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『2.5次元の誘惑』内面の言語化のメンターと作品に伏流するものの話 あと最終章の話

 ついに最終25巻が発売した『2.5次元の誘惑』。

 いろんな要素をうまく回収していって、おさまるべくしておさまったエピローグは100億万点で、これには後日談大好き侍こと私もニコッリで候でした。

 ただ、それはそれとして連載時から思っていたことがありまして、それは、よりによって最終章(194話以降)が今までで一番盛り上がれなかった、ってことなんですよね。盛り上がれなかったというかノれなかったというか入れなかったというか、とにかく、読んでて心がスンてしてしまってたんですわ。

 それがなぜかということをちょっと考えてみたんですが、気づいたのがこの最終章、他の各エピソードと決定的に違うところがありました。
 それはキャラクター、この場合はみかりですが、彼女の内面の言語化にメンターがいないことです。198話でみかりが自身の感情に決定的に自覚するシーンにおいて、彼女はそれを自分一人だけで言葉にしていたんです。それは今までの本作において、まずありえないことでした。

 メンター。すなわち先達、あるいは指導者。
 『2.5次元の誘惑』は内面の言語化に定評のある作品でしたが、それがなされるときは、常にメンターによって悩める者の心に導きの手が伸ばされていました。
 たとえば3、4巻での753編では、悩めるリリサにはまゆらが、あるいは悩める753にはリリサが、彼女の抱く葛藤になんらかの答えを出す助けとなっていました。
 他にも、6巻のノノア編のノノアには奥村あるいはリリサ。8巻のアリア編のキサキには奥村が。13巻のヨキ編のヨキにはリリサが。16巻のツバキ編の椿井は奥村が。17、18巻の淡雪エリカ編の奥村にはエリカが、ユキにはリリサが。
 主だったところをダダダッと挙げてみましたが、ほぼすべての長編エピソードにおいて、そこで主役となるキャラクターの葛藤は、他の誰かからの手助け(そう意図したわけでもなかったりしますが)によって、こんがらがった糸をほどくことができているのです。
 ここには、人の心は他人との関わりの中で生まれていく、という本作の核となる考え方が伏流していると言えるでしょう。

 このような考え方は、作中のそこかしこで出てきます。
 淡雪エリカ編では、ユキがリリサに、「作品」と「鑑賞者」の「間」にある「アート」の話をしました。

作者と鑑賞者が作品を通じ 「感情」や「意味」を生み出す。
その営み自体が「アート」 なんとなく私はそう思ってる
(17巻 81p)

 「感情」や「意味」は天然自然に発生するものではなく、なんらか(たとえば「作品」)を通じて、送る者と受け取る者の間に生まれると言っています。
 そしてリリサはその話を敷衍して、自身の思う「究極のROM」について一定の答えを見いだします。

「私にしか表現できないリリエルは 先輩に向けるリリエルだったんです」
「だとしたら―― 俺にしか表現できないリリエルは リリサに向ける「個人的な」写真…ってことか?」
「リリエルは その「間」にいる
 個人的な体験を全部ひっくるめて 私と先輩がお互いに向ける 「愛」の「間」に
 そこに私たちの究極で個人的な「表現」がある」
(18巻 116~118p)

 撮る奥村だけでなく、撮られるリリサだけでなく、その両者の「個人的な体験を全部ひっくるめ」たところに、「お互いに向ける「愛」の「間」に」、「究極で個人的な「表現」がある」と言うのです。

 また24巻では、今まで何度もコスプレを重ねてきたリリサは、その集大成となる舞台でこれまでのことを思い出し、自分が自分でいられる理由に気づきました。

そうだ 私の形はこれだった
みんなの中に私がいるから 私は私として立っていられる
「私」はみんなの中に生きている
コスプレが私に教えてくれたこと
コスプレは繋げるもの 視点を纏うこと
私と誰か 愛と愛
キラキラは誰かとの「間」にあって
キラキラとは 誰かの瞳に映る「私」
「私」とは 誰かの空想上を生きるもの
(24巻 115~117p)

 自分の形は自分一人で作られるわけではない。誰かとの交わりの中で、誰かから見られることで、誰かとの間に「間」が生まれることで、「こうである」という自分の輪郭が生み出される。

 「究極のROM」の話でも、「私」のあり方の話でも、自分ではない誰かがいることが前提とされています。一人では、キラキラは存在しないし、「私」も出てこない。「私」と「私」の周りの誰かとの「間」で初めて「私」は生まれてくる。言ってみれば『2.5次元の誘惑』は、そんな話を手を替え品を替え、繰り返し繰り返し語ってきた物語なのです。

 しかして最終章に立ち戻ると、198話のみかりはひたすらに、ただひたすらに自問自答をして、自分の心を自覚しました。現実におけるそれの善し悪しは別にして、本作においてその振る舞いは、あまりにも特異です。そしてその相手である奥村も、リリサとの交流というよりも、リリエルの姿をしたリリサを借りて自分の過去を見つめ直しているようで、誰かとの交わりで気づいたのだとは素直に肯いがたいものです。
 つまり二人とも、誰かとの「間」でそこにある愛に気づいたのではなく、自分の「中」に愛を発見したのです。
 その意味では、本作のメインテーマに基づく総決算は最終章一つ前の冬コミ編で、批判的に言えば最終章は、ただ作中の恋愛模様を畳むためのものだった、とさえできるかもしれません。それまでの作劇やテーマのありようが好きだっただけに、それが欠けた最終章で私がスンとしてしまったのは致し方のないことです。そうか?
 
 とまあ色々書いてきましたが、最終章は他のエピソードと何が違うのかということを考えたことで、改めて本作のテーマと呼べるものが見いだせました。
 本作は6年半の長きにわたって楽しんできましたし、そのおかげで関連するブログもそこそこ書いてきました。なにより、エピローグの後日談は100億万点だということは何度でも言っておきたいことです。
 橋本悠先生の次回作を、今から楽しみにしています。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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