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【草香江】押し照るや難波の海。二都を繋ぐ光り輝く「ひのもと」の水の道【日下】

大阪平野は北の淀川、南の大和川が運ぶ土砂が堆積し形づくられました。古墳時代以降、飛鳥〜奈良時代には、古代河内湖の南北がさらに縮小し、東西に長い #草香江 に変化します。#日下 #ひのもと #万葉集

目次

本文

飛鳥〜奈良時代の草香江(くさかえ)

大阪平野は北の淀川、南の大和川が運ぶ土砂が堆積し形づくられました。

縄文〜弥生〜古墳時代の大阪平野の変化

飛鳥〜奈良時代には、古代河内湖の南北がさらに縮小し、東西に長い草香江に変化します。

5世紀以降の大阪平野(水都大阪の歴史HP、より)

ざっくり言うと、草香江の水際線は、現在のJR学研都市線と近鉄奈良線の間にあったと考えることができます。

鉄道線は地盤の硬い(古い)ところにレールが敷かれること、各路線の駅周辺には古い神社が並んでいること、などがそう考える理由です。

草香江の由来

草香江は 日下(くさか)に由来すると考えられます。

東西に長い水域は 太陽の通り道 で、日の下(ひのもと)に位置します。

現在の「東大阪市日下町、くさかちょう」あたりが、古代の草香江の東端にあたります。

奈良時代、東の平城京から真東に生駒山系を 直超え して、山から降りてきたところ、難波宮のある「河内」の入り口が日下町となります。

草香江の水域と現代地図

ちょうど、饒速日山(にぎはやひやま)伝承地を西の河内に下って行くと日下町に降りるため、古代に「草香山」と呼ばれたのは、饒速日山、または、日下町周辺の丘陵地であったと考えられます。

石切劔箭神社(東大阪市東石切町。日下町の南隣り)付近から生駒山系

参考に、難波宮、饒速日山伝承地、平城京の位置情報。いずれも東西に並ぶ関係です。(日本が位置するN北緯34度における1分の距離は約30.812m。3ケ所とも1分差以内)

  • 難波宮大極殿跡∶N34°40'48.62",E135°31'22.89"

  • 平城京朝堂院跡∶N34°41'24.14",E135°47'39.30"

  • 饒速日山伝承地∶N34°41'43.45",E135°40'25.78

「押し照る」の難波の海

「押し照る」とは「あまねく照り映える」「光り輝く」と考えることができます。

万葉歌では「押し照る」は「難波」にかかる枕詞とされています。

天平5年(733、奈良時代、聖武天皇期)草香山を越えて河内から大和に帰る時に、神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ)が詠んだ二首が「万葉集」におさめられています(巻6-976、巻6-977)

難波潟 潮干(しほひ)のなごりよく見てむ 家なる妹が 待ち問はむため

(難波の潟の潮の引いた後の水辺の様子をよく見ておこう。私の帰りを待つ妻に尋ねられても答えられるように。)

直超(ただこ)への この道にして 押し照るや 難波の跡(たづ)と 名付けけらしも

(日下の直越えの道から太陽の光で難波の海が一面に照り輝くのを見て)なるほど!この景色を見て昔の人は「押し照る難波の海」と名付けたんだなぁ。

二首目は、太陽の通り道、日の下(ひのもと)の草香江が、圧倒的な力強さで光り輝く様子が目に浮かびますね✨

光の道の一直線先に港湾都市、難波宮。

詩が詠まれた聖武天皇期、都は平城京と難波宮でした。

イメージ写真。ACより

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