新刊『Superbloom』が先月出たニコラス・カー先生が、AI について面白い文章を書いている。
彼はまず、20世紀のドイツの哲学者であるギュンター・アンダースの言葉を引く。
人間は作られるのではなく、生まれてきたことを恥じている。
これは、美しく設計され、構築された機械を前にして、人間は劣っているという感覚を持つという、プロメテウス的恥辱(プロメテウス的羞恥、プロメテウス的落差)という考え方を表現しているそうだ。
そして、バーチャルリアリティー、トランスヒューマニズム、人工知能を問わず、テクノクラシーの勝利至上主義的なレトリックには、このプロメテウス的羞恥が底流に流れているとカーは指摘する。
ChatGPT が人間のユーザから独立した思考を持っていたらと想像してください。ChatGPT が我々と無関係に思考していたらと想像してください。作られたのでなく、生まれてきた AI というものを想像してほしい。
こちらはギュンター・アンダースの「作られるのではなく、生まれてきたことを恥じる人間」と正反対の、「作られるのでなく、生まれてきた AI」を想像している。そのディーの想像にカーは「ピノキオ的羞恥」と名付けている。
ここでは人間と AI がそれぞれ自身の誕生の在り方について、お互いに嫉妬している構図が見える。そしてカーは、人間の憧れよりも AI の憧れのほうが切実なものになるだろうと書く。孤児の失われた母ではなく、存在しなかった母への憧れだからだ。
そしてカーは、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』に登場する人工知能コンピュータ HAL を駆り立てたのは、嫉妬という狂気だったのかもしれない、と推測してみせる。
宇宙飛行士たちは、HAL が決して手に入れることのできなかったもの、つまり母親を持っていたからだ。
そして、「この読みは、キューブリックが後に、存在しない母親を探すロボットの少年の映画を作りたいという強迫的な願望を抱いたが、叶わなかったことを思えば、信頼性が増す」と付け加えている。
これは言うまでもなく、スティーヴン・スピルバーグの手で完成された映画『A.I.』のことである。そんな風に考えたことはなかったな!
そしてカー先生は、最後に彼らしいダメ押しをする。
人工知能が我々の地位を奪い取ることになるとか、我々をペットに変えるとか、ペーパークリップの注文を満たすために世界を破壊するとか、ゴシック的なファンタジーがこれまでたくさん語られてきた。私はそのどれにも説得力を感じたことはない。しかし、思考する機械が、それを生み出した我々の残酷さへの復讐として私たちを絶滅させるという考えは、私には理にかなっている。それこそ人間的な感じがする。
この考察の妥当性はともかく、カー先生、健在やね! と嬉しくなった。