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クライマキナ: シナリオ

百合SFとして非常によくできている。以下ネタバレありで書く。









本作は直接的な形で「恋愛としての百合」が語られる。わざわざカッコ書きにしたのは百合の定義は多義的で、恋愛を伴わないものもあるから。そして自分は「恋愛としての百合」が正直苦手だったりする。

最初からミコトとアミはそういう関係なのねとわかって観ていたのだが、レーベンとエノアについてはそういう関係ではないと思い込んでいたので、そこに踏み込んだ時に困惑した。

自分は幼女外見でありながら聖母属性というエノアが大好きだったのだ。自身の感情を肯定しだした途端に、めんどくさい彼女ポジションになってしまって正直残念な気持ちになったのは事実である。

また本作で語られる愛についてのセリフはストレート過ぎて気恥ずかしさすら覚える。映画館で流れるコテコテの泣ける恋愛映画の予告のようだ。

その上彼女らには相手以外の他者がほぼ存在しない。だから誰かと比較して愛を選び取ったわけでもなく、愛の言葉にむしろ空虚さすら漂う。


しかし物語全体としてみたときに「コテコテで空虚にも見える愛の言葉」こそが「人間性」であるという文脈を持ってくることで、逆に強い意味を作り出すところが本作の凄いところだと思う。

彼女らは過去に本当に1人の人間の人格だったのか、そもそもそこでいう人間とは何であったのか、すべてが不明瞭である。

彼女らは今まさに現実化しているAIエージェントそのものである。生成AIたる彼女らは、過去の記録から設定された人格により、映画を語り、美を語り、愛を語る。

そこに現実の体験は不要である。だからこそ彼女らの愛は生殖による子孫繁栄を伴わない同性愛であってもいい。

むしろそのような純粋に培養された愛こそが「人間性」であり、「本物の人間」には「人間性」がない。この逆説こそが本作なのだと言えないだろうか。




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