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三原和人が描く人と世界のつながり方の話 『ワールド イズ ダンシング』編

 前回書いた記事の続き。今回は『ワールド イズ ダンシング』から見る人と世界のつながり方です。

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 『はじめアルゴリズム』では、人は世界とつながるため、数(学)という分節線で世界を区切り、認識しようとしている、と書きました。
 では、連載2作目でアニメ化も決定した『ワールド イズ ダンシング』ではどうでしょう。

 室町時代に能を創設した世阿弥こと幼名・鬼夜叉を主人公とした本作は、当然能(舞)をモチーフとしています。
 能の前身と言える猿楽の座長として名を馳せている父・観阿弥のもと、日々猿楽の修行に励むのですが、猿楽師の子に生まれたばかりに物心つく頃から舞いを叩きこまれる内、ある疑問を抱くようになります。

鳥は飛ぶための形 
では 人の形は何のため?
(ワールド イズ ダンシング 1巻 p1)

 この世に生を受けたからには、その在りように何か意味があるはずだ。鳥は飛ぶための形。魚は泳ぐための形。馬は走るための形。ならば、人の身体は?
 反射的に「ダラダラ歩く形」と答えたくなってしまう私のことはさておき、日々、当代随一と評判高い観阿弥の舞を目の当たりにしてるにもかかわらず、鬼夜叉には舞の「よさ」がわかりません。人にとって舞は不自然な動きとしか思えないのに、人は舞い、見物人はそれを見て楽しむ。いったいなぜなのか?
 そんな疑問に頭を占領され続ける鬼夜叉がある日出会ったのが、名も知れぬ白拍子。あばら家で一人、枯れた声でやけっぱちに歌いながら、まるで酔っぱらっているかのように舞う彼女の姿は、今まで鬼夜叉が学んできたことからすればよいわけがないのに、とてもよい・・
 混乱の只中にありながら、鬼夜叉はそのよさ・・の理由を「身体」に見出しました。それも、ただの身体ではありません。地位や肩書や評判や、後付けで付け加えられる諸々の意味がすべて剥ぎ取られた、透けるほどにまっさらな身体。そんな素っ裸の身体だからこそ、その裡に秘められた想いが強く強く外へと迸り、よさ・・として鬼夜叉を打ったのです。
 あるいは、裡なる強い想い、言葉にできない感情、やる瀬のない気持ちを表そうとしたとき、身体にまとわりついた意味は剥ぎ取られ、まっさらな身体になるのかもしれません。そしてその身体を使って、舞う。

そうか
こんな気持ちを
やる瀬のないこんな気持ちを
抱えるしかない時 人は
身体を使って
舞うのか
この時のはたらきを 今を表す表情を 肉と骨のきしみを 覚えておこう
私には身体がある
私には芸とそれを司る家がある
世界が狭いのならば広げてやる
(1巻 p96~101)

 ここでついに「世界」という言葉が登場しました。
 すなわち本作において、身体あるいは舞とは、世界を広げるためのはたらきをなす芸だと言うのです。上記のように、舞うのは身体を持つ人なのですから、とりもなおさず、人が世界を広げるためにはたらくのが舞なのです。 

 ここで鬼夜叉が言う世界の「狭さ」とは、「ままならなさ」と言い換えられるでしょう。やる瀬のない気持ちや、上手く言葉にできない強い感情。そういったものを抱え込んでしまったとき、人は世界の中で不自由を感じます。どうやってこの気持ちを晴らせばいいのか。この感情をどう表現すればいいのか。己の意にそわない己の心に居心地の悪さを覚え、広い世界の中で一人狭い部屋に閉じ込められたかのように苦しむのです。
 それをどうにかするために、舞う。やる瀬のない気持ちをなんとかするために、世界を広げるために、舞う。

 『ワールド イズ ダンシング』では、言葉にできないことを表すための身体・舞という考えがそこかしこで顔を出します。

「ならばなお書かねばことは伝わらんだろう?」
「一番大事なことは秘めるのだ
 どんなに奥に秘めようが想いは必ず身体に現れる 身体とはそういうものではないか?
 (中略)
 身体をもって想いを伝える
 それこそが私たち演者のはたらきではないか
 言葉で済むなら私たちはいらぬ
 だから私たちは身体をもって舞台に立つのではないか?
(5巻 p62~64)

 前回の『はじめアルゴリズム』での記事で私は、人は(数を含む)言葉で世界に分節線を入れて世界を理解しようとする、と書きましたが、その反対のことを鬼夜叉は言っています。
 世界に切れ目を入れる必要はない。ラベルを貼る必要はない。いや、できるのならばすればいい。だが、できもしないのにしようとしてはいけない。「言葉で済」まない想いがあるのなら、無理やり言葉を当てはめるのではなく、下手くそな切れ目を入れるのではなく、「身体をもって舞台に立」ち、舞うのだ。身体でもって舞うことこそが世界の捉え方なのだ。この世界に中にいる私という存在を、このような舞で表すのだ。そう言うのです。

 言葉とは世界の認識の仕方です。しかし、言葉とそれによって切り取られた世界が完全に一対一対応することは、絶対にありません。言葉は常に、言い足りないか、言いすぎてしまいます。厳密を求めれば求めるほど、細かく定義すればするほど、そこからはみ出す、あるいは不足するところが出てきます。あるいはその過剰や不足ゆえに人はより認識を深めようとしていったとも言えます。
 いっそふわっとしたあいまいな言葉の方が、あいまいなだけに、輪郭が明快でないだけに、輪郭の周縁にある意味も包含し(ているように見せかけ)ます。たとえば「愛」とか「平和」なんかがそうですが、本作では「心地よい」というあいまいな言葉を用います。

強くて同時に柔らかい 身体の奥からの安定感
はら
…だけではない
腕や足 身体の個々にも芯がある…
ああ… 自分の身体の… 重さを感じる…
あ…
心地よい
これは…釣り合いなのだ…
場と 身体の重さ
天と地と身体の釣り合う 丁度心地のよいところ
(4巻 p101~103)

 あいまいで輪郭が不明瞭なこの言葉は、それを感じる当人の主観的な感覚に根差しており、そこに余人が介在する余地はありません。つまり、それに至るために、余計な言葉はいらない。ただ、「天と地と身体の釣り合う 丁度心地のよいところ」を自分自身の身体で探りあて、その状態で在ろうとするのです。

 月のない夜の闇の中で舞の練習をする鬼夜叉は、ふと、同じ暗闇でも、目を閉じた方が楽になることに気づきます。それは「たとえ闇でも目が何かをとらえようと働いている」から。
 目を開けていれば、その場に光がなくとも光が飛び込んでくる可能性に、意識的であれ無意識であれ、常に気を張ることになります。なので、目を閉じることで情報の入力をシャットアウトし、視覚への意識を減らす。瞼を下ろせる目(視覚)と違い、耳(聴覚)や皮膚(触覚)はそれ自体で情報の入力をカットすることはできません(耳は手という他の器官に頼らないと塞ぐことはできません)から、常に外からの情報にさらされているわけですが、視覚の意識を減じることで、残された情報受容器官を研ぎ澄ますことができます。

気づかなかった… 耳や肌
身体がこんなにも世の様を訴えていたとは…
(4巻 p125,126)

 肌感覚の鋭敏化。それは「自分の身体の重さ」を感じることでもあり、自分の身体を世界に触れされることでもあります。
 肌感覚を鋭敏にして、世界の揺らぎを感じ取り、同時に自分の身体の揺らぎを感じ取り、釣り合いのとれた「心地よさ」を見出す。

 まとめましょう。
 本作において、人は「やる瀬のない気持ち」を表すために踊るのですが、それは自分の周りの世界を少しだけ広げる行為であり、世界(の中に在る私)を捉える行為でもあります。すなわち、身体を、舞を通じた世界への働きかけだと言っていいでしょう。
 また、人は肌感覚を鋭敏にすることで、自分と世界の釣り合いがとれた「心地よさ」を目指すことができます。これは、身体を通じた世界との調和だと言っていいでしょう。
 働きかけと調和。両者は、外向きの動的・対立的なはたらきと、内向きの静的・融和的なはたらきと対比できるでしょうか。
 「人の形は何のため?」と、物語の最初の最初で鬼夜叉は自問しました。どうしても一言で表すなら、彼はこう自答するでしょう。「舞うためである」と。それは、「世界を広げるため」でもあり、「世界と調和するため」でもあります。
 身体で、舞で、人は世界とどのようにつながるのか。その問いの一つがこれではないでしょうか。

 残すは『宙飛ぶバイオリン』編。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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三原和人が描く人と世界のつながり方の話 『はじめアルゴリズム』編

 現在『宙飛ぶバイオリン』を連載中のところ、前作『ワールド イズ ダンシング』のアニメ化が発表された三原和人先生。
sh-anime.shochiku.co.jp
 このタイミングでアニメ化するくらいなら連載を全うさせてほしかった……などと詮無いことを考えたのはともかく、三原先生は『はじめアルゴリズム』、『ワールド イズ ダンシング』、『宙飛ぶバイオリン』と講談社で三本の連載作品がありますが、この連載三作には共通するテーマが伏流していると、常々感じていたところでした。

 数学、能(舞)、バイオリン(音楽)と、毛色の違うテーマを取り扱っているように思える三作ですが、伏流してるテーマとは何か。
 それは、「人は世界といかにつながるか」です。

 一つずつ見ていきましょう。
 まずは『はじめアルゴリズム』。

 数学というお堅いモチーフはそんな哲学的、思索的なテーマとは縁遠そうではありますがところがどっこい、三作品の中で最も多く、人と世界のつながりについて言及されているのが本作です。なにしろ第一話、冒頭の語りから触れているのですから。

我々の仕事は 宇宙の法 その「語り」に耳を傾けることにあります
その声は非常に小さいので 静かに耳を澄まさなければならない 自分自身が法そのもの・・・・となるほど静かに
そこから聴こえた声を 「数」という体系で表現する
その表現を人々は——
数学と呼ぶ
(はじめアルゴリズム 1巻 p1、2)

 これは作中に登場する数学者・内田の言葉ですが、物語の最初の最初において、数学のありようを宣言しているのです。いわく、宇宙の法の「語り」を「数」という体系で表現したもの、それが数学である、と。
 もっと直接的に言えば、宇宙の姿を数の体系で表すこと、それが数学です。
 数の体系とは、数の概念であり、数の操作方法。自然数から整数、少数や分数、実数、さらには虚数と、物と一対一対応する数から、抽象的にしか把握できない数にまで概念を拡張し、四則演算を基準に関数、累乗、微積分等々と操作を複雑にしていく。それらを元にして、世界の姿、世界の在りようを数式で表していくのです。

 主人公のハジメの初登場シーンは、雲の運動や木の枝の分かれ方、水の波紋の伝わり方、トンボの翅脈といった自然の表れを、木の枝で地面に書いたオリジナルの数式で表現している、というものでした。その姿を内田に見られ、「君は数学で何をしたいのだ」と問われると、ハジメはこう答えます。

世界を全部知りたい
(はじめアルゴリズム 1巻  p44)

 世界のすべてを知るための数学なのです。
 
 しかし、人は、世界のありのままに知ることはできません。
 世界の中に切れ目を入れて、あれはヒト、これはイヌ、それは木、あっちは山、こっちは海と、区別する(名づける)ことで、はじめて世界を認識できるのですが、その切れ目の入れ方は恣意的で、絶対的な根拠があるものではなく、いわば人間ごとに、あるいは社会ごとに、文化ごとに決められた勝手なルールです。
 たとえば近代日本で「たぬき・むじな事件」とよばれる裁判がありますが、日本の一地域では区別していた「たぬき」と「むじな」という動物も、動物学という社会では同じものとして扱っている、という形で、世界の切れ目の入れ方の恣意性が如実に表れています(たぬき・むじな事件 - Wikipedia)。
 同様に、数(学)も誰かが勝手に決めたルールです。
 誰かがはじめて「1」を思いつくことで、個別具体的な物事を超えた、抽象的な存在として「数」が生まれました。「1」を端緒とし、自然数が生まれ、足し算引き算が生まれ、掛け算割り算が生まれ、少数が生まれ分数が生まれ、より複雑な概念や計算がすでに生み出された概念と整合性をとるように新たに生み出されていく。
 このルールはとても便利で、複雑になっても十分な整合性をいまだに保ち続けているので、統一的なルールとして世界的に共有されていますが、これはあくまでも恣意的なルールなのです。もはやまったく異なるルールを新たに考えだすことはおそらく今の人類には不可能ですが、それでも原理的には。
 作中ではその点について、「0=1がなぜおかしいのか」という疑問を軸に話を展開しています(92話)。すなわち、「0≠1はこの世界(「体」という四則演算ができる、我々が当たり前と思っている世界)の条件・・なのだ」と。これを語るのは内田の息子ですが、この考えに至った瞬間、「当たり前だと思っていた世界の扉が開いてその外側を見た気がした」と言うのです。

 数学は恣意的なルール。世界のすべてを表す唯一の方法ではありません。それでも、世界を表す形式として最も純粋で、ありのままに近く表せるものの一つであることは間違いないでしょう。テレビの解像度が上がる、すなわち画面の中をより細かく分割することで画像が鮮明になるように、高度に複雑精緻になった数学が表す分節線まみれの世界は、かえってありのままの世界に近似的に近づていくのです。
 複雑になった数学のルールは、複雑ゆえに精緻で、多くの社会で共有されているがゆえに世界の見方を統一的に表すことができます。

「数学って何ていうか 僕が世界をどう見てるのかってことなんだと思うんだよね」
「人間が世界をどう認識してどう表すのか 一番純粋な表現として数学がある」
(はじめアルゴリズム 9巻 p106)

 これは数学が現代社会の発展に深く関与する例として、AI開発の話がされているときの、ハジメとそのライバルである手嶋の発言です。数学とは何かを端的に表す言葉だと言えるでしょう。
 余談ですが、『がらくたストリート』(山田穣)の中にも「数式は現象を記述する言語だろうが」(3巻 p138)というセリフが出てきます。初めてそのセリフに触れた私は妙に衝撃を受け、こうして引用する程度には脳裏に深く刻み込まれたのですが、「現象」を「自然」すなわち「世界」と言い換えれば、ほぼ同じ内容だと言えます。

 改めて、人はいかにして世界とつながるのか、という話に戻りましょう。
 人は直接世界を知ることはできません。ありのままの世界を知ることはできません。未分化の世界に恣意的な分節線を入れて、はじめて理解できるようになります。その分節線の入れ方の一つが、数学。有史以来概念を拡張し、複雑化してきた数学は、その定義の細かさと厳密さ、そして抽象性ゆえに、世界中でもっとも広く受け入れられ、対象をもっとも近似的に表せる言語となりました。
 もう一度言いましょう。
 宇宙の姿を数の体系で表すこと、それが数学なのです。

 と、『はじめアルゴリズム』の話でだいぶ紙幅を割いてしまったので、『ワールド イズ ダンシング』と『宙飛ぶバイオリン』に見る「人と世界のつながり方」はまた別論で。

3/19追記
『ワールド イズ ダンシング』編はこちら。
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疚しさと空虚さと後ろめたさと、世界につながるかすかな出会い 短編集『遠い日の陽』の話

 モーニングに掲載された商業デビュー作に衝撃を受けて以来、その単行本化を心待ちにしていた横谷加奈子先生の短編集がついに発売されました。

 商業ベースで発表されたデビュー作と2作目はすでに感想を書いていますが、単行本化にあたり、同人誌で発表されていた作品も収録されましたので、あらためて感想を書きたいと思います。

 既に読んでいた商業作3作に、初めて読んだ同人作3作、一挙6作品をまとめて読んだわけですが、読んでいる最中いろいろな言葉が頭をよぎりました。
 たとえば「後ろめたさ」。
 たとえば「疚しさ」。
 たとえば「申し訳なさ」。
 たとえば「含羞」。
 たとえば「空虚感」。
 たとえば「疎外感」。
 どれもこれもネガティブなワードばかりです。
 率直に言って、どの作品にも明るさや前向きさを強く感じることはなく、終始暗さの漂う作品ばかりです。ただ、物語においてそれが悪いだけのものであるはずがなく、だからこそ魅力がある、そういえる作品ばかりでした。

 さて、上で列挙した、作品を読んでいるときに脳裏をよぎった単語群。これらに共通するものはなんでしょう。
 思うにそれは、自分は他の人とは(悪い意味で)違うという感覚。社会との噛み合わなさ。自分と他人がずれているという意識。登場人物達の振る舞いを見ていると、そういうところを源泉とする印象がふつふつと湧いて出てくるのです。

 現在がひどく空虚で、楽しかった過去に縋りつきたくなり、つい当時の自分に似ている(気がした)子供の写真を買うところから物語が始まる「遠い日の陽」。
 貧乏暮らしの余命一週間から大逆転で裕福な人生を送る羽目になり、すべてに満たされたがゆえに何も満たされない毎日を送る主人公が、バイト先で苦学生に出会う「富めるひと」。
 病的に痩せている女性が好きな主人公が、そのことを秘密にしたまま、病的に痩せている転校生の今の姿を残そうと、できもしない映画製作をでっちあげる「麻子の恋人」。
 小学校の聖劇発表会で星の役をしたことから本当に星になってしまい、自分よりもっと星が似つかわしいはずの友人と一緒に生きられなくなってしまった「あなたも星になれる」。
 死にまつわる漫画ばかり描いてきた友人の、死後の整理を手伝う「友達の葬式」。
 家族で信仰する新興宗教の教祖が言う人類滅亡の日を前にして、一つだけ心残りを抱えている「毎日好きと言えたら」。

 周囲の人間とうまくやれないさびしさ。親しいものが離れてしまう悲しさ。自分の好きなものを表にさらけ出せないうとましさ。誰しも一度は抱いたことがあろうそんな気持ちが、物語の中からにじみ出てきます。読んでいるうち、その感情がじわじわと自分の心に浸みこんできて、いつの間にか世界がカケアミの陰影に包まれたような気さえしてくるのです。
 
 そして、登場人物達には出会いがあります。相手は写真の売主だったり、バイト先の友人だったり、病的に痩せた転校生だったりですが、その出会いは、別に主人公の人生を一変させません。周囲との歯車がいまいち噛み合わない中で、少しだけ善いものを示してくれたり、代償的な人助けになったり、ささやかに願いを叶えてくれるくらいで、これで人生がいい方に転がり出す、というものではないのです。
 でも、薄暗い世界をほのかに暖かくするこの出会いが、なんと愛おしいことか。人生の道程をふと振り返ったとき、かすかに光るこの出会いが、マイルストーンのように今までの道のりを浮かび上がらせてくれるでしょう。それはきっと、この漫画が残した記憶のように。

 とまあ私はこんなことを考えたのですが、人によって何を思うのか、何が炙り出されてくるのか、いろいろと違いそうでもあるので、親しい人間に勧めて、感想を聞いてみたくなる作品ですね。
 
 過去の感想はこちら。 
『富めるひと』『遠い日の陽』ひとの抱えるやましさとそれを薄れさせる別の価値の話 - ポンコツ山田.com
男児の写真から始まる「夢のような」読後感の物語 『遠い日の陽』の話 - ポンコツ山田.com
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『2.5次元の誘惑』内面の言語化のメンターと作品に伏流するものの話 あと最終章の話

 ついに最終25巻が発売した『2.5次元の誘惑』。

 いろんな要素をうまく回収していって、おさまるべくしておさまったエピローグは100億万点で、これには後日談大好き侍こと私もニコッリで候でした。

 ただ、それはそれとして連載時から思っていたことがありまして、それは、よりによって最終章(194話以降)が今までで一番盛り上がれなかった、ってことなんですよね。盛り上がれなかったというかノれなかったというか入れなかったというか、とにかく、読んでて心がスンてしてしまってたんですわ。

 それがなぜかということをちょっと考えてみたんですが、気づいたのがこの最終章、他の各エピソードと決定的に違うところがありました。
 それはキャラクター、この場合はみかりですが、彼女の内面の言語化にメンターがいないことです。198話でみかりが自身の感情に決定的に自覚するシーンにおいて、彼女はそれを自分一人だけで言葉にしていたんです。それは今までの本作において、まずありえないことでした。

 メンター。すなわち先達、あるいは指導者。
 『2.5次元の誘惑』は内面の言語化に定評のある作品でしたが、それがなされるときは、常にメンターによって悩める者の心に導きの手が伸ばされていました。
 たとえば3、4巻での753編では、悩めるリリサにはまゆらが、あるいは悩める753にはリリサが、彼女の抱く葛藤になんらかの答えを出す助けとなっていました。
 他にも、6巻のノノア編のノノアには奥村あるいはリリサ。8巻のアリア編のキサキには奥村が。13巻のヨキ編のヨキにはリリサが。16巻のツバキ編の椿井は奥村が。17、18巻の淡雪エリカ編の奥村にはエリカが、ユキにはリリサが。
 主だったところをダダダッと挙げてみましたが、ほぼすべての長編エピソードにおいて、そこで主役となるキャラクターの葛藤は、他の誰かからの手助け(そう意図したわけでもなかったりしますが)によって、こんがらがった糸をほどくことができているのです。
 ここには、人の心は他人との関わりの中で生まれていく、という本作の核となる考え方が伏流していると言えるでしょう。

 このような考え方は、作中のそこかしこで出てきます。
 淡雪エリカ編では、ユキがリリサに、「作品」と「鑑賞者」の「間」にある「アート」の話をしました。

作者と鑑賞者が作品を通じ 「感情」や「意味」を生み出す。
その営み自体が「アート」 なんとなく私はそう思ってる
(17巻 81p)

 「感情」や「意味」は天然自然に発生するものではなく、なんらか(たとえば「作品」)を通じて、送る者と受け取る者の間に生まれると言っています。
 そしてリリサはその話を敷衍して、自身の思う「究極のROM」について一定の答えを見いだします。

「私にしか表現できないリリエルは 先輩に向けるリリエルだったんです」
「だとしたら―― 俺にしか表現できないリリエルは リリサに向ける「個人的な」写真…ってことか?」
「リリエルは その「間」にいる
 個人的な体験を全部ひっくるめて 私と先輩がお互いに向ける 「愛」の「間」に
 そこに私たちの究極で個人的な「表現」がある」
(18巻 116~118p)

 撮る奥村だけでなく、撮られるリリサだけでなく、その両者の「個人的な体験を全部ひっくるめ」たところに、「お互いに向ける「愛」の「間」に」、「究極で個人的な「表現」がある」と言うのです。

 また24巻では、今まで何度もコスプレを重ねてきたリリサは、その集大成となる舞台でこれまでのことを思い出し、自分が自分でいられる理由に気づきました。

そうだ 私の形はこれだった
みんなの中に私がいるから 私は私として立っていられる
「私」はみんなの中に生きている
コスプレが私に教えてくれたこと
コスプレは繋げるもの 視点を纏うこと
私と誰か 愛と愛
キラキラは誰かとの「間」にあって
キラキラとは 誰かの瞳に映る「私」
「私」とは 誰かの空想上を生きるもの
(24巻 115~117p)

 自分の形は自分一人で作られるわけではない。誰かとの交わりの中で、誰かから見られることで、誰かとの間に「間」が生まれることで、「こうである」という自分の輪郭が生み出される。

 「究極のROM」の話でも、「私」のあり方の話でも、自分ではない誰かがいることが前提とされています。一人では、キラキラは存在しないし、「私」も出てこない。「私」と「私」の周りの誰かとの「間」で初めて「私」は生まれてくる。言ってみれば『2.5次元の誘惑』は、そんな話を手を替え品を替え、繰り返し繰り返し語ってきた物語なのです。

 しかして最終章に立ち戻ると、198話のみかりはひたすらに、ただひたすらに自問自答をして、自分の心を自覚しました。現実におけるそれの善し悪しは別にして、本作においてその振る舞いは、あまりにも特異です。そしてその相手である奥村も、リリサとの交流というよりも、リリエルの姿をしたリリサを借りて自分の過去を見つめ直しているようで、誰かとの交わりで気づいたのだとは素直に肯いがたいものです。
 つまり二人とも、誰かとの「間」でそこにある愛に気づいたのではなく、自分の「中」に愛を発見したのです。
 その意味では、本作のメインテーマに基づく総決算は最終章一つ前の冬コミ編で、批判的に言えば最終章は、ただ作中の恋愛模様を畳むためのものだった、とさえできるかもしれません。それまでの作劇やテーマのありようが好きだっただけに、それが欠けた最終章で私がスンとしてしまったのは致し方のないことです。そうか?
 
 とまあ色々書いてきましたが、最終章は他のエピソードと何が違うのかということを考えたことで、改めて本作のテーマと呼べるものが見いだせました。
 本作は6年半の長きにわたって楽しんできましたし、そのおかげで関連するブログもそこそこ書いてきました。なにより、エピローグの後日談は100億万点だということは何度でも言っておきたいことです。
 橋本悠先生の次回作を、今から楽しみにしています。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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『ハクメイとミコチ』14巻 「好き」の光と影と、重い「好き」に振り回される者たちの話

Q.年に一度、毎年一月にある楽しみってなーんだ?
A.『ハクメイとミコチ』新刊の発売。

 ということで、先日発売された『ハクメイとミコチ』14巻の感想です。

 相も変わらずいろいろなキャラクターが賑やかに過ごし、以前登場したキャラクターの再登場も楽しいところですが、14巻を読みおわってまず感じたのは、「この巻は『好き』を描いた巻だな」というものでした。

 「好き」な姉のシナトを思って奮闘するミマリ。
 「好き」な刃物を語るハルシナ。
 タブワカといろんなこと話すのが「好き」なハクメイ。
 「好き」な種帽子のためにプライドをかなぐり捨てるヨロ。
 「好き」な旅に興じるロカとウラガ。
 自分の「好き」な服の制作者に出会うミコチ。
 自分の「好き」な散髪でミコチを慰めようとするジャダ。
 
 様々なキャラクターが抱く「好き」が、どの話にも描かれていました。
 でも、よくよく考えてみると、『ハクメイとミコチ」の話には、ほとんどすべてと言っていいほどに「好き」が描かれているんですよ。作品の世界観自体がそうだとも言えるのですが、この作品の登場人物達は享楽的というか好き勝手というか自分に素直というか、彼や彼女の「好き」に忠実に生きていて、それが行動原理になって駆動している物語ばかりです。
 それでもなおこの巻が「好き」の巻だと感じたのはきっと、特にこの巻では、「好き」のポジティブだけではない部分が多く描かれていたからであるように思えます。

 「好き」という感情はポジティブなものです。それは間違いありません。その対象を慈しんだり、大事にしたり、強く追い求めたりと、「好き」と思うことで、その対象も自分自身も善い状態になるはずです。
 ですが善い状態となるのは、その「好き」が肯定されているときの話です。「好き」が肯定されない、認められない、報われない、届かない。そんなとき、その「好き」の気持ちは、大きければ大きいほど、自分を苛むトゲになります。

 たとえば109話のミマリ。
 彼女は、普段は姉のシナトが店長として切り盛りしているお店を、体調を崩して休んでいるシナトの顔に泥を塗らないよう、ミコチを助っ人に呼んでなんとかお店を差配しようとしました。細かく動き回り、お客にもミコチにも気を配り、はたから見れば十分すぎるほどに活躍したミマリですが、彼女が理想とする大好きな姉はむしろ幻想に近く、いくら褒められようとも彼女を満足させるものにはなりません。姉が好きすぎるあまりにミマリの自己評価は低くなり、彼女の認識を大きく歪めています。
 もしミマリが姉をさほど好きでなければ、店の差配ももっと落ち着いてできたし、自分自身の活躍についてもっと適切に評価できたでしょう。

 たとえば112、113話のヨロ。
 種帽子職人であることに誇りをもち、弟子として日々研鑽を積む彼女でしたが、ある日、師匠のヤンプが出張に出ているさなかに飛び込みの種帽子作成の依頼が舞い込んで、己の力量と種帽子職人としての矜持を秤にかけた結果、覚悟を決めてその依頼を請けました。無論一人でできるはずもなく、ミコチやトレモらの、職人ではない者たちの助力を得ることに忸怩たる思いがありながら、仕事を請けた以上はお客のためにならない誇りは脇によけ、悔しさと絶望を噛みしめながら死に物狂いで完成に漕ぎつけました。
 もし彼女が種帽子をさほど好きではなければ、ミコチら素人に助力を仰ぐことに迷いはなく、あるいはそもそも弟子の身で仕事を請けはしなかったでしょう。種帽子がすごく好きだからこそ、師匠不在で作ることの強い抵抗と、帽子をほしがるお客への気持ちの間で強く葛藤したのです。

 そしてなにより14巻の「好き」の白眉は、自分の大大大好きな服であるナイトスネイルの作り手・ネフルに出会ったミコチです。
 町中で出会った奇矯な女性が、実は自分の敬愛するナイトスネイルの作者だと知ったミコチは、ナイトスネイルに対する思いの丈を作者にぶつけたくて仕方がなく、どんな環境で作者が服を作っているか興味が湧いて仕方がなく、創作の源泉を知りたくて仕方がないのですが、好きが強すぎる故にそれを尋ねることに気後れしてしまい(ところで、ネフルの前で何度も言いあぐねているミコチを見るハクメイの表情、すごくいいですよね……)、いざ彼女の源泉の深淵の一端に触れると、自分とはかけ離れたところにあるその精神性にひどく打ちのめされてしまい、好きすぎるが故に、憧れすぎるが故に、目標を見失ってしまいました。

 このように、14巻で描かれる「好き」にはポジティブなものだけでなく、その裏側のネガティブな部分、いわば「好き」の影の部分が随所でクローズアップされており、その影があることで、光の部分と相まって「好き」が際立って感じられたように思うのです。

 思えば、ミコチの服そしてナイトスネイルに関する「好き」の気持ちの強さ、重さは以前から触れられていました。
 たとえば11巻84、85話で、コンジュのリサイタル衣装を依頼されたミコチは、衣食住にも差し障りが出るほどに悩み、やりたいこととできることに引き裂かれ続けました。
 そんなミコチを見てコンジュが言ったのが以下の台詞です。

好きだからこそですわ 辛いのは
好きだから 足りなく感じて
なんとかしたくなって
それで苦しいんですわよ
(11巻 66p)

 ミコチの好きなものは他にも料理がありますが、そちらに関して、ミコチがこのように思い悩む様子はありません。言ってみればあちらは、何かを思い求めない「好き」、具体的に目指すもののない「好き」、ただ楽しいだけの「好き」。善くも悪くも、重さのない「好き」。軽々しいから塞ぎ込んだときの気分転換にもなるし、失敗してもくよくよはしないし、自分よりすごいものを見ても「へえすごいなあ」で済む。
 でも、重い「好き」はそうはいかない。四六時中心の片隅に居座り、アイデアを思いついたら心に留めておかずにはいられないし、いいアイデアを思いついた気にもなってもそれを形にしてみれば理想との乖離に膝をつく。否定されたくないからおいそれと表には出せないし、もし否定された日には恥も外聞もないほど落ち込む。常にそこには不足があり、その不足に、埋まらない穴に苦しくなってしまう。
 重いせいで、一度弾みがついたら自分の心も生活も大きく振り回してしまう、そんな「好き」。

 軽い「好き」と、重い「好き」。
 この文章を書いているときに思いついたものですが、存外、考え方の整理にはよい概念のようです。

 好きは呪いにさも似たり。
 嫌いも呪いにさも似たり。
 畢竟、執着は呪いにさも似たり。

 好きも嫌いも、重い感情は執着となり、当人の人生を縛ります。それは規律でもあり、軛でもあり、ミコチだけでなく、ミマリやヨロを見てもそれは言えるでしょう。
 「好き」の光の面と影の面と、両方を見せてくれる14巻でした。
 やっぱり『ハクメイとミコチ』はおもしれえなあ……

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見えない世界に魔術で光を『魔術師クノンは見えている』の話

 「英雄の傷跡」。それは勇者の末裔に稀に現れるもの。それは欠落のカタチで現れる。四肢の一部。指。耳。味覚。感情。グリオン侯爵家の末子、クノンに現れたそれは、視力の欠落だった。
 周囲の人間は、「英雄の傷跡」が現れた彼を勇者の末裔の証しと褒めそやすが、当のクオンにとっては、自分の世界から光を奪った呪いでしかない。魔術の素養が見つかり、いよいよ周囲からの期待も高まるが、期待の重さは彼にとっては重荷であり鎖でしかなかった。
 光なき世界そのものの暗い性格が災いし、婚約者である第九王女からも愛想を尽かされていたが、7歳になったある日、彼の元にやってきた魔術の家庭教師が発した一言で、彼の心に文字通り光が差した。自分の目が見えないなら、魔術で外に目を作ればいい。
 こうして、魔術師クノンの大いなる一歩が踏み出されたのだ……

 ということで、南野海風先生原作、La-na先生作画の『魔術師クノンは見えている』のレビューです。

 今年一発目に書いた記事でも登場していましたが、前々から楽しみに読んでいた本作がいよいよアニメ放映されるので、それにあわせてレビューです。
俺の俺マン2025の話 - ポンコツ山田.com
 誰もがその才を持つわけではないけど、魔術が当たり前のものとして存在する世界。そこで、「英雄の傷跡」の持ち主として、視力を剥ぎ取られて生まれてきた貴族の少年クオン。彼が自分の世界に光を取り戻すため魔術を追い求め、さらに魔術の魅力にどっぷり浸かっていく姿を描いているのがこの物語です。

 俺マンの記事でも書きましたが、本作の魅力はなんと言っても、魔術の楽しさにはまりそれを心ゆくままに追い求めようとしていくクノンや他の魔術師達の姿。好奇心に突き動かされて試行錯誤する人の姿は、見るものの目を惹きつけてやみません。
 主人公クオンもそうで、「英雄の傷跡」に絶望していた頃の彼は無気力根暗で社交性皆無、年上の許嫁からもつい距離をとられてしまうくらいに失意の空気を振りまいていたのですが、魔術で世界を見てやると決意してからは、魔術だけでなく、目に見えないままにあらゆるものに興味を示しだし、勉学や社交にも精を出すようになり、侍女の教育の賜でやたらと軟派な性格に仕上がってしまったのはご愛敬、許嫁も彼の元に通うのを心待ちにするようになるほどの魅力的な人間になりました。

(1巻 5p)

(1巻 6p)
 こんな少年が

(1巻 30p)
 こんな少年に。大変身ですね。生きる気力とは、何かを追い求めようとする力とは偉大なものです。

 好奇心が旺盛と言っても、ただ気になったことにあれもこれもと手を伸ばすことだけでは、それはただの移り気や飽き性というもの。興味を持ったものについて、これはいったいどのようなものなのかと分析し、検討し、実践することで知見を深め、深まった知見によってさらに増えていく世界の不思議に怖じることなく、さらに没頭していく。そんな知のサイクルに飛び込んでこそ、他者に魅力的に映るのです。

 たとえば、クノン最初に身につけた、水の初級魔術「水球ア・オリ」は、水を生み出す魔術ですが、本当にただ水を生み出すのは初歩の初歩。魔術の階に立っただけです。生み出す水の形状を一定にし、複数個生み出し、生み出したそれらの形や大きさを同一にする。それができてようやく初心者卒業ですが、本番はここから。この「水を生み出す」と簡単に説明できてしまう魔術の性質を、さらに細分化していくとどうなるでしょう。
 まずは当然、何もないところに水を発生させること。そして、発生させた水を空中に浮かせること。さらに、水の形状を保つこと。一旦固定した形状を変えること。分割すること。統合すること……と、できることはいくらでも細分化できますが、このように言語化して性質を定義することで、分析や検討や実践が容易になります。
 さらには、温度、味、色、匂いなども水が持ちうる性質として考えれば、そのような水を生み出すこともできるし、たとえば温度を突き詰めれば、氷や、高温の蒸気などにもできるでしょう。発生させた水の動かし方や速度、形状なども適切に変化させれば、ウォーターカッターのように切断にも使えるし、放水ホースのように暴徒鎮圧にも使える。なんなら水の表面に伸縮性の高い膜を作ればウォーターベッドにもできるし、あらかじめ定めた動きをさせることで小動物のオートマタだって作れる。
 これらは実際に、「水球ア・オリ」について研究しまくったクオンが生み出したもので、名だたる魔術師たちですら驚嘆させる成果でした。

(2巻 8p)

(2巻 10p)
 こんなです。

 また、学ぶという行為に失敗はつきものですが、クノンはそれを恐れません。失敗をしてもいい。実験が無為に終わってもいい。失敗をすればそれが誤りだったとわかる。無為に終わればそれが必要のないものだったとわかる。すでに先鞭がつけられているものであればともかく、まだ誰も手をつけていないもの、先行研究が少ないものなら、そのような失敗すらも研究材料となります。それを当然のものと思っているのがいいですね。

 さらに、クノンはこのような成果について自分一人で成し遂げたわけでは決してなく、師からの助言や学友らとの共同作業などの中から、魔術の新たな使い方を考えついています。その師や学友もクノンに刺激を与えたり、逆に彼から触発されたりと、お互いに影響を与え合っているわけで、この作品全体から、知的作業というもののあり方について強いイメージをがあることを感じ取れますね。
 王宮魔術師というトップレベルの魔術師でさえ、弱冠9歳のクオンが見せた魔術に興味津々で、彼と同じ目線で議論をし(もちろん、クオンがそれについて行けるという前提があってですが)上司から大目玉を食らうくらいに興奮したりするんですから、みな魔術に、ひいては自分の興味があることに目がないんです。我を忘れちゃうんです。自分の世界を広げてくれるものが大好きなんです。

(2巻 10p)

(2巻 15p)
 みんなノリノリ。

 2巻までがいわば「魔術の目」取得編、3巻からは魔術学園編と物語は進みますが、大魔王も魔術王を決めるトーナメントも今のところ登場する気配はなく、学園内での派閥争いや、下級クラスとの交流、魔術バトル、あるいは婚約者である第九王女の王宮内での政争など、物語の行き先がふらふらとたゆたいます。でも、知的好奇心、あるいは学ぶことの楽しさとでも言える、物語の理念的な軸があるおかげで、話がとっちらかるという印象はありません。キャラクターの行動の結果にわくするというよりも、行動の過程が読んでて気持ちいい。そんな読み味の作品です。
 現在7巻まで刊行中。アニメに合わせて漫画もどうぞ。
【第1話】魔術師クノンは見えている

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俺の俺マン2025の話

 あけましておめでとうございます。
 昨年は仕事が忙しい日が増えて、ブログの頻度が減ってしまったのが悔しいですね。もっとのんべんだらりと享楽を尽くして生きたいものです。

 ということで年始めの恒例、前年に読んだ漫画の振り返りで俺マン2025です。
 レギュレーションは例年通り、
1,2025年中に発表された、もしくは単行本が出た作品で
2,その中でも特に心をつかまれた作品で
3,5作品
4,今まで選んだことのある作品はなるべく除外する(なるべく)
 となります。
 それでは順不同で、れっつすたーと。


1,邪神のお弁当屋さん/イシコ

 意図せず戦争の原因となってしまった罰にと、人に零落した元邪神のレイニー。人に堕ちた彼女は、神に戻るため善行を積もうとお弁当屋さんを始めた。かつて彼女を信仰していた人間。かつて彼女が気まぐれに助けた人間。かつての彼女のことなど気にもとめない人間。市井で交わる数多の人間たちに、神の心をもったままお弁当を売る彼女は何を思うのか……
 というところの、童話か寓話のような物語。派手なアクションがあるでなし、お涙頂戴の愁嘆場があるでなし、爽快な勧善懲悪があるでなし、でもつい読みたくなる不思議な魅力を持ったこの作品がまずノミネート。
 人の心の機微や、人とは異なる物の見方をする元神や現神の心の機微などが、押しつけがましさのない描写で、いい意味で他人事のように淡々と描かれます。この押しつけがましさは説明のなさと表裏一体で、「ここは何を言いたいのか?」と首をひねることもままありますが、童話や寓話に何を言いたいかを尋ねるのも野暮というもの。明快な一つの答えを求めるのではなく、読んだそのときの自分の心のありようで味わいが変わってくるのが、このテの物語のいいところです。
 人を愛するとは。憎むとは。大事に思うとは。生きるとは。死ぬとは。幸福とは。絶望とは。
 そんな人生の難問の答えが入っている、と大仰なことを言うつもりはありませんが、そんな問いのヒントが読み取れる気がしないでもない作品です。
 2025年に連載が終了し、今年1月に最終巻の4巻が発売予定。読み切りでも連載でもイシコ先生の新しい作品が待ち遠しいですね。読み切りも寓話チックでいいのですよ。
元神様で今は弁当売り 『邪神の弁当屋さん』の話 - ポンコツ山田.com
神の罪は弁当箱の隙間に 人の隙間に神のお弁当を『邪神の弁当屋さん』の話 - ポンコツ山田.com

2,こころの一番暗い部屋/雨夜幽歩

 作家が集う作業通話コミュニティの一部で密やかに流行しているのがキーワード怪談。三人の参加者が一つずつお題を挙げ、それをキーワードに即興で怪談を作って語るというもの。売れない漫画家の朱雀奏は、あるときそのキーワード怪談に誘われ、そこで語られた話を聞き、ふだん明るみに出ることのない、人の心の奥底にある感情に触れたような気持ちに……
 というところの、ホラーであると同時に人の心のひだを解きほぐす物語。キーワードを元に即興で作られた怪談には、「ホラーを作る」という意識に隠されて語った当人には見えていない、それを語らせたなにかがあるのだけど、主人公の奏はそれをに気づくのがとても上手。参加して怪談を語った当事者達は、奏の感想を聞いて、自分自身だからこそ見えない、こころの一番暗い部屋に光が差したような気がする。いや、光が差したというか、そもそもその感想でその部屋の存在を知ったというか。
 そもそも恐怖とは何か。端的にそれは、未知であること。自分の知らない、理解できない現象や事態に人は恐怖を感じます。
 暗闇が怖いのは、そこに何があるのか、何がいるのかわからないから。
 見知った自分の部屋が真っ暗でもそれは怖くありません。それは、どこに何があるかわかっているから。でも、その真っ暗な部屋の中で、見知らぬ物音や、するはずのない臭いがするのはとても怖い。それは自分の知らないものだから。
 だからというべきか、人が怖いことを考え出そうとするとき、そこには自分の知らないもの、自分が理解できないものが紛れ込んでくるし、その知らないものや理解できないものは、知らないし理解できないものなのだから、自分の語ったどこにそれが紛れているのか、自覚することができない。
 その構造をうまく解析して、隠れていた感情の言語化をすることで、ただのホラーで終わらない面白さが生まれています。
 また、1巻の後半から、ただのキーワード怪談にとどまらない、作中の現実世界に関わってくる人間ドラマが始まりだして、しかもそれ自体も、今までのキーワード怪談のようなホラーじみた話が展開されている。すごく巧みだなと思います。
 2025年のホラー漫画枠第1位。現在2巻まで発売中です。
怪談を生んだ、自分も知らない心の奥底『こころの一番暗い部屋』の話 - ポンコツ山田.com

3,チハヤリスタート/たけうちホロウ

 コロナ禍で露と消えた高校陸上総体。その不完全燃焼を何年も引きずって引きこもり生活を続けていた桜坂千早だが、母親に無理矢理連れ出されたハローワークの帰り道に、かつてのライバル小清水澪と再会する。立派な社会人としてやっている彼女との出会いが、チハヤの劣等感や反骨心やあの日に忘れてきた走るの大好きという心に火を点けた。果たされなかった青春をやり直してもう一度走りだすため、また彼女はスタートラインに立つ……
 というところの、青春やり直し陸上漫画。コロナ禍というすべての人に訪れた災厄は、生命にかかわらずとも人生を大きく狂わせもして、できたはずのことができなくて人生に大きくつまずいた人は、主人公のチハヤならずとも多くいることでしょう。倒れたまま何年も経ってしまったかつての少女(現引きこもりニート)の再起を、等身大のスケールで爽やかに、しかしてコミカルに描くのが本作。
 青春が宙ぶらりんに終わった悔しさとか、その宙ぶらりんから引きこもり続けてしまった焦燥とか、かつての友が立派に働いている劣等感とか、自分に言い訳して立ち上がれない絶望とか、そういう負の感情をちゃんと描きながらも、それでもそこから立ち上がろうとするチハヤや、彼女に手を差し出す友人達の前向きな姿の描き方がとてもみずみずしく、美しいのです。
 あと、彼女たちが走る姿がとても軽快でとても美しい。かねがね、世界でも国内でも最高峰のランナーのスプリントを見てみたいなと思っているのですが、その気持ちを強くさせてくれる、空気を切り裂くような、空を跳ねるような、何でも飛び越せるような、強くて美しいスプリントの絵。これも大きな魅力です。
 現在3巻まで発売中。
消えたあの夏よ蘇れ 少女達はもう一度走りだす『チハヤリスタート』の話 - ポンコツ山田.com


4,限界OL霧切ギリ子/ミートスパ土本

 テレアポで働くOLの霧切ギリ子。丁寧なようで粗雑、ちゃんと気にしているようでそんなことは内ギリギリな食生活は見るものをハラハラさせるし、そんな彼女の周りにいる人間も、一癖も二癖もあるやつばかりなのだった……
 というところの、一応グルメ枠のギャグ漫画。その枠に入れていいのかはだいぶ議論の余地があるけれど。
 どのくらいギリギリかといえば、第一話最初に登場する料理が、味の素と塩かけ食パン。そう、味の素と塩を焼いていない食パンにかけたものである。どんな味かと言えばギリ子いわく、「惣菜パンの惣菜がのってない味」。ちなみに初登場時のギリ子は、テレアポのしすぎで受話器のあたる左耳から耳血が出てる。いろいろとギリギリ。グルメ漫画の枠に入れていいのか。
 ちなみに第一話二つ目に登場する料理は、冷蔵庫の中にあった、「コンビニでもらえるケチャップとマスタードをパキッとするやつ」(原文ママ)を指に塗ってしゃぶるやつ。「アメリカンドッグの味がする」らしい。いくら酔っ払いながら作ったつまみのレシピとはいえ、ギリギリにもほどがある(類似のレシピとして、ケチャップとオリーブオイルを1:1~2くらいの適当な分量で混ぜそこにお好みでニンニクチューブを入れ油とケチャップが分離しなくなるまで混ぜた「ピザ味」がある。ピザポテトやピザトーストなんかの「ピザ味」だけを抽出した味がするという。マジか)。
 本作の半分くらいはそんな感じの限界レシピや他に披露する場のない食レポに溢れ、3割くらいは奇人な同僚や行きつけのバーの関係者らの奇矯な生活が描かれ、2割くらいは役に立つレシピがあり(とんがりコーンクリームチーズを詰めるつまみにはお世話になってます)、残った1%くらいには妙にウェットなお話があったりしてビックリします。 漫画ってこんだけ好き勝手にやっていいんだから、偉大なメディアだなと思うことしきりですね。なお、0.1%くらいメギ(ン)ド(ゥ)72(0)の話してます。なんなら一話まるまる使ってしてます。ジャンプ+のインディーズ連載だからってフリーダムすぎんか?
 とまれ、2025年のグルメ枠第1位。グルメ? 現在1巻発売中。2巻発売も無事決まったぞ!
shonenjumpplus.com

5,魔術師クノンは見えている/La-na・南野海風

 視力を持たずに生まれた貴族の少年クノン・グリオン。「英雄の傷跡」と呼ばれるその欠落は、彼の生まれた家には名誉をもたらしたが、彼自身には人生の絶望でしかなかった。悲嘆の日々を過ごす彼だったが、ある日やってきた魔術の家庭教師の一言で彼はふと思いつく。自分の目が見えないなら、魔術を目の代わりにすればいいのではないか。その日からクノンは人が変わったようになり、精力的に魔術を学び、見えない世界の有り様を感じ取ろうとし、他人とも積極的に関わろうとし、日々を前向きに生き始めた。あまりの急激な転向に、本当に人が変わったような軟派な性格になってしまったのはご愛敬。ぐんぐんと魔術の素養を伸ばしていく彼は、果たして世界最高峰の称号「青の魔術師」に届くのか……
 というところの、魔術に目覚めた少年がその才をどんどん花開かせていく、ファンタジー成長譚です。
 この作品の魅力は、主要な登場人物達が有する「魔術って楽しいんだぜ」という姿勢。魔術とは何か、それで何ができるのか、今できるこれをどう改良すれば何ができるのか、あの人の魔術があれば自分の持つ魔術とあわせて一人じゃできないこともできるんじゃないか。魔術の可能性を考え、実験し、実践し、失敗し、再検討し、また試す。その試行錯誤が三度の飯より楽しいと思っている者達がわちゃわちゃとしているのが、とてもいいんですよね。知的好奇心というものの楽しさが、「魔術」というファンタジーを通して描かれているのです。
 主人公のクノン自身が使える魔術は決して多くなく、低級魔術をほんのいくつかなので、他の魔術師達にその点では大きく後れをとっているのですが、持ち前の探究心で、魔術の操り方や、世界や物事の構造を分析したクノンは、低級魔術でできることを細分化し、抽出し、拡大することで、別の魔術と見まがうほどの応用を見せ、他の魔術師を圧倒します。それに触発された魔術師は、改めて自分が持つ魔術に目を向け、理解を深め、新しい使い道を見いだす。そしてそれを見たクノンが、また自分の魔術や共同してできる研究について考える。そんな健全なサイクルが、読んでてわくわくするんですよ。
 わかりやすい悪役や世界の敵みたいなものは(少なくとも今のところは)出てこず、少年が成長し、周囲の人間も成長する姿が、知的好奇心を軸に描かれていくのですが、ストーリーとは別になにか芯が一本通っている物語というのはとてもいいですよね。
 現在7巻まで発売中で、この1月からアニメも放送します。それまでにちゃんとしたレビューも書いときたいですね。


 以上5作品が俺マン2025の5作品ですが、惜しくも漏れた他のノミネート作品も挙げましょう。
・片田舎のおっさん剣聖になる/乍藤和樹・佐賀崎しげる

 主人公の過去の話が引っ張られすぎてるのはたいがいにした方がいいと思いつつ、主人公が剣の道に打ち込みすぎてる(剣への入れ込みが度を超してる)描写が噺に説得力を持たせてるなと思います。

ハプスブルク家の華麗なる受難/稲谷・あずま零

 世界史履修者を悩ませる謎の存在、神聖ローマ帝国。神聖でもなければローマでもなく帝国ですらないそれの帝位に長らく就いていた、中世欧州の覇者ハプスブルク家の華麗にして苦難の歴史をライトなコメディタッチで描く作品。その歴史の中を生きる当事者としてではなく、既に起きた歴史を俯瞰する者の視点で描かれる歴史物のコメディって妙に好きなんですよね。

・その着せ替え人形は恋をする/福田晋一

 2025年に完結したラブコメ。終盤のコミケからラストまでの展開が、山あり谷ありからの大団円で大満足です。

・2.5次元の誘惑/橋本悠

 同じく去年連載終了した作品。正直、最終エピソードはノれなかったのだけど、最終回のエピローグが「こういうのが見たかったんだよ」欲を100点満点で満たしてくれたのでオッケーです。


 とまあこんなところでしょうか。
 あと去年は、無限大に増殖する本と無限小に縮退する部屋の容積に屈し、電子書籍を大幅に解禁して、既に巻数を重ねている作品をセールのタイミングでごそっと買ったりしてます。上に出てきた『魔術師クノン』や『片田舎のおっさん』、他には『アルスラーン戦記』、『幼女戦記』、『居酒屋のぶ』、『いびってこない義母と義姉』なんかは繰り返し読んでます。
 ただ、電子書籍はまとめ買いや手持ち無沙汰の時に手軽に読むのにいいのですが、読書体験自体が少々雑になってしまうなというのが否めないのは痛し痒しですね。
 とまれ、今年も暇を見つけては本を読んでブログも書いていきたいものです。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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