『日本経済新聞』2022年2月12日掲載
サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』名倉有里訳、集英社
デビュー作『理不尽ゲーム』が本邦でも好評を博した、ベラルーシの新進気鋭の作家サーシャ・フィリペンコの長編第四作が本書である。
小説の舞台は世紀の変わり目のミンスク。ある事情で幼い娘を連れて、傷心のまま母親の住む隣国の首都にやってきた主人公のロシア人サーシャは、引っ越し先で認知症を患っている高齢のタチヤーナと知り合う。聴き手を得て、老婆は九〇年を超える自分の数奇な生涯を語りはじめる。
ソ連時代、外務省で翻訳官として働いていた彼女は、国際赤十字から送られてきた捕虜名簿に、出征した自分の夫の名前を見つけてしまう。これは、彼女に運命の選択を迫ることになった。当時のソ連では捕虜は交換に応じられないどころか、「悪質な脱走兵」と見なされ、その家族も裏切り者とされたのだ。もしこの名簿をそのまま翻訳すれば夫ばかりか、自分や娘の命まで危険に曝すことになるかもしれない。悩んだ末にタチヤーナがとった行動はいかなものだったのか。小説の緊張が最大限に高まる瞬間だ。
その後のタチヤーナの運命は過酷極まるものだった。逮捕、尋問、収容所での労働……。ソ連史の暗部である。しかし問題は、現代の側にもある。ソ連が崩壊して幾年月。小説の中では「とっつあん【パーチカ】」と名指されるだけのルカシェンコに牛耳られた政府は、都合の悪い粛清の事実はなかったことにし、ソ連時代のような権威主義と独裁で国民を押さえつけている。人々の側でも自らが被った苦難の歴史を忘れ、すでに超大国を懐かしむものもいる。実際、体制順応的な周囲の人間からは、タチヤーナは嘘つき呼ばわりされている。ここには著者が『理不尽ゲーム』で描いてみせた「理不尽」なベラルーシの現在が、ソ連時代の過去に重ね合わされている。
本書には著者自身が収集した現実の赤十字の公文書――戦時中のソ連の非人道的な対応を咎めだてるもの――が挿入されるという特異な構成になっているが、これはおそらく動かしえない証拠として埋めこまれたものだろう。修正主義はたやすく人々の心に忍び込み、過去は改竄され、同じ過ちが繰り返されてしまう。実は「認知症」を患っているのは私たちの社会のほうなのだと思い知らされる。