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コメント
コメント一覧 (7)
8.
久良岐のよし
2025年04月21日 20:32
つづき4⤵
地名に関してもだが、このブログの駅の所在地も、普通に一般公開されている史料すら確認しないで「いい加減」と喧嘩腰。
日本人のに「日本語の意味を知らない」で喧嘩を売る。
自分の年齢の生きていた時代の情報だけを基準にしていて、そもそも比較対象が近代の初めの時期までの話しなのに、それ以前の確認を怠って、下らないコメントを残したのは、つまり貴方のミスだ。
IP39.110.101.142船橋本町からの書き込みのアナタの理屈だと、歴史を探求する際に必要な事実考証を必要としているにも関わらず、実際には相手を見て態度を変えているに過ぎないと言う事です。
「古大岡湾」「古帷子湾」「蒔田湾」をスルー?
それは貴方の「欺瞞」です。
7.
久良岐のよし
2025年04月21日 20:31
続き③⤵
「袖ヶ浦」は文字通り「袖の様な浦」の事である。
この地域には「神奈川の宿場」が有るが、小田原北条所領役帳に北条氏康公の総社だった間宮宗甫の所領の一つとして神奈川斎藤分8貫500文の記載がある。
つまり「神奈川」は本来は広域に及ぶ地域は総称で、斎藤分町等の広域を示すわけだが、貴方は「浦」と「入江/湾」の差すら日本語として理解していない。
つまり湿地の平沼は「湾」であり「浦」ではない。
しかも縄文弥生古墳時代が専門の方々では、貴方流に言わせる「そう言われた事実はない」はずの「古帷子湾」と帷子川からなずけて勝手に読んでいる。
アナタはそれに言及しない、何故なら学者には喧嘩をうれないマウントを取ると面倒だからだ。
それは貴方の心の問題でしかない。
次に平沼専蔵による開墾だから平沼と言うのは通説だが、ではそこが「干潟ではなかったのか?」アナタは何で確認したのか?
そもそも17世紀には既に「土砂の堆積で浅瀬と干潟に成っていた」事実が有るから埋立の対象にされたわけだ。
常識的に考えて、概要に繋がる部分の方が深いはずなのに、現横浜駅は日本初の汽車道の上に造られた3代目の駅である事を明治時代の地形図を見た事が有ればすぐに理解出来る。
しかし貴方はそんな事すら知らない。
迅速測図には干潟の様子が埋立られてない部分にシッカリ乗っているぞ?
干潟である以上は「浦ではない」場所だから当初から平沼とよばれていたのでは?
呼ばれていないと言うのは何で確認したのか?
袖ヶ浦は神奈川宿の辺りだぞ?
平沼専蔵等が平沼橋辺りに愛着を感じたのは「平沼」だったからじゃないのか?
そこは「浦」じゃない「湾/入江」だ。
6.
久良岐のよし
2025年04月21日 20:30
続き2⤵
そして「平沼」の話しだ。
平沼は本来、「袖ヶ浦」と呼ばれた入江だ。
だからそもそも帷子湾じゃない。
ここも宗閑湊と同じで江戸時代も中頃を向明ける事には地盤の隆起と土砂の堆積により港としての機能が次第に衰退していき「埋立」が数回に渡り試みられている。
その当時に既に干潟になっていたが、その様な場所を武蔵国域では「平潟」と呼ぶわけだが、干潟ですらなく沼地の場所は平沼と呼んでいた様だ。
その証拠が「平沼」と呼ばれていた事が「迅速測図」に明記されている。
それも小生がブログで書いた仮設の通り「次第に干潟に成っていったからだろう」と書いている通り、本来は一番深さが有って然るべき湾と外海の開口部に「汽車道」の築地軌道が築かれている事からも一目瞭然で「平沼」は「干潟」だから「平沼」で有る事が理解出来る。
では何故に平沼新田を平沼家が、鍋屋新田(岡野)新田を岡野家が埋め立てたのか?
材木商住人だった平沼家は材木商だったからこそ林業が盛んな久良岐郡橘樹郡の貯木場として機能した、この地に移住している訳だ。
「袖ヶ浦」は文字通り浦である。
日本人なら「知っていて当然」だが日本語で「浦」と言うのは外海に面した海岸のくぼ地の砂浜を指す極々小規模な海岸で砂浜が貯まる地形だ。
「浜」との違いは外洋沿いの海岸に潮流をせき止める岩盤の半島が突き出しており、そこに砂が堆積するので「浦」と言う地形由来の場所が正に、江戸時代の神奈川宿宇多。
南北朝時代に足利尊氏が籠城した権現山の旧半島地形だった訳だ。
そこに「宿場」が形成されたのは「浦」の地形なので港が穏やかで水軍や漁師等の海上交通の要所であり、陸上交通との交差点でも有った事に依る訳だ。
5.
久良岐のよし
2025年04月21日 20:29
続き⤵
④平沼湾について。
考古学者が、縄文海進を調べた際に古大岡湾と呼ばれる場所を歴史的に大岡湾、古大岡湾等と近世までの人に呼ばれた歴史はない。
文書としては宗閑湊、後に転じて洲乾湊と、昔、弁天通りの半島に存在した廃寺の宗閑寺/秀閑寺(文書により異なる)に由来して名前で呼ばれていた事実が有るのみ。
秀閑寺は元正保中年間(1644~1648年)に6合1斗の寺領の朱印を授かっており、徳川幕府の朱印に多々見られる漢字誤記は有るが、おこが江戸中期にも「古大岡湾」ではなく「宗閑湊」だった事が判る。
この宗閑湊は吉田新田を埋め立てたと認識されているが、その入海は全体を宗閑湊と呼んでいた事は、風土記他、様々な地図、文書に残っている。
しかし「古大岡湾」と呼ばれた歴史事実はない。
蒔田吉良家が治めた土地なので「蒔田御所」から「蒔田湾」と地元民は読んでいた事もある、しかし蒔田吉良家がいた当時はあそこまでは海ははいっていない。
しかし寳生寺辺りには塩田があり、当然ながら蒔田吉良家の支配地だった。
しかし、吉田新田で干拓された場所は大岡川と中村川に囲まれており、その範囲外で海では無かったと言う事になる。
アナタが私に言った理屈では、平沼新田は文書の残らない縄文弥生古墳時代の発掘を元に歴史を紐解いていく専門の方々が勝手に「古鶴見湾」「古大岡湾」と書いている事も「そんな事どの時代の文書にも書いていない」から「いい加減な事を書かない方がいいですよ」と言う理屈になる。
つまり「古大岡湾」「古帷子湾」は貴方の理屈では「いい加減」でしかない。
4.
久良岐のよし
2025年04月21日 20:27
IP39.110.101.142船橋本町から
古河電工のグラウンド?工場?
だろ?
役は工場の中?
平沼湾なんて呼ばれた事がない?
【グラウンド?】
は?普通にグラウンドは昔工場で、米軍の航空写真で駅もありますけど?
しかも現代でも駅に入る引き込み線の名残がありますけど?
【平沼じゃない?】
は?普通に迅速測図に干潟と言う意味の「平沼」の記載があんだけど?
➡自分の生きていた時代の情報が絶対に正しいと言う先入観で大きな誤りをおかし、かつ他人を挑発してますけれど、アナタ大丈夫?
➡調べもせず書いただろ?
➡浦と湾の違いも日本人のクセに理解せず誤用ているだろ?
①この記事を書くに差し当たり相鉄に連絡入れて許可于受けている。
②米軍の1945~1950年の空撮写真で確認している。
1957年の廃駅以前に、営業休止だった。
既に戦中に横浜大空襲の標的の一つにされた平沼地域は被害が大きかったので。平沼駅も休眠から廃駅に成っている。
次西横浜駅までの距離も遠くない上に利用者が限定的なので廃駅が戦災を受けて以後考慮されていた可能性が高い。
③古河電線駅の名残は横浜イングリッシュガーデンの敷地側の空地の形にシッカリ残っている上に、そこには昔駅に引き込まれていたであろう線路の残存部が存在する。
2. 久良岐のよし
2016年05月26日 23:58
不織庵さん
ども!
史跡と言っても、現在では影も形も残らずですがね~。
1. 不識庵
2016年05月26日 22:07
意外なところに鉄道史跡があるんですね!ここは行ったことがなかったです^^
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コメント
コメント一覧 (7)
地名に関してもだが、このブログの駅の所在地も、普通に一般公開されている史料すら確認しないで「いい加減」と喧嘩腰。
日本人のに「日本語の意味を知らない」で喧嘩を売る。
自分の年齢の生きていた時代の情報だけを基準にしていて、そもそも比較対象が近代の初めの時期までの話しなのに、それ以前の確認を怠って、下らないコメントを残したのは、つまり貴方のミスだ。
IP39.110.101.142船橋本町からの書き込みのアナタの理屈だと、歴史を探求する際に必要な事実考証を必要としているにも関わらず、実際には相手を見て態度を変えているに過ぎないと言う事です。
「古大岡湾」「古帷子湾」「蒔田湾」をスルー?
それは貴方の「欺瞞」です。
「袖ヶ浦」は文字通り「袖の様な浦」の事である。
この地域には「神奈川の宿場」が有るが、小田原北条所領役帳に北条氏康公の総社だった間宮宗甫の所領の一つとして神奈川斎藤分8貫500文の記載がある。
つまり「神奈川」は本来は広域に及ぶ地域は総称で、斎藤分町等の広域を示すわけだが、貴方は「浦」と「入江/湾」の差すら日本語として理解していない。
つまり湿地の平沼は「湾」であり「浦」ではない。
しかも縄文弥生古墳時代が専門の方々では、貴方流に言わせる「そう言われた事実はない」はずの「古帷子湾」と帷子川からなずけて勝手に読んでいる。
アナタはそれに言及しない、何故なら学者には喧嘩をうれないマウントを取ると面倒だからだ。
それは貴方の心の問題でしかない。
次に平沼専蔵による開墾だから平沼と言うのは通説だが、ではそこが「干潟ではなかったのか?」アナタは何で確認したのか?
そもそも17世紀には既に「土砂の堆積で浅瀬と干潟に成っていた」事実が有るから埋立の対象にされたわけだ。
常識的に考えて、概要に繋がる部分の方が深いはずなのに、現横浜駅は日本初の汽車道の上に造られた3代目の駅である事を明治時代の地形図を見た事が有ればすぐに理解出来る。
しかし貴方はそんな事すら知らない。
迅速測図には干潟の様子が埋立られてない部分にシッカリ乗っているぞ?
干潟である以上は「浦ではない」場所だから当初から平沼とよばれていたのでは?
呼ばれていないと言うのは何で確認したのか?
袖ヶ浦は神奈川宿の辺りだぞ?
平沼専蔵等が平沼橋辺りに愛着を感じたのは「平沼」だったからじゃないのか?
そこは「浦」じゃない「湾/入江」だ。
そして「平沼」の話しだ。
平沼は本来、「袖ヶ浦」と呼ばれた入江だ。
だからそもそも帷子湾じゃない。
ここも宗閑湊と同じで江戸時代も中頃を向明ける事には地盤の隆起と土砂の堆積により港としての機能が次第に衰退していき「埋立」が数回に渡り試みられている。
その当時に既に干潟になっていたが、その様な場所を武蔵国域では「平潟」と呼ぶわけだが、干潟ですらなく沼地の場所は平沼と呼んでいた様だ。
その証拠が「平沼」と呼ばれていた事が「迅速測図」に明記されている。
それも小生がブログで書いた仮設の通り「次第に干潟に成っていったからだろう」と書いている通り、本来は一番深さが有って然るべき湾と外海の開口部に「汽車道」の築地軌道が築かれている事からも一目瞭然で「平沼」は「干潟」だから「平沼」で有る事が理解出来る。
では何故に平沼新田を平沼家が、鍋屋新田(岡野)新田を岡野家が埋め立てたのか?
材木商住人だった平沼家は材木商だったからこそ林業が盛んな久良岐郡橘樹郡の貯木場として機能した、この地に移住している訳だ。
「袖ヶ浦」は文字通り浦である。
日本人なら「知っていて当然」だが日本語で「浦」と言うのは外海に面した海岸のくぼ地の砂浜を指す極々小規模な海岸で砂浜が貯まる地形だ。
「浜」との違いは外洋沿いの海岸に潮流をせき止める岩盤の半島が突き出しており、そこに砂が堆積するので「浦」と言う地形由来の場所が正に、江戸時代の神奈川宿宇多。
南北朝時代に足利尊氏が籠城した権現山の旧半島地形だった訳だ。
そこに「宿場」が形成されたのは「浦」の地形なので港が穏やかで水軍や漁師等の海上交通の要所であり、陸上交通との交差点でも有った事に依る訳だ。
④平沼湾について。
考古学者が、縄文海進を調べた際に古大岡湾と呼ばれる場所を歴史的に大岡湾、古大岡湾等と近世までの人に呼ばれた歴史はない。
文書としては宗閑湊、後に転じて洲乾湊と、昔、弁天通りの半島に存在した廃寺の宗閑寺/秀閑寺(文書により異なる)に由来して名前で呼ばれていた事実が有るのみ。
秀閑寺は元正保中年間(1644~1648年)に6合1斗の寺領の朱印を授かっており、徳川幕府の朱印に多々見られる漢字誤記は有るが、おこが江戸中期にも「古大岡湾」ではなく「宗閑湊」だった事が判る。
この宗閑湊は吉田新田を埋め立てたと認識されているが、その入海は全体を宗閑湊と呼んでいた事は、風土記他、様々な地図、文書に残っている。
しかし「古大岡湾」と呼ばれた歴史事実はない。
蒔田吉良家が治めた土地なので「蒔田御所」から「蒔田湾」と地元民は読んでいた事もある、しかし蒔田吉良家がいた当時はあそこまでは海ははいっていない。
しかし寳生寺辺りには塩田があり、当然ながら蒔田吉良家の支配地だった。
しかし、吉田新田で干拓された場所は大岡川と中村川に囲まれており、その範囲外で海では無かったと言う事になる。
アナタが私に言った理屈では、平沼新田は文書の残らない縄文弥生古墳時代の発掘を元に歴史を紐解いていく専門の方々が勝手に「古鶴見湾」「古大岡湾」と書いている事も「そんな事どの時代の文書にも書いていない」から「いい加減な事を書かない方がいいですよ」と言う理屈になる。
つまり「古大岡湾」「古帷子湾」は貴方の理屈では「いい加減」でしかない。
古河電工のグラウンド?工場?
だろ?
役は工場の中?
平沼湾なんて呼ばれた事がない?
【グラウンド?】
は?普通にグラウンドは昔工場で、米軍の航空写真で駅もありますけど?
しかも現代でも駅に入る引き込み線の名残がありますけど?
【平沼じゃない?】
は?普通に迅速測図に干潟と言う意味の「平沼」の記載があんだけど?
➡自分の生きていた時代の情報が絶対に正しいと言う先入観で大きな誤りをおかし、かつ他人を挑発してますけれど、アナタ大丈夫?
➡調べもせず書いただろ?
➡浦と湾の違いも日本人のクセに理解せず誤用ているだろ?
①この記事を書くに差し当たり相鉄に連絡入れて許可于受けている。
②米軍の1945~1950年の空撮写真で確認している。
1957年の廃駅以前に、営業休止だった。
既に戦中に横浜大空襲の標的の一つにされた平沼地域は被害が大きかったので。平沼駅も休眠から廃駅に成っている。
次西横浜駅までの距離も遠くない上に利用者が限定的なので廃駅が戦災を受けて以後考慮されていた可能性が高い。
③古河電線駅の名残は横浜イングリッシュガーデンの敷地側の空地の形にシッカリ残っている上に、そこには昔駅に引き込まれていたであろう線路の残存部が存在する。
ども!
史跡と言っても、現在では影も形も残らずですがね~。