択した上で、この曲の情緒を以下のように締めくくる。

 

二人同時に 夢で見たのさ

生まれ変わった時代 虹のかかった未来

キミとキスして 泣いてしまった

 

それまでヘラヘラした調子で「笑い転げる」と綴っていたものが、ここだけ、この主人公が本来有する弱さがモロに露出してきて、これで締めるからこそ、この曲は情緒としてもロマンチックで*5、だからこそシングル曲にもなれたんだろう。こんなゴツゴツした尖りまくった曲をシングルにしたこと自体、奇跡的で、だからこそ素晴らしいことなんだけども。

 アウトロでイントロ以来出てこなかったフレーズが歪んだ音とアンサンブル付きで再現され、そして最後の一言でザクっと全楽器が強制ミュートすることで、この曲の殺伐さと、その実人恋しさとそれを気恥ずかしく思う感覚の詰まった情緒とが、オルタナ式無情さで閉じられる。この終わり方の格好良さ。この曲本当に、何もかも格好いい。沢山書けば書くほど、この曲の潔い格好良さから遠ざかっていくような、そんな格好よさ。こんなもの読まず、ただ感じてほしい。

 

www.youtube.com

 

 

17. 確かめに行こう(アルバム『RUNNERS HIGH』1999年)

 すごい曲を続けてしまうな。というか『Brand-new Lovesong』はこっちの枠でも行けたな。

 何故なのか色々と特殊なアルバム『RUNNNERS HIGH』にて、大団円パーティー感のあるタイトル曲を押しのけて最後に収められたこの曲は、そんなパーティー感も冷め切らせるほどに陰気。収録アルバムまでに見られるウェットな歌い方で、同じコード進行の同じメロディを延々と繰り返し、間奏を挟んでも繰り返し、自身の不安さを自分で追い詰めさせる心の働きを延々とブツブツと呟き続け、やっとメロディが展開し演奏に火が点いたと思ってもミドルエイト的な存在感で通過し元の繰り返しに戻り、しかしそこまで延々と引き絞ったが故の、圧倒的な解放感を楽曲の最後の最後で得る、という構成の楽曲。初見は「何を延々とウジウジしとんじゃこいつ…」と思うかもしれないが、ここまで曲構成と歌詞の流れが合致した楽曲も、the pillowsに限った話じゃなしに中々ないだろう。

 そういえばthe pillowsというバンドは、同じコード進行を延々とループさせる曲構成はしない方のバンドだ。ちゃんとセクションを設けてはそれぞれのコードの動きを作り楽曲を動かしていく、そんな印象が強いバンドだ。ただ、たまに延々と同じ展開を繰り返し、そこからの浮上を劇的に響かせる曲を書く。『白い夏と緑の自転車、赤い髪と黒いギター』や『1989』はそんな構成の一群だろうけど、もしかしたらその元祖かもしれないこの曲の、内により深く篭り続けていくようなループのあり様は少し趣が違う。

 この曲の基調は一貫して地味だと思う。イントロのアルペジオの時点で、ある程度の煌びやかは備えてるけども、どこか憂鬱さが滲んだ地味くささを持ってて、少なくともキラキラした感じは何故かしない。歌が始まって以降の伴奏も含め、どことなくPavement『Shady Lane』を感じさせるⅠ→Ⅵm→Ⅲm→Ⅳのコード循環も、それ単体で見ればもっとポップさや爽快感ある響きにもなりそうなものなのに、そんなことなく、淡々と暗い、いや、明るくない、冴えない響きだけを基本保持し続ける。そこに、次のアルバム『HAPPY BIVOUAC』で完全にクランチな歌い方に切り替わる前最後の、作者の素に近いウェットで神経症的な歌い方で、囁く様に、サッパリともせず明るくもない根暗な歌が連なっていく。メロディ・歌い方・歌詞のどれもが、決定的に悲劇的な暗さではなく、どこかジメっとした、ぼんやりした憂鬱を抱えたまま力無く続いていく様は、彼らにポップな突き抜けを期待する人たちからしたら嫌悪感さえ抱くかも。これがなんだかミドルエイトや終盤の展開抜きで心地よく感じれるようになるのは、人生そこそこ疲れてきてる頃かもしれない。

 それにしても、どこを切り取ってもぼんやりとダメで、暗い。

 

今の僕を待ち受けるものに 何を当てはめていたのかさえ

自分でわからなかったくせに 勝手に失望していた

どんな期待をしていたのだろう タネも仕掛けもないマジックに

だまされたいと願ってみても 目と耳は飾りじゃないから

それも出来ない

 

「うるせえよ!飾りにしとけよそこは!」と思う人もいるかもしれない。延々と自身の心境をネガティブに分析し、かつダメダメにもなりきれず中途半端に生真面目で、だからかえって自身を追い込む。そんなタイプの憂鬱なうた職人山中さわおの、これは真骨頂なのだ。ヴァース2回繰り返し×3回を延々とこの薄暗いテンションで駆け抜けるでもなく通り過ぎていく様は、何を聴かされてるんだろう…という気持ちにさえなってくることもあるだろう。淡々とした演奏もまた、このテンションを妙に大事にする。

 2分半に辿り着く頃に、ようやく演奏が熱を帯びて、やっと、やっと楽曲が展開する。元のコード循環を外れて、歪に気合の入ったギターで赤熱するこのセクションも、しかしサビ的な爽快感よりもむしろ、焦燥を重ねた末の重苦しい燃焼、といった趣で、こういう類の熱情の吐き出し方は彼らには珍しいが、この引き摺るようなテンションの焦れ方が、なんともこの曲に相応しく、あくまでミドルエイト的存在として置かれているこの曲構成と情緒との噛み合い方が素晴らしい。歌詞を鑑みるに、この構成は本当に計算されて配置されてる。

 

はだしのままで人ごみは歩けなくなって

靴をはいて ちょっと ハネてみたって たかが こんなもんさ

アスファルトは まだ あの頃の僕を憶えているか

太陽がもっと高く眩しく感じた毎日を

 

アスファルト「そんなん知らんわ。舗装に何期待しとんねん」と思う向きもあるかもしれないが、この地面から来る焦燥の熱をパッと空の太陽に反転させる筆致は見事。

 こんなジリジリした展開を経ても、少し宇宙的な音色の間奏を経て、またすぐにまた元のループに戻っていくのがこの曲の情緒。しかしそれは、本当に溜めて溜めて溜めて、情緒を厳しく引き絞りに絞った上での、実に4分が経過した果てにようやくやってくる、鬱屈が裏返って万能感に変わるその解放の瞬間のためだったと判る。ここの開放感・マイナスがプラスに裏返った感覚・ネガがポジに急に切り替わった風景の感じは、ここまで通して聴くことで本当に感じれる類のもので、細かい解説は意味がないだろう。the pillows通じても、ここまでの尺のトンネルの後にこのような展開が置かれたのはこの曲が唯一じゃなかろうか。それは確かに高く、眩しく、そして謎に気高い。

 まだ「the pillowsのアルバムの最終曲は軽いものを置く」という定型が出来る前の過渡期ではあるけども、だからこその不安定さからのブレイクスルーによる終わり方。アルバム『RUNNERS HIGH』が考えれば考えるほど妙に特殊であることの、この曲は最たるものかもしれない。こんなエンディングを迎えるアルバムは彼らではあれしかない。

 

 

18. Beautiful Picture(シングル『ハイブリッド レインボウ』1997年)

 重たい曲を続けてしまう。それにしてもシングルのカップリングに6分超えのこの曲は実際重いし、しかもそのシングルが『ハイブリッド レインボウ』だというのがまた凄い話。全然タイプが違う曲なのも面白いけど、この曲はそもそもthe pillowsの長い歴史の中でも異様な、実にひんやりとした存在感を放っている。あまりにも別ベクトルに突出した完成度ゆえにアルバムの雰囲気に合わずにカップリングに回されたと思われる。だってこの曲、やってることThe Cureだもの。the pillowsでそんなことあるかよってある程度かれらについて知ってれば思うだろうけど、でも曲名からしてどことなくThe Cureっぽいですねこの曲。美意識のあり方がキャリア中で全く儚く孤立してる。

 改めて概要。LITTLEでBUSTERSなthe pillowsオルタナパワーポップ様式とはまるで異なる、怪しくも悲しく儚いThe Cure式の息詰まるようなムードの中を歌が漂い、何故かダブ風味のベースが這い、そんな行くあてもなくたゆたう雰囲気が、サビとも呼べない楽曲の中の亀裂のような一瞬に魔法みたく吸い込まれて息を呑む、そんな楽曲。もしくは、アルバム『Please Mr. Lostman』に詰まっていたなんとも惨めなナイーヴさの、その虚しい極みのような曲。本当にカップリングに入れるしか無かったんだろうな。彼らのこういう曲もっと聴きたかったかもな。

 よく冷えたアコギのコード弾きとタンバリンだけの響くイントロの時点で、聴くバンドを間違えたかな?レベルの普段との違いがある。こんな切なくも息苦しいコード使うの?と、この曲を後のカップリング集の中で見つけた人は思ったかもしれない。第2期の路線の延長線上にあると考えればあり得る話かもだけど、それにしてもこの響きは冷淡で救いがない。The Cureでも、シングル曲ではなくアルバム曲の名曲とかにある雰囲気。ドラムが入ってからも、えらくコンプか何かの効いた、それ自体が効果音的な響きを持つドラムの音に何か不健康さを覚える。歌が入ると普通の生っぽいドラム音に変わるあたり、この過剰な強調っぷりは計算されてる。ピアノの単調な鳴りも、バイオリンみたいに響くリードギターの音も、『ハイブリッド〜』から遠く離れた閉じた世界観を思わせる。そして、継続的に鳴ることをせず、1サイクルの後半に差し込むように入ってくるダビーなベースの不穏さ。the pillows全楽曲で見て間違いなく最も極端なベースの使用法がこの比較的静かな曲でなされてることの歪さは、特に楽曲後半になってくると目立ってくる。

 本家The Cureのこの手のタイプの曲と異なるのは、延々と同じメロディ等をループし続けるThe Cureに対して、この曲は明確に曲展開があること。そしてこの曲展開の結末の儚い美麗さがこの曲を完全に特別なものにしている。すなわち、閉じこもったところから少し飛翔を目指すようなブリッジ的セクションから派手なサビなどに接続せず、多くの楽器が強制ブレイクする静寂の中での短いワンフレーズの歌、このあり方の実に感傷的な具合、まるでその一瞬時間が停止したようなところが、この曲を極めて非凡な境地に追いやっている。その短い静けさがコンプで野蛮に拡張されたスネアフィルに破られるところも含めて、実に儚い。彼らが立ち位置を模索する中で生まれた、あまりに突出し過ぎたが故に他曲への援用も出来ないほどの、儚さの極み。

 間奏の絞り出すようにうねる狂った調子のギターも異色で、もしかしてこの曲はちょっとばかりRadioheadとかそういう方向も目指してたのかもと思ったりする。ブリッドポップが廃れつつあった時期に生まれた歪に幻想的なUKロックの感触というか。それは、演奏が一旦収束してから始まる新しいメロディ展開が、えらく遠くから何かに吸い込まれるように響く形にボーカル加工された歌から始まることにも見られる。歌がまともな響きに戻って、なんとも山中さわお式に身も蓋もない告白でメロディが最高地点に達した直後に、最後の強制ブレイク静寂展開を挟み込み、それでも楽曲はまだ1分半近くの尺を残していることに、この曲の徹底っぷり、後の彼ららしからぬ過剰さが見え隠れする。5分半頃にドラムがパッと消えて以降の段々他楽器の余韻が消えていく中で、最後まで残るベースの正常でなさ、平穏でなさは、このバンドの歴史上でも格別に異様な場面で、これもまた、バンドの基本路線からのオルタナティブとして、替えが効かない魅力的な存在感を放っている。

 歌詞は『ストレンジ カメレオン』以降の「世界からはぐれた寂しい二人」の世界観。歌い出しからの歌詞は、これが発展・凝縮して『カーニバル』になるのか、という過程を楽しむ趣もある。

 

遊園地を斜めに腰掛けて 時間をつぶしてた

もうすぐ終わる噴水ごしに 遠くばかり見てた

あてははずれたけれど悪くないのさ

静かにそっと 何かを手に残した二人

どこも間違ってないぜ

 

 「どこに居てもミスキャスト」(『MY FOOT』)と自身について歌いがちなこのバンドだけど、そんなバンドの中でもこの曲ほどどこに置いてもミスキャストになる曲はない。その事実がまた、この曲のあり方を余計に儚くさせるんだろう。

 

 

19. My Girl(アルバム『MY FOOT』2006年)

 この曲もすごくいい曲!リアルタイムで初めて聴いた時に、その曲構成から少々地味に感じつつも、その地味さに何かよく分からない奥行きと魅力を覚えたけれど、ようやくそれを文字に落とす機会を得た。

 循環コードのループ展開がthe pillowsに少ない話を上の方でしたけど、この曲はその例外の中でも最高峰。延々と同じコード進行をループさせつつ、歌とギターリフと微細なコード変化とで、メインテーマ・ヴァース・サビの3セクションを循環コードの中に何気に強引に作り出す、その手際とギターのドライブ感の心地よさ、基本ポップなコード進行に導かれた穏やかな歌に含まれたちょっとのセンチメンタル具合が絶妙な、このバンド的なギターロックの侘び寂びが極まった1曲

 何も勿体ぶらず、いきなりアンサンブルはバンド史上でも最上級の心地よいドライブ感を有したギターフレーズを放ってくる。技法としてのツインギターにえらく凝ってたアルバム『MY FOOT』の時期に生まれたリフには良いものが多いけど、これはその中でも必殺の粋にある。コード進行の穏やかさから導かれるムードを持ちつつも、仄かにドリーミーで、少し感傷的なこのフレーズの強さにまず引っ張られることからこの曲は始まる。『My FOOT』期はまた、リフ偏重で徹底的に演奏形式をミニマルに構成しようとしていた時期だけど、この曲はそのひとつの極みで、このメインリフセクション含む3つのセクションの繰り返しのみで構成されていると言っていい。徹底的に繰り返しだけで構成するという構成上の退屈さに耐えうるためには、それぞれのセクションのクオリティを「変化がなくてもまた聴きたくなる」ほどにあげる必要があるけど、その意味でこの曲は3つのセクションどれもが素晴らしいことで、名曲として成立している。

 ギターフレーズの圧が引き、ヴァースのパートが始まる。言葉を連ねるというよりももっとこう、点描的なメロディの配置というか。割とオーソドックスなコードの上に割と素直なメロディが乗っているだけなんだけども、歌の音数を減らすことで生じる隙間に、伴奏のアルペジオの程よい煌めきと、リズムギターの小気味よいフレージングの変化と、そして、穏やかであることによって生じる類の寂しさのようなものが染み込んでいる。実に淡々と演奏・歌唱されることによって生じるこのリリカルさは、ある種の円熟を感じさせる。それが実にたわいもない平易な言葉で構成されることもまた、あえて言葉にする必要のない微細な情緒を醸し出す。

 

どこかで誰かと 笑ってるのなら

それでかまわない なんて思えない

キミに会いたいな キミに触れたいな

だけどたぶんもう 別人みたいさ

 

 そして、大体同じコード循環の中で、タイトルコールと新たなギターリフの展開のみでサビのセクションを強引に作り出す手法。言葉数少ない歌の隙間をギターの少しばかりヒロイックなトーンが埋めていく様は、相互補完というか、ギターもまた歌であるというか、歌だけを聴くのではなく、歌とギターが、というか演奏全体が歌ってきている感じというか。この曲の伴奏はもしかしたら、the pillows全楽曲の中で一番好きかもしれない。the pillows特有のボーカルのダブルトラックの淡々とした手触りも、この曲のこのサビのそれは格別の良さがある。抑制することによってむしろ暗然として雄弁に溢れ出す情緒。

 間奏のギターソロが案外すぐに終わって、最後のヴァースがギター静かめに始まり、その後元のヴァースの伴奏に戻った上で、ヴァースの最後に歌の跳ね上げとドラムのスネア連打で本当に一瞬だけエモを解放する、そしてすぐに安定のサビに入る、という部分に至っては、このバンドの侘び寂びのひとつの頂点を見る思い*6がする。たった2秒にも満たない時間だけの、大変激烈な訳でもない感情の解放。その良さについてくどくど言うのは、流石に野暮だろう。

 この曲はシングル『ノンフィクション』のカップリングに別バージョンが収録されていて、そちらはリズムレスで延々と同じパターンのギターアルペジオが反復し続けてそこに漣のようなシューゲイザー気味なギターが重なる幻想的な仕上がりで、どちらのバージョンもギターアクションの可能性の探究のために歌をシンプルに仕上げたというか、歌がシンプルな分、ギターをはじめとする演奏での解釈の余地が非常に大きいんだと思う。それにしてもこの時期に密かにこういうのもやっていたのは少し興味深い。

 

 

20. ぼくのともだち(アルバム『REBROADCAST』2018年)

 重い曲が並んだ16曲目からのセクションの締めもまた5分超えのこの曲。3分が基本のバンドが5分の曲を書けばそりゃ何かあるに違いない。アルバムでは『ニンゲンドモ』の次に置かれ、怪曲『Smile』の歌詞中の単語を曲名にした『ニンゲンドモ』はスタイルはともかく案外まともで、実は怪曲枠はこっちでした、っていう罠じみた曲順にthe pillows的ウィットの表出を感じる。

 それにしてもこれが結果的に最後になったアルバムに入っているという事実は何とも言い難い。ぼんやりまったりとしたうだつの上がらない曲調でダラっと進行してたかと思うと、突如それを振り払うかのようにザラザラに荒れ狂い、最終的に2つのコードを行き来するだけのヤケクソなグランジに変貌する、その強引すぎる曲展開に作者の現状認識とそれに対する反抗とが強く刻まれた、というか曲展開を通じて直接何かを語ろうとした、みっともなさ極まる暴発的名曲。そう、この曲の何が凄いって、大変みっともなくて必死なことが、何より素晴らしいのかも。

 イントロの段階で、初見では誰もこの曲がその後あんな展開をするなんて思わないだろう。鈍い歪み方とフレージングをしたリードギターがだらしなく響くアンサンブルには明確に覇気がなく、スネアの音もかなりもっさりしてキレがなく、そんなに暗いコード進行でもないだろうに空気は妙に澱んでいる。明確に暗い訳でもないのが嫌なリアリティをもって響くけど、これは積極的に“だらしなさ”を表現しようとしてこうなっている感じはある。その証拠として、この曲のイントロや間奏のコード進行はどうやらCの後に4.5度下のF♯7-5とかいう不協和音感の強いコードを持って来ている。ガッツリ鳴らすと気味悪くなりそうな進行も、ダラっとした雰囲気でまったりと奇妙なところに収まっている。

 どことなく後期The Beatlesを感じさせるドラムブレイクで歌は始まり、こちらの方がF♯7-5のくたびれた気色悪さはより伝わる。このコードこそがこの曲のうだつの上がらないムードを象徴している。シングルトラックの歌の、ポップではあるけど微妙に焦点の定まらないようなメロディも、2本のギターの、トレブルが死んで空間的な仕掛けもなく妙なフレーズをくゆらせる様子も、何か不健康な抜けの悪さを体現している。このパートに『カーニバル』のようなささくれ立った殺風景なテンションはなく、むしろ真逆のぬるっとしてどうしようもない空気ばかりがある。このだらっとした空気感もこれはこれでとても好き*7で、後の破滅的展開の前振りとしてもさることながら、腐り落ちる予兆を明確に感じさせる名演のようにも思えるのは少し、筆者自身の状況や体調も踏まえた主観的評価すぎるのかもしれないが。

 少しギターが元気になるブリッジ?を経て、最初はそのまま間奏に入ってまたヴァースからの流れに戻る。このまま表面カサカサなまま内側がジメッとしてるような、焦燥がぼんやりに呑み込まれ続けていくような曲として一貫してもそれはそれで凄い曲になっていたのかもだけど、この曲は2回目のブリッジ?の後に豹変する。一気にギターの歪みは増え、空気はオルタナ式にザラつき、ボーカルは何かに急かされるかのように急に声を荒げ始める。そして、2つのパワーコードを打ち付けるように繰り返すだけの、粗暴の極みのような展開に到達する。The Beatles meets Nirvanaなどと言うこともできるのかもしれないが、そんなことよりも、結成30周年を迎えようとするバンドが普通に鳴らすような音や展開ではない、実にトンデモな作りが、しかしこの曲で作者が訴える心情と直結していることに、この曲の重要な意味がある。

 この辺で歌詞を見とこう。テーマはまさに「大人になって丸く、ヌルく、ダルくなった友人に『かつての熱を取り戻せよ!』とみっともなく訴える」というもの。この“友人”にはおそらくバンドメンバーも含まれるし、作者自身さえ含まれるんだろうからそのヤケクソな攻撃力は高い。ヴァースの描写は比喩的ながらやるせない。

 

暗闇で何を見てるの?

出来上がったシェルター 居心地はどうだい

懐かしい記憶のキミは 窓を開けっ放しで空を見てた

 

ある種の安寧に閉じこもった友人を、次第に荒ぶって来た主人公は引っ張り出そうとする。いや、引っ張り出せないでも、せめてあの頃の気持ちを思い出して欲しいと願う。

 

一心不乱に運命に逆らった日々を

思い出して思い出して思い出してほしい

思い出して思い出して思い出してほしい

 

単調なグランジ演奏とともに叫ばれるこのフレーズは、明らかにその攻撃範囲に自身さえ含んでいるから重たく、そしておそらく、そんなものは中々本当に思い出せるものでもないということを悟っているところもあるから、余計にその演奏と叫びはヤケクソに塗れていく。ギターソロ後のひたすら荒れ狂い続ける最後の展開では、歌の後に、案外彼らがしたことのなかった、スケールとかを無視したノイジーでフリーキーなリードギターの暴走を響かせて、それがもしかしたら、歌以上に何か雄弁かもしれない。

 そんな年甲斐も無い暴走が、しかしどこかで止んで、そして元のうだつの上がらないヴァースのコードとメロディに戻って終わることもまた、この曲のやるせなさをしっかりと完成させている。本当にこの曲の情緒の乱昇降は苦しく、みっともなく、昇ったまま終われず最後に降りてしまうあたり救いようがなく、どうしようもなく、だからこそ何かリアルで、認めたく無いけど認めざるを得ないものがある。それを“老い”の一言で済ませたくはないけども、そう呼ぶ人もいるだろう。いや、単にそれだけじゃないもっと何かの摩耗なんだとは思うけども、その正体が人類に完全に分かることはないだろうから、だからこそこの曲は歪な求心力を持つ。

 なんか血走り具合が2003〜2004年頃のエレファントカシマシみたいだな。そういえばエレカシもあの頃の名曲に『友達がいるのさ』なんてのがあったけど、世界観はあっちよりもこっちの方がずっと深刻で終わってんなあ。

 

このスープは すっかり冷めている

特別じゃない 終ってゆくんだな

 

  『白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター』the pillowsより

 

2002年の時点でこういうの置いとくのズルいけど、こういうのが本当に本当に如何ともしようがなくなってしまったどん詰まりの果てを、『ぼくのともだち』は見せてくれたんだと思う。このみっともなさは、焦燥を焚き付けられるし、でも恥ずかしい話、励まされもする。『Funny Bunny』では励ませない魂を励ましうる、決死の一曲、ということにしとこう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

小結

 次の記事で今度こそ最後まで完走します。あと15曲もすげえ曲ばっかりなので、ダラダラ長い記事ですがお楽しみに。。

 それにしても、しばらく前なら一気に完走できてそうなこの手の記事でこの体たらくはなんとも情けなくて、『ぼくのともだち』の歌の内容がダイレクトに響いてくるところ。そういう意味ではあの「the pillows大復活作!」みたいな雰囲気も、案外バンドメンバーの年相応にくたびれた、だからこその良さがあるんだなあと思った次第。同様の理由で、自他共に認める全盛期の作品よりも、人生に疲れまくった感覚が歌にも言葉にも音にも感じられる『TRIAL』がいつ頃からかもしかしたら一番好きな作品なのかもと思えて来た頃のことをちょっと思い出すようなでもそれも結構前のことになってしまったような。まだここまであのアルバムからの直接の選曲ないが、果たして…。

 

 

2025.5.6追記

一連の記事の最後の分を書き終わりました。

ystmokzk.hatenablog.jp

*1:実際にはこの後さらにシングル曲『ONE LIFE』で90年代日本人のもうひとつのUKロック桃源郷であるOasis『Don't Look Back in Anger』に挑んでやり切ったことで、UKロックからUSオルタナへ吹っ切れることになる。一時期の日本のロック界における『Don't Look Back in Anger』の影響力は象徴的なもので、これテーマに記事を書きたいと思ってずっと書けないでいるけどいつか書きたい。

*2:「信号が何色でも ブレーキなんて踏まない」という元々の歌詞が道交法違反を推奨するような内容でまずかったので、空耳アワー形式で取って付けたような英語詞になっているもの。

*3:アルバム『RUNNERS HIGH』は何故か本当にこの形式の曲が多くて、例外を挙げた方が早いかもなくらい。

*4:おそらく無関係だと思うけども、同じく風が鋭くなっていく歌であるNUMBER GIRL鉄風 鋭くなって』は2001年のシングルである。

*5:たとえば、この曲と同等かそれ以上にオルタナ極まった『Vain dog(in rain drop)』の歌詞ではこうもいかない。

*6:これが頂点だと分かってしまうのもバンドが解散したことでキャリアが終わったからなので、やっぱり少し寂しい。

*7:このぼんやりと身体が重くて抜け出せない感覚はこのバンドは過去にも『ポラリスの輝き 拾わなかった夢幻』(アルバム『TRIAL』収録)で似たような雰囲気を表現していた。




以上の内容はhttps://ystmokzk.hatenablog.jp/entry/2025/03/30/133248より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14