媒体に掲載されて十分時間が経過したと思われる書評は(単行本に未収録のもの、レポジトリに未収録のもの)、こちらで公開してみることにしました。
集英社のPR誌の『青春と読書』2月号(65頁)に寄稿したザミャーチン『われら』(小笠原豊樹訳、集英社文庫)の書評になります。
想像力という病
長い戦争、「慈愛の人」による最終革命を経て誕生した「単一国」が君臨する世界。高度に発達した科学文明。反面、人々は名前を剥奪され、番号で呼称されている。ガラス張りの建物で暮らす人間は、煙草も酒も禁止され、セックスすらクーポンで管理されている――。
ロシアの作家エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』は、一九二〇年に書かれた。しかし、当時国内で発表することはできなかった。単一国がソヴィエト、慈愛の人がレーニンを指していることは明白だったからだ。それでも国外で作品が出版されるにつれ、ザミャーチンは弾圧を受けるようになる。パリに出国した作家は、そのまま一九三七年に当地で没したが、作品が祖国に帰還するまでにはさらに半世紀が必要だった。
物語は、私ことD五〇三号の手記という形をとって進められる。D五〇三号は、宇宙船「積分号」の建築技師として平穏な生活を送っていたが、謎めいた女性I三三〇号と出会ったことによってすべてが崩壊しはじめる。医者の所見によれば、私に「魂」が宿ってしまったのだ。I三三〇号が加わるクーデターに巻き込まれていくD五〇三号に、当局の手が迫る。
唯一のメディアである『国営新聞』は国民にこう呼びかける――
諸君らは病気なのだ。その病名は
想像力という。
管理社会にとって個人の創造力は忌むべき不確定要素でしかない。さらに『国営新聞』は言う――「神経節をエックス線で三度焼けば、諸君は想像力の病を永遠に免れる」と。オーウェル『一九八四』に通じるアンチユートピア小説の古典であるこの作品を今読むと、ここで描かれた「単一国」のような管理社会が到来しつつあるのではないかと感じて恐ろしくなる。しかし本当に恐ろしいのは、すでに自分がそんな社会も何とも思わない、「想像力」を焼かれてしまったあとの人間なのではないかということだ。自分に「想像力」が残っているかどうか、作家が文字通り命がけで書いた「手記」を読んで、あなた自身が確かめてほしい。