DOGE ROCK FES 2024
2024/11/29(金)
FUKUOKA BEAT STATION
19:30
実を言うと昨日のエントリの「双方向について」というのは、ドゲロックフェスのヤバイ仮面を見て考えたメモ書きに書いていた。それでもまとめきれなくて置いてあったのだけど、昨日だいたい書いてしまったので、もうドゲロックフェスについてあれで書くことはできない。なので、ドゲロックフェスのヤバちゃんのところの覚書だけ今更書いておく。なぜなら数年後の私が「1行でもなんか書いとけや」と怒るからである。
ドゲロックフェスでヤバちゃんが生歌歌うと、実は直前まで気づいてなかった。察しのいい人は、去年のフライヤーのシャベさんのところがヤバちゃんという時点で気づいていたんだろう。
キャスを聞いてて、笹井さんはドゲロック来るんだろうな、と言うのはなんとなくわかったのだけど、シャベがサプライズできてナイスバディの口上言うのかなとか思っていた。鈍いにも程がある。
ドゲロックフェス、ヤバちゃん生歌が貴重なのはわかってるつもりだったけど、考えてみたら社長の生シャウトも生名乗りもめちゃくちゃ貴重だった。歌も佇まいも最後のマイク放り投げも無限飛び蹴りも最後の正座も何もかも好きすぎた。本当に現実と虚構のあわいの存在を好きになったんだなと思った。
— ヤーン (@yarn3) 2024年11月29日
ドゲロックで「本人」のいないヤバちゃんが心のままに声を出す姿に衝撃を受けて、翌日姿すら違う白ヤバちゃんを「ヤバちゃん」と認識することの不思議を思い、今日の見て、まぁヤバちゃんは笹井さんが産んだとも言えるかと整合性のある解釈を考えていたのだけど、エンドロール見たら
— ヤーン (@yarn3) 2024年12月1日
あの数のヤバちゃん全部笹井さんが声当ててんのかと気付き、もう色んな認識とレイヤーと境界がぐちゃぐちゃよ。シャベさんの生声パートがあったのもすごいフィクションの枠を揺さぶってくる。整合性とかスッキリした解釈とか無理よ。だから九州まで見に行ってるんだよな。
— ヤーン (@yarn3) 2024年12月1日
こういうときは直後のツイートがほんと頼りになる。しかしツイログがないBlueskyではこれはもうできないし、ちゃんとトリクルに書くようにしないとなぁ。
ヤバイ仮面は、「中の人」がいないキャラクターだ。ローカルヒーロー界隈的には、「本人」という状態がない。声を当てているのは笹井さんだけど、KYEで笹井さんがヤバちゃんを演じている時に「これがヤバイ仮面の本人だ」と思うことはない。これは、喋らないからとか、私が見始めた頃に笹井さんがヤバちゃんを演じることがなかったのもあるけど、やっぱり「本人」のないキャラクターだから、と認識しているだけだからな気がする。
考えてみると、中の人がいなくて、姿が9つもあるのに、その全部を「これはヤバイ仮面である」と同定しているのって、なにによってなんだろう。結局、自分はヤバイ仮面であると名乗って、見る方がこれはヤバイ仮面だ、と思う、ということしか根拠はない気がする。中の人が誰であるとかは、全く関係なく。
最初のKYEを見た時に、中の人を「透かす」度合いを「関係」であると書いたのだけど、そしてあの時のヤバちゃんは、結社の社長でありキタキュウマンのビジネスパートナーである笹井さんが演じることによって意味の乗っかるヤバイ仮面だったけど、ドゲロックのヤバちゃんは、笹井さんが透けて見えなかった。生歌で、生シャウトで、生名乗りで、いつもよりそこに人がいることが感じられるはずなのに、笹井さんを「透かす」必要がないというか、透けなかった。その不透明度100が、あの日のヤバちゃんと私の関係だった。
中の人が透けて見えることが、現実と虚構の狭間なのかと思っていた。
でもあの日は、中の人がいなくても実在するということが、現実と虚構のあわいに存在するということなのかと思った。
メタが好きだと散々言っている。理由は、現実を借景にすることによってフィクションに描写以上の意味がもたらされるからだ。
でもドゲロックのヤバイ仮面は違っていた。現実を借景にするのではなく、現実の中に、ちょうどヤバイ仮面ひとりぶん、虚構が拡張していた。
ライトを浴びていたからだとわかってはいるけれど、皮膜のような、うっすらとピンク色の光に覆われていた。その内側が虚構で、その外側が現実に見えた。
時間がたった今も、記憶の中の夢のような光景に見惚れそうになる。現実と虚構のあわいの存在を好きになったのだと思った。