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『深夜の赤信号は渡ってもいいか? いま使える哲学スキル』を読んでみた。

昔、『空想哲学読本』という本を読んで面白かったので、同じ著者の書いた『深夜の赤信号は渡ってもいいか? いま使える哲学スキル』という本を読んでみた。

概要

「深夜の赤信号は渡ってもいいか?」という本のタイトルからして、なんとも興味がそそられる。

各章のタイトルを追ってみても、

  1. 深夜の赤信号は渡るべきか、待つべきか?
  2. タバコを吸うべきか、やめるべきか?
  3. 運命は決まっているのか、自由はないのか?
  4. 人は生まれつきか、育ちで変わるのか?
  5. どんなときもウソをついてはいけないか?
  6. 全体の幸福のために、一部は犠牲になるべきか?
  7. 矛盾だらけの人生をどう生きればよいか?
  8. わずらわしい人間関係をどう受け止めればよいか?
  9. ゴミの分別はきっちり守るべきか、適当でいいか?

と、それぞれの章でかなり興味深い議論が期待できそうな感じ。

でも、残念。
それはただのエサだw

これらの章題になっている命題については、ほとんど議論されてない(^^;

じゃあ、何が行われているのかといえば、西洋の哲学の歴史を追いかけて、各哲学者が「どのようなことを述べたのか」(≠「どのように考えてその主張を行ったのか」)が紹介されているだけ。
各章のタイトルは各哲学者の主張の紹介をしやすくするためにエサとして使われているだけで、その命題自身に対する議論はほとんど行われていない。

例えば、「深夜の赤信号は渡るべきか、待つべきか?」というのなら、次のような感じ。

●深夜の赤信号、あなたならどうする?
 紀元前五世紀、アテネの民主制が発展すると、弁論術の得意なソフィスト(教師)が活躍しました。彼らは「相対主義」を唱えたと伝えられています。
 (省略)
 私たちの時代で例をあげてみます。
 たとえば車の運転をする際に、信号が黄→赤と切り替わったとしましょう。もし、誰かが見ていたら、ノモス(法律)を大切に思い、信号無視はしません。
 けれども、ソフィスト的に考えれば、目撃者が誰もいなかった場合はピュシス(自然)、つまり「突っ走りたい」という気持ち(欲望はピュシスに含まれます)を優先し、自身に最も利益になるようにするだろうというのです。
 (省略)
 法を守るべきでしょうか。ささっと赤信号を渡るべきでしょうか。

赤信号を渡るべきかどうかの話はこれでオシマイw
えぇ〜、という感じ。

しかも、どういう理由があって相対主義が唱えられたのかとか、その主張の妥当性を議論したりとかは、一切ナッシング!
ある意味、潔すぎるw

この本を一言で表すと、ちょっと気の利いた倫理の教科書
それ以上でもそれ以下でもない。
まぁ、著者は予備校の講師なので、とても分かりやすい説明ではあるのだけど。

著者はホントにキリスト教徒なのか?

むしろ、個人的に気になったのは、これ。

この著者はホントにキリスト教徒なのか?

「富増 章成(とます あきなり)」という名前はカトリック洗礼名の「トマス・アキナス」から来ているらしく(『空想哲学読本』の著者紹介より)、著者はキリスト教徒。
なのに、キリスト教をボロクソにいうような言及も、普通に行っている。

キリスト教においては、人間の自由意志は悪に向かうものでした。自由意志などをもっているから罪が生まれると説かれていました。
(第3章「運命は決まっているのか、自由はないのか?」より)

一応、この前で「中世のキリスト教では」という断り書きがあるので、「今は違うけど」という意図が入っている可能性はあるのだけど、普通、こんなことを書くものなのかな、と。

それとも、「理性」の世界と「信仰」の世界は別物だとして、完全に割り切れているのか・・・

このあたりのキリスト教徒の感覚というのは、正直よく分からない。
数学ガール』の著者である、結城先生とか。
なんであんなに聡明な人が、キリスト教なんかを信じてるのかなぁ、と。

哲学とキリスト教(神)が深く結びついていた昔ならともかく、現代ーーとくにニーチェ以降ーーで、キリスト教をそれでもなお信仰し続ける心理、意志というのは、どこからやってくるんだろう・・・?

今日はここまで!




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