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ポー『黒猫/モルグ街の殺人』

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やたら退屈で長い一般論から始めるスタイルは一人称の選択に関係するのかもしれない。当事者=語り手では客観性が担保されないから、最初に一般論を語らせて真らしさを証し立てる。「私自身はおかしくない」(黒猫)、「そういう人間がおかしいわけはなかろう」(告げ口心臓)ともう直接言っちゃったりもする。執筆時期の早い「モルグ街の殺人」で語り手を第三者にしているのにその後、説教臭い一般論を導入してまで当事者=語り手スタイルへ移行するのは、距離ゼロで混乱や恐怖や狂気を現出させるため。それか単に一般論が好きなだけだったりして。

 それにしても、今だったらそもそも一般論による担保なんて省くか、あるいはもっと滑らかに連絡させる(読者も気づかないうちに狂気に移行させる)か、いずれにせよあの退屈さを回避させようとするはずだろうと思うのだった。ポーの技術力不足のせいで退屈さを招き寄せているとも思えないのは、例えば客観性と主観性の境界設定がかなり自由自在に書かれているように見えるからだけど、じゃあなぜ、となると本気で一般論を披露したかっただけ、それを抑えられなかったからなんじゃないかしら。
 でもこの「抑えられない」というのはポー個人の資質だけではなくて、当時のバイアスというものもあるのかもしれない。読者のフィクションとの付き合い方が今ほど書き手に信頼されていない時代だった、とか。もちろん今でも「これは実話です」みたいなことを映画や小説に書かずにいられない書き手はいたりするけれど。




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