本作の原作を読んだうえで3回目の鑑賞を行った。その中で見えてきたのは、本作は東の罪を自身の罪として感じ、赦すことができるかが全ての作品になっているということだ。以下は原作と映画のネタバレを含む。
原作と映画を比べたときに、原作からなくなった部分と、映画で追加された部分がある。大きく変更された部分だけを上げる。
原作からなくなった部分
- 馬場さんと東がババハウスで直接話す部分
- 翁琉城の伊丹さんとの初回のガイドの話
- ラストの写真展でのシンジと東の会話
映画で追加された部分
- 「なりたいじぶん」の曲関係の話
- 「方位自身」の曲関係の話
自分は映画を観た後で原作を読んだのだが、驚いたのはアイドル活動前と、なった後の話の比重が全く異なることだ。起承転結で言うなら、映画ではアイドル活動の位置付けが転であり、原作ではアイドル活動が結になっている。上記を見ても原作からなくなったのは主に前の話で、映画で追加されたのは全て後の話だ。
なくなった部分の意図は明確で、東西南北と直接関係のない部分を削ったのだと思う。馬場さん、伊丹さんは仕方ない。興味深いのは原作ラストではシンジが東に思いを伝える部分があるが、そこもバッサリ切られている。シンジもあくまで東西南北の外部なのだ。
追加されたのは全て東西南北がらみの部分である。曲関係の話が増えたのは、映像化によって表現できる一番のポイントは歌なので、そこに力を入れたのは当然あるだろう。
面白いのは曲がらみの話が全て解散後のエピソードの伏線になっていることだと思う。
その中でも「なりたいじぶん」のリクエストをサチが行う部分は本作の最大のキーと言ってもいい。東が全く意識していなかったサチであることが重要なのだ。これで東がそれでももう一度アイドルを目指すきっかけを原作より丁寧に描くことができている。
「方位自身」の作詞の話については自分もちょっと都合よすぎではないかと思わなくもない。しかしメンバが東を赦さないことには、東はアイドルになる夢に再度踏み出すことはできない。その象徴としてどうしても必要だった。
確かに東の行動は自己中心的ではあったが、解散後に他のメンバに対する罪悪感を東が強く感じていることは、長すぎると思えるくらいの解散後の東の内省のカットの積み重ねで十分に表現されていると思う。
ここが多分一番の評価のわかれる部分で、東を自業自得で罰を受けるべき存在として受け止めるなら、東の長い内省とその後の罰のない赦しは不快感しかもたらさないと思う。
自分も他人の気持ちよりも自身の目的を優先する部分が多いことは否定できない。そのため東の行動や考え方が他人事とは全く思えなかった。そのため自分は東を罰を受けるべき存在としては捉えられなかった。東を赦し、再度夢に向かってはばたかせたい。だからこそ、自分にとってはこの話は深く刺さる話だった。
これは他者に対する想像力という問題ではなく、単純に登場人物の欠点が自身の欠点と似ているかどうかという個人の差でしかないと考えている。例えばヤンキーや酒に溺れる人間の話は、自分は全く共感できずに自業自得と思うことが多い。
現代は誰もが罰を与えるべき相手を探し求めて、罰を与えることが娯楽として消費されている。もちろん社会的に看過できないことはあるし、自身に甘ければいいというものでもない。しかしだからこそ物語による赦しも意味があるのではないだろうか。