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『幕があがる』書評

少しかっこつけて言うと、人生は「自分とは何か」を見つけるための、長い旅なのだと思う。そしてその旅の中で、「自分とは何か」をもっとも純粋に考えることができるのは、高校時代だろう。中学生ではまだ考える力が不足だし、大学生になると大人の発想が頭をもたげてくる。知力と純粋さが共存しているのは、高校生だけだ。その高校生による自分探しの旅を、この小説では「演劇部」という絶妙な舞台を設定して、みずみずしく描いている。

主人公のさおりは、地区大会をいつも敗退している弱小演劇部の部長をつとめる女子高校生。彼女は、大会優勝をめざす演劇部の仲間たちや、新任の吉岡先生に背中を押されて、脚本を書き、演出を担当する。最初は、何をテーマにするかで悩む。いじめのようなお決まりのテーマは、「高校生らしい」という評価を審査員から得られやすいが、でも自分たちにとってさしせまった現実ではない。そもそも「高校生らしさ」って何だ。審査員はすぐにこの言葉を使うが、それは大人から高校生におしつけているイメージではないか。もっと自分たちの現実にねざした脚本が書きたい。そう思って悩み、仲間と相談を重ねる中で、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を高校生向けにリアレンジするというアイデアに行きつく。

この小説は、女子高生が主人公という点で、スイングガールズ書道ガールズに似ている。しかし、この作品がずるいのは、「演劇部」を題材にしている点だ。話の流れとして必然的にそこに劇中劇が登場するのだが、これが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という不朽の名作だ。実はこの小説は、作者がフランスで子どもたち向けに『銀河鉄道の夜』の舞台を準備する副産物として書かれたそうだ。作者は、『銀河鉄道の夜』を現代劇としてリアレンジした経験を持っており、そのリアレンジしたストーリーとシンクロするように、女子高校生が演劇を通じて成長していくストーリーを組み立てたのだ。この組み立ては、完璧にずるい。考えつくされた2つのストーリーが見事にシンクロし、クライマックスに向かって進んでいくのは圧巻。仲間の知恵を借りて脚本と演出が改善されていくプロセスには、演劇を知り尽くした作者ならではリアリティがある。そのリアリティに支えられているので、主人公さおりが自分を見つけて成長していくストーリーにもゆるぎない説得力がある。

地区大会を突破し、次のステージは全国大会進出をかけたブロック大会。脚本を練りなおした『銀河鉄道の夜』の舞台が進んでいく中で、さおりはついに自分を見つける。

「あ」と声を出したのは、大切なことに気がついたからだ。
自分で構成し、自分で大部分の台詞を書いて、そして自分で演出をしてきた舞台なのに、いま、私は、この作品が何を描こうとしているのかが、やっとわかった。
・・・・
私は、何ものにもなれない自分に苛立っていた。
・・・・
それでも私は、吉岡先生に出会い、中西さんに出会い、ううん、もっとその前から、ユッコやガルルや、そしてわび助に出会っていた。
・・・・
私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。
・・・・
どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない。
私たちの創ったこの舞台こそが、高校生の現実だ。

そして舞台の上では、仲間たちが演じる『銀河鉄道の夜』がクライマックスを迎える。

カンパネルラ:僕たちいつもは一緒だけど、でも僕たちは離ればなれだ。
ジョバンニ:どうして?
カンパネルラ:宇宙が膨らんでいくように、僕たちの間も広がっているんだ。
ジョバンニ:そんなことないよ。だって。
・・・・
ジョバンニ:どこまでも、どこまでも一緒に行きたかった。でも、一緒に行けないことは、僕も知っていたよ。
・・・・
人間は、生まれたときから、いつも一人だ。
でも、一人でも、宇宙から見ればみんな一緒だ。
みんな一緒でも・・・みんな一人だ。
・・・・
カンパネルラ!
また、いつか、どこかで!

銀河鉄道の夜』は、ジョバンニが親友カンパネルラの死を受け入れるための物語だ。ジョバンニには、友人の死という現実を受け入れるために、宇宙を一周するような旅が必要だった。

さおりが生きる現実の中では、誰も死なない。しかし、吉岡先生という、自分たちをブロック大会出場に導いてくれた恩師が、さおりたちを裏切って去っていく。その「裏切り」を乗り越えて、仲間たちといっしょに作った舞台。この舞台こそが、自分が探していたものだった。

吉岡先生は、さおりたちと出会う中で演劇への情熱が再燃し、ブロック大会を控えた、さおりたちにとって一番大事な時期に、高校教師をやめて女優の道を選ぶ。これはまた、もうひとつの成長の物語なのだが、高校生のさおりたちにとっては、裏切りでしかない。

その吉岡先生は、さおりたちとの別れに際して、宮沢賢治の詩『告別』を送る。

おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもうもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

・・・

もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ

劇中劇『銀河鉄道の夜』のクライマックスは、吉岡先生から送られた『告別』に対する見事なアンサーシーンになっている。さおりは見事に、光のパイプオルガンを弾いた。

この小説が、ベタな青春小説と一線を画しているのは、個の力を重んじている点だ。演出にせよ、演技にせよ、個人の高い技量が要求される。エースとしての演技力をそなえたユッコ。そこに、演劇部の実力校から、もうひとりのエース、中西さんが転校してくる。そして、大学の演劇部で実力派だった吉岡先生が着任する。そんな中で、さおりは演技を捨てて、脚本・演出を担当する道を選ぶ。そして、「何ものにもなれない自分に苛立っていた」さおりは、自分の個の力を磨き、ついに自分が探していたものを見つける。それは、脚本・演出という責任を一身に背負う不安と戦って、自分の課題に真剣に向き合った結果見つけた、仲間との絆だ。「みんな一緒でも・・・みんな一人だ」という不安と力強さが同居したジョバンニの台詞には、さおりの気付いた真実が込められている。

ただし、作者は天才を描いてはいない。吉岡先生の台詞を借りて、君たちは天才ではないのだから、脚本を吟味し、よく練習し、練習通りに演じなければだめだ、と語っている。毎回アドリブに頼っていると、練習を重ねるごとに新鮮さが失われていく。練習を重ね、練習どおりに演じることができてこそ、毎回新しい感動を生みだすことができる。これは作者の演劇技法論なのだが、私には意外だった。練習をこえたところに感動の源があるように思っていた。しかし、教員としての授業経験と重ねて考えると、確かに納得がいく。アドリブを使うたびに予定の時間が削られ、肝心の内容を説明する時間がひっ迫してしまうのだ。確かにそれでは、伝えたかったことが伝わらないし、感動も薄れてしまう。『幕が上がる』の中で、演劇部員たちは真剣に練習を重ね、脚本と演技を改良し、その練習どおりに演じる経験を積んでいく。そして練習通りにやれば感動的な舞台を作れるのだと理解することで、自信を身につけて行く。そうやって個の力を磨くことではじめて、人は成長できるのだということを、作者はこの物語を通じて、高校生に伝えたかったのだろう。

この作品には続編がほしい。さおりとその仲間たちが、さらに逞しく成長していく未来を見てみたい。彼女たちの未来には、きっと挫折が待っているだろう。見つけたと思った自分を見失ってしまうことなんて、人生の常だ。そのときにもしかし、不安と戦って、自分の課題に真剣に向き合った高校時代の経験が生きるはずだ。高校時代のみずみずしい経験を心に宿しながら、「自分とは何か」を見つけるためにひたむきに生きる彼女たちに、いったいどんな未来が待っているのだろう。楽しみだ。




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