前回書いた記事の続き。今回は『ワールド イズ ダンシング』から見る人と世界のつながり方です。
『はじめアルゴリズム』では、人は世界とつながるため、数(学)という分節線で世界を区切り、認識しようとしている、と書きました。
では、連載2作目でアニメ化も決定した『ワールド イズ ダンシング』ではどうでしょう。
室町時代に能を創設した世阿弥こと幼名・鬼夜叉を主人公とした本作は、当然能(舞)をモチーフとしています。
能の前身と言える猿楽の座長として名を馳せている父・観阿弥のもと、日々猿楽の修行に励むのですが、猿楽師の子に生まれたばかりに物心つく頃から舞いを叩きこまれる内、ある疑問を抱くようになります。
鳥は飛ぶための形
では 人の形は何のため?
(ワールド イズ ダンシング 1巻 p1)
この世に生を受けたからには、その在りように何か意味があるはずだ。鳥は飛ぶための形。魚は泳ぐための形。馬は走るための形。ならば、人の身体は?
反射的に「ダラダラ歩く形」と答えたくなってしまう私のことはさておき、日々、当代随一と評判高い観阿弥の舞を目の当たりにしてるにもかかわらず、鬼夜叉には舞の「よさ」がわかりません。人にとって舞は不自然な動きとしか思えないのに、人は舞い、見物人はそれを見て楽しむ。いったいなぜなのか?
そんな疑問に頭を占領され続ける鬼夜叉がある日出会ったのが、名も知れぬ白拍子。あばら家で一人、枯れた声でやけっぱちに歌いながら、まるで酔っぱらっているかのように舞う彼女の姿は、今まで鬼夜叉が学んできたことからすればよいわけがないのに、とてもよい。
混乱の只中にありながら、鬼夜叉はそのよさの理由を「身体」に見出しました。それも、ただの身体ではありません。地位や肩書や評判や、後付けで付け加えられる諸々の意味がすべて剥ぎ取られた、透けるほどにまっさらな身体。そんな素っ裸の身体だからこそ、その裡に秘められた想いが強く強く外へと迸り、よさとして鬼夜叉を打ったのです。
あるいは、裡なる強い想い、言葉にできない感情、やる瀬のない気持ちを表そうとしたとき、身体にまとわりついた意味は剥ぎ取られ、まっさらな身体になるのかもしれません。そしてその身体を使って、舞う。
そうか
こんな気持ちを
やる瀬のないこんな気持ちを
抱えるしかない時 人は
身体を使って
舞うのか
この時の能きを 今を表す表情を 肉と骨のきしみを 覚えておこう
私には身体がある
私には芸とそれを司る家がある
世界が狭いのならば広げてやる
(1巻 p96~101)
ここでついに「世界」という言葉が登場しました。
すなわち本作において、身体あるいは舞とは、世界を広げるための能きをなす芸だと言うのです。上記のように、舞うのは身体を持つ人なのですから、とりもなおさず、人が世界を広げるために能くのが舞なのです。
ここで鬼夜叉が言う世界の「狭さ」とは、「ままならなさ」と言い換えられるでしょう。やる瀬のない気持ちや、上手く言葉にできない強い感情。そういったものを抱え込んでしまったとき、人は世界の中で不自由を感じます。どうやってこの気持ちを晴らせばいいのか。この感情をどう表現すればいいのか。己の意にそわない己の心に居心地の悪さを覚え、広い世界の中で一人狭い部屋に閉じ込められたかのように苦しむのです。
それをどうにかするために、舞う。やる瀬のない気持ちをなんとかするために、世界を広げるために、舞う。
『ワールド イズ ダンシング』では、言葉にできないことを表すための身体・舞という考えがそこかしこで顔を出します。
「ならばなお書かねばことは伝わらんだろう?」
「一番大事なことは秘めるのだ
どんなに奥に秘めようが想いは必ず身体に現れる 身体とはそういうものではないか?
(中略)
身体をもって想いを伝える
それこそが私たち演者の能きではないか
言葉で済むなら私たちはいらぬ
だから私たちは身体をもって舞台に立つのではないか?
(5巻 p62~64)
前回の『はじめアルゴリズム』での記事で私は、人は(数を含む)言葉で世界に分節線を入れて世界を理解しようとする、と書きましたが、その反対のことを鬼夜叉は言っています。
世界に切れ目を入れる必要はない。ラベルを貼る必要はない。いや、できるのならばすればいい。だが、できもしないのにしようとしてはいけない。「言葉で済」まない想いがあるのなら、無理やり言葉を当てはめるのではなく、下手くそな切れ目を入れるのではなく、「身体をもって舞台に立」ち、舞うのだ。身体でもって舞うことこそが世界の捉え方なのだ。この世界に中にいる私という存在を、このような舞で表すのだ。そう言うのです。
言葉とは世界の認識の仕方です。しかし、言葉とそれによって切り取られた世界が完全に一対一対応することは、絶対にありません。言葉は常に、言い足りないか、言いすぎてしまいます。厳密を求めれば求めるほど、細かく定義すればするほど、そこからはみ出す、あるいは不足するところが出てきます。あるいはその過剰や不足ゆえに人はより認識を深めようとしていったとも言えます。
いっそふわっとしたあいまいな言葉の方が、あいまいなだけに、輪郭が明快でないだけに、輪郭の周縁にある意味も包含し(ているように見せかけ)ます。たとえば「愛」とか「平和」なんかがそうですが、本作では「心地よい」というあいまいな言葉を用います。
強くて同時に柔らかい 身体の奥からの安定感
…肚
…だけではない
腕や足 身体の個々にも芯がある…
ああ… 自分の身体の… 重さを感じる…
あ…
心地よい
これは…釣り合いなのだ…
場と 身体の重さ
天と地と身体の釣り合う 丁度心地のよいところ
(4巻 p101~103)
あいまいで輪郭が不明瞭なこの言葉は、それを感じる当人の主観的な感覚に根差しており、そこに余人が介在する余地はありません。つまり、それに至るために、余計な言葉はいらない。ただ、「天と地と身体の釣り合う 丁度心地のよいところ」を自分自身の身体で探りあて、その状態で在ろうとするのです。
月のない夜の闇の中で舞の練習をする鬼夜叉は、ふと、同じ暗闇でも、目を閉じた方が楽になることに気づきます。それは「たとえ闇でも目が何かをとらえようと働いている」から。
目を開けていれば、その場に光がなくとも光が飛び込んでくる可能性に、意識的であれ無意識であれ、常に気を張ることになります。なので、目を閉じることで情報の入力をシャットアウトし、視覚への意識を減らす。瞼を下ろせる目(視覚)と違い、耳(聴覚)や皮膚(触覚)はそれ自体で情報の入力をカットすることはできません(耳は手という他の器官に頼らないと塞ぐことはできません)から、常に外からの情報にさらされているわけですが、視覚の意識を減じることで、残された情報受容器官を研ぎ澄ますことができます。
気づかなかった… 耳や肌
身体がこんなにも世の様を訴えていたとは…
(4巻 p125,126)
肌感覚の鋭敏化。それは「自分の身体の重さ」を感じることでもあり、自分の身体を世界に触れされることでもあります。
肌感覚を鋭敏にして、世界の揺らぎを感じ取り、同時に自分の身体の揺らぎを感じ取り、釣り合いのとれた「心地よさ」を見出す。
まとめましょう。
本作において、人は「やる瀬のない気持ち」を表すために踊るのですが、それは自分の周りの世界を少しだけ広げる行為であり、世界(の中に在る私)を捉える行為でもあります。すなわち、身体を、舞を通じた世界への働きかけだと言っていいでしょう。
また、人は肌感覚を鋭敏にすることで、自分と世界の釣り合いがとれた「心地よさ」を目指すことができます。これは、身体を通じた世界との調和だと言っていいでしょう。
働きかけと調和。両者は、外向きの動的・対立的な能きと、内向きの静的・融和的な能きと対比できるでしょうか。
「人の形は何のため?」と、物語の最初の最初で鬼夜叉は自問しました。どうしても一言で表すなら、彼はこう自答するでしょう。「舞うためである」と。それは、「世界を広げるため」でもあり、「世界と調和するため」でもあります。
身体で、舞で、人は世界とどのようにつながるのか。その問いの一つがこれではないでしょうか。
残すは『宙飛ぶバイオリン』編。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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