
冬の冷たく乾いた空気を、肺いっぱいに吸い込むと、
今でもふと思い出す記憶があります。
中学・高校の野球部時代、
来る日も来る日も繰り返された
「冬の走り込み」
当時の自分にとって、それは「練習」というより、
ひたすら 耐える時間 でした。
吐きそうになりながら走り、
時にはチームメイトが疲労骨折で戦線を離脱する。
そんな光景を目の当たりにしながら、
「これって、本当に野球が上手くなることにつながっているんだろうか?」
と疑問を抱いていたのも正直なところです。
大人になり、スポーツ科学という視点も知った今、
改めて考えてみました。
あの「走らされた日々」には、
一体どんな意味があったのでしょうか。
なぜ、あんなに「走らされていた」のか
今振り返ると、
当時の指導現場にはいくつかの“走らせる理由”があったように思います。
・「体力=走る」という固定観念
当時は今ほどスポーツ科学が浸透しておらず、
「とにかく走れば体力がつく」という、
根性論に近い考え方が主流でした。
・管理のしやすさ
全員を一列に並べて走らせれば、
指導者は一目で状況を把握できます。
統制を取るという意味では、
これほど都合のいいメニューはありません。
・「努力している感」が見えやすい
汗を流し、苦しそうな表情で走る姿は、
周囲に「ちゃんとやっている」という安心感を与えます。
いわば “やってる感”が可視化された練習 です。
ただ、野球という競技の特性を考えると、
ここには大きな ミスマッチ が潜んでいました。
野球に「長距離走」は本当に必要か?
野球は、数秒間の全力動作と、
その後の長い休息を繰り返すスポーツです。
生理学的に見れば必要なのは、
短時間で大きな力を発揮する 「速筋」 であって、
長距離走で主に使われる 「遅筋」 ではありません。
むしろ、過度な長距離走は次のようなデメリットを招く可能性があります。
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キレの低下
速筋が遅筋的に適応し、スイングや球速に必要な瞬発力が落ちる。 -
モチベーションの低下
走ること自体が「罰」になり、本来楽しいはずの野球が苦痛になる。
経験的にも、「走れば強くなる」という単純な話ではないことは明らかでした。
それでも「精神論」を完全に否定できない理由
一方で、野球は
「最悪の状況で、最善を考える」 ことを求められるスポーツでもあります。
満塁のピンチ。
体が重い試合終盤。
思い通りにいかない流れの中で、それでも踏ん張れるか。
そう考えると、
ゴールの見えない長距離を走り切る経験が、
精神面だけに限れば、一定の意味を持っていた可能性も否定できません。
ただし、その「心」を鍛える手段が、
野球の動きと切り離された長距離走でなければならない理由はない
とも感じます。
もし「走る」なら、こうありたい
今の知識を持って、あの頃の自分に声をかけられるなら、こう言いたい。
「走るなら、目的を持って走ろう」 と。
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短距離ダッシュで瞬発力を鍛える
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インターバル走で回復力を高める
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有酸素運動として、狙いを明確にする
「今、何の能力を鍛えているのか」が分かっていれば、
同じ“走る”でも意味はまったく変わります。
まとめ
あの冬の走り込みが、すべて正しかったとは思いません。
怪我も多かったし、パフォーマンス的にも疑問は残ります。
それでも、あの理不尽とも言える苦しさを経験したからこそ、
今こうして 「意味のある努力とは何か」 を
真剣に考えられるようになったのも事実です。
過去を否定するのではなく、
そこから学び、
次の世代により良い環境を残していく。
それが、あの「走らされた日々」への一番の供養なのかもしれません。
この記事が、
今まさに冬の練習に励む現役選手や、
指導に悩む方々にとって、
少しでも考えるヒントになれば幸いです。