うーん。長々書いたけどボツ。 なるほど、いざ自分で掘り下げてみた結果として、シロクマさんがbookappsの記事を力セーブして書いた理由もなんとなく理解できた。不満とかいってすみませんでした。
うーーーーん。
正直この記事めっちゃ不満。
私はシロクマさんの手抜き感を感じる記事よりも、dankogaiさんの簡潔なツイートのほうが心に刺さりますね
※後述しますが、私がこの記事に「手抜き感を覚える」は私のやましさの投影に過ぎない可能性が高いです。
「大衆が賢い選択をした」ならまだ救いがあるけどワシには「賢くなったところで自分は何も得しない」という境地に多くの有権者が「至った」結果に見える。その「高度な」義務教育からどれだけの子が静かに「落ちこぼれて」いるのか、「ついて行けた」子には見えない https://t.co/RuFKjCRqpL
— Dan Kogai (小飼 弾) (@dankogai) 2025年7月23日
シロクマさんが展開する「参政党に投票した人を馬鹿にするな」という主張は
リベラルを自認する層が陥りがちな「上から目線」への自戒を促すものであり、それ自体、非常に価値のある問題提起です。
確かに異なる意見を持つ他者を安易に「愚か」と断じる態度は、社会の分断を深めるだけであり、建設的な対話を不可能にします。その点において、シロクマさんの論旨には全面的に同意します。
ただ、シロクマさんが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」と提案するとき、そこにはまだ、「賢さ」という単一の物差しで他者の行動を測ろうとする視点が残存しているかもしれません。
それは、自分たちの理解の範疇に相手の行動を引き寄せ、「彼らもまた、我々とは違うロジックで『賢い』のだ」と納得しようとする、ある種の知的操作のようにも見えます。
これに対してdankogaiさんの言葉は、その「賢さ」という土俵そのものから降りてしまった人々の存在を、私たちに突きつけてくれてますよね。
つまり、シロクマさんがそうやって「大丈夫、君たちはバカじゃないよ(俺のほうが賢いけど)。 それでどしたん、話聞こか?」という態度で接しようとしても
彼らは、いつぞやのイケダハヤト信者のように「まだ賢いとか賢くないとかで消耗してるの?」という態度で返してくるだけになるんじゃないか、まで考えるべきかなと。
彼らは賢いとか賢くないという土壌では戦ってないという想定
これは単なる反発や無知ではありません。むしろ、経験に裏打ちされた、ある種の冷徹な「悟り」であり、生存戦略です。
むしろシロクマさんにはデュルケムとか引用しながら分析してほしいんですよ。
なんか自分の気の所為かと思ったけどやっぱり今回の件はシロクマさんは明らかにこの話題から逃げようとしてる気がしますよ。
もっと昔みたいに「集合的沸騰」とか「アノミー的自殺がー」とかいって私達をキャッキャさせてほしい・・・。
note.com
navymule9.sakura.ne.jp
シロクマ先生がサボってるので、AIくんに補完してもらうしか・・・
というわけで、シロクマ先生の記事があまりに手抜きなすぎて不満だったので、自分が読みたかったものを生成AIに書いてもらいました。
第一部:「賢さ」というゲームからの静かな離脱
まず、dankogaiさんが指摘する「賢くなったところで自分は何も得しない」という境地について、考えてみたいと思います。
現代社会、特に知識人やメディアが称揚する「賢さ」とは、一体何でしょうか。
それはおそらく、高度な教育を通じて得られる体系的な知識、情報を多角的に分析・批判するメディアリテラシー、論理的で整合性の取れた言説を構築する能力、そして多様な価値観を尊重するリベラルな教養などを指すのでしょう。
こうした「賢さ」を身につけることは、より良い社会を築き、個人としても幸福な人生を送るための不可欠な要素であると、私たちは教えられてきました。
しかし、現実はどうでしょうか。
多くの人々にとって、この「賢さ」を追求するゲームは、あまりにもコストが高く、そしてリターンが見合わないものになっていないでしょうか。
第一に、この「賢さ」を獲得するための土台となる教育の機会は、決して平等ではありません。
経済的な格差が教育格差に直結し、文化資本の豊かな家庭に育った子どもが圧倒的に有利なスタートを切る現実は、もはや隠しようのない事実です。
塾や習い事に通い、良質な書籍や文化に触れる機会を与えられた子どもと、日々の生活に追われる家庭で育ち、そうした機会に乏しい子どもとでは、スタートラインが全く異なります。
第二に、たとえ多大な努力とコストを払ってその「賢さ」を手に入れたとしても、それが必ずしも安定した生活や尊厳ある暮らしに結びつくとは限りません。
大学を卒業し、高い専門性を身につけても、待っているのは非正規雇用や低賃金労働かもしれない。
社会の構造的な問題によって個人の努力が報われない状況が蔓延する中で、
「もっと賢くなれ」「もっと学べ」というメッセージは、空虚に響くだけでなく、むしろ残酷ですらあります。
それは、まるでゴールの動く徒競走を延々と続けさせられているような、終わりのない消耗戦です。
この状況下で、人々は気づき始めます。
「賢さ」を競うこのゲームは、そもそも自分たちが勝てるようには設計されていないのではないか。
そして、仮に勝ったとしても、得られるものはあまりに少ないのではないか。
むしろ、このゲームのルールを内面化し、「賢く」なることによって、
自分たちがなぜ報われないのかを「自己責任」として納得させられ、システムの維持に加担させられているだけではないか、と。
この認識に至ったとき、人々が選ぶのは、
ゲームのルールをハックしようとすることでも、より一層の努力をすることでもなく、
ゲームそのものから静かに離脱することです。
これが、dankogaiさんの言う「『賢くなったところで自分は何も得しない』という境地に『至った』」ということの核心ではないでしょうか。
それは「愚か」になったわけではありません。むしろ、自らのエネルギーと尊厳を守るための、極めて合理的な判断です。
複雑で、矛盾に満ち、しかも自分に利をもたらさない既存の言説(=「賢い」人々の議論)に付き合うことをやめる。
代わりに、もっとシンプルで、直感的で、そして何よりも「自分たちのための物語」を語ってくれる存在に惹かれていく。
参政党やその他の新興政党が提示する「わかりやすい敵」と「明快な解決策」は
この消耗しきった心にとって、抗いがたい魅力を持つのかもしれません。
それは、政策の実現可能性や論理的整合性といった「賢さ」の基準では測れない、魂の救済に近い何かを人々に与えるのです。
第二部:「見えない落ちこぼれ」と傷つけられた尊厳
dankogaiさんの言葉で最も胸に突き刺さったのは、
「その『高度な』義務教育からどれだけの子が静かに『落ちこぼれて』いるのか、『ついて行けた』子には見えない」
という一節でした。この「見えない」という一言に、現代日本の分断の根源が凝縮されています。
日本の義務教育は、国際的に見ても高い水準にあると言われます。
しかし、その「高さ」は、平均値の高さに過ぎません。
その山の裾野には、標準化されたカリキュラム、一斉授業という形式、そしてペーパーテストで測られる学力という画一的な価値観についていけず、静かに取り残されていく子どもたちが無数に存在します。
彼らは「落ちこぼれ」というレッテルを貼られ、自己肯定感を少しずつ削られていきます。
問題は、この「落ちこぼれ」が非常に「静か」に進行することです。
彼らは、授業中に騒いだり、反抗的な態度を取ったりするとは限りません。
むしろ、教室の隅で息を潜め、自分が理解できていないことを悟られないように、ただ時間が過ぎるのを待っている。
なぜなら、この社会は「できない」ことを個人の「努力不足」や「能力の欠如」に帰する傾向が非常に強いからです。
「わからない」と声を上げること自体が、敗北の告白であり、恥ずべきことだと感じさせられる。
こうして、彼らの苦しみや疎外感は誰にも気づかれることなく、不可視のまま内面に蓄積されていくのです。
この経験は、学校を卒業しても、その人の人生に長く影を落とします。
社会に出てからも、彼らは「賢い」人々が交わす言葉のゲームに気後れし、自分の意見を表明することをためらいます。
政治や社会問題に関する議論は、まるで自分とは無関係な、遠い世界で行われている高尚な会話のように聞こえる。
メディアで語られる「あるべき市民像」や「論理的な思考」は、かつて自分がついていけなかった学校の授業の延長線上にあり、再び劣等感を刺激するのです。
一方で、「ついて行けた」子どもたちは、この「静かな落ちこぼれ」の存在に、本当に気づくことができません。
彼らにとって、学校は努力が報われる公正な場所であり、社会は能力に応じて活躍の場が与えられるフェアな競争の場に見えます。
だからこそ、既存のシステムから恩恵を受けてきた人々は、なぜ他者がそうではないのかを本質的に理解することが難しい。
彼らが「落ちこぼれた」人々に向ける眼差しは、善意からであっても、しばしば「憐れみ」や「啓蒙してあげよう」という「上から目線」になってしまいます。
シロクマ先生が批判する「かわいそう的なことをいう高学歴者」は、まさにこの構造から生まれるのです。
この長年にわたる「見下されてきた」という感覚、
公の場で発言権を与えられず、常に「教えられる側」「劣った側」に置かれてきたという鬱屈した思いは、傷つけられた尊厳の問題に他なりません。
ここに、参政党のような勢力がなぜ支持を集めるのか、もう一つの答えがあります。
彼らの演説や発信は、小難しい理屈やデータを並べ立てる既存の政党とは全く異なります。
彼らは、人々の感情に直接訴えかけます。
「あなたは何も間違っていない」「これまであなたを無視してきたエリートたちが間違っているのだ」「あなたの感じている怒りや不安は正しい」と。
このメッセージは、政策の是非を超えて、傷つけられた尊厳を回復する強力な「承認」として機能します。
初めて自分たちの言葉で語ってくれる政治家、初めて自分たちを対等な存在として扱ってくれる共同体に出会ったと感じる人々にとって、
その党に一票を投じることは、単なる政策選択ではありません。
それは、これまで自分たちを無視し、見下してきた社会全体に対する、魂からの異議申し立てであり、自らの尊厳を回復するための闘いなのです。
それを「馬鹿だ」「愚かだ」と切り捨てることは、彼らがようやく手にした承認の感覚を、再び無残に踏みにじる行為に他ならないでしょう。
ちなみに、私はこういう理由で投票するのを単なる無知の何倍も危険で愚かなことだと思っているので
もしこれが理由なら、全力で真摯に止めます。
第三部:「賢い選択」という評価軸を超えて
以上の考察を踏まえると、私たちは再びシロクマ先生の「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」という提案に戻らざるを得ません。
この提案は、他者への敬意を示すための重要な一歩ではありますが、貴殿が示唆するように、もしかしたら不十分かもしれません。
なぜなら、「賢い選択」という言葉を使う限り、私たちは依然として「賢さ」という評価軸に縛られているからです。
「我々が愚かだと思った選択は、実は彼らにとっての別の合理性に基づく『賢い』選択だったのだ」と解釈することは、一見すると寛容に見えます。
しかし、それは結局のところ、他者の行動を自分の理解可能なフレームワークに収め、安心したいという「賢い」側の一方的な欲望の表れではないでしょうか。
それは、相手の痛みや絶望そのものに向き合うのではなく、それを「合理性」という言葉でラッピングし、知的対象として処理してしまう行為になりかねません。
dankogaiさんのご意見は、私たちに「賢いか、愚かか」という二元論的な評価軸そのものを放棄することを迫ります。
問うべきは、その選択が「賢い」かどうかではありません。
問うべきは、人々がなぜ、そのような選択を「せざるを得なかった」のか、です。
彼らをそのような選択へと駆り立てた社会の構造、経済的な困窮、教育システムにおける疎外、そして何よりも、長年にわたって蓄積されてきた尊厳の毀損とは何だったのか。そこにこそ、私たちの眼差しは向けられなければなりません。
政治の役割もまた、問い直されるべきです。
政治の役割は、国民を「より賢く」教育・啓蒙することではありません。
そのような態度は、結局のところ「ついて行けた」側の傲慢さに繋がり、分断を助長するだけです。
「賢く」あろうとすることを諦め、あるいはそのゲームに参加する資格を最初から剥奪されてきたと感じている人々の、声にならない叫びに耳を澄ますこと。
彼らが抱える日々の生活の困難、将来への不安、そして社会から尊重されていないという痛切な感覚に、真摯に向き合うこと。
それこそが、今、政治に求められている最も重要な責務ではないでしょうか。
p-shirokuma.hatenadiary.com
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シロクマ先生が結論として述べる「敬意を払う」という姿勢は、絶対に必要です。
しかし、その敬意は、相手の選択を「賢い」と解釈することで払われるべきではありません。
相手がどのような人生を歩み、どのような痛みを抱え、何を渇望しているのかを想像し、その複雑で矛盾をはらんだ存在そのものに対して払われるべき「存在への敬意」であるべきです。
私たちは、彼らを分析や評価の対象としてではなく、この社会を共に築いていく、対等なパートナーとして迎え入れる覚悟を持たねばなりません。
・・・・あれ、なんか長々語った割にベタな話にしかならないな。
ガチで語ってもこういう結論にしかならないっぽいですね。
なるほど、これがわかってたからシロクマさんもガチ語りを避けたのか・・・よくわかりました。
「賢くなったところで何も得しない」という諦念と、「ついて行けた子には見えない」という断絶
この二つが交差するところに、今の日本の政治的風景が広がっています。
この深い亀裂を前にして、私たちにできることは何でしょうか。
それは、まず何よりも、貴殿のように「見えない」存在の痛みを見ようと努め、その声に耳を傾けることから始まるのだと思います。
「賢さ」の鎧を脱ぎ捨て、自らが立っている場所の危うさを自覚し、分断の向こう側にいる人々の現実を、想像力をもって受け止めること。
「賢い」人々がなすべきは、これ以上「賢い」言説を振りかざすことでも、他者を「啓蒙」しようとすることでもありません。
むしろ、自らの「賢さ」が、いかに多くの人々を排除し、傷つけてきたかを省みることです。
そして、その上で、どうすれば「賢さ」のゲームから降りた人々とも、同じ社会の構成員として、尊厳をもって共存できるのかを模索することです。