出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 09:41 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| 『CELLULOID』 | ||||
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| Pierrot の EP | ||||
| リリース | ||||
| ジャンル | Rock | |||
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| レーベル | BMGファンハウス Universal Music(再発) |
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| Pierrot アルバム 年表 | ||||
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『CELLULOID』(セルロイド)は、日本のバンドPierrotのインディーズ3枚目のミニ・アルバム。1997年9月3日発売。発売元はBMGファンハウス(2001年12月19日にユニバーサルミュージックにより再発売)。
『「セルロイド」という架空の生命体が人格を得て、様々な人間に憑依し、人間という生き物とはどういったものなのかを第三者的な立場から語りかける』という設定のもと、世界観が構築されている。
そのストーリーを小説化した『アルルカンの視界から』という連載が『CDでーた』に掲載されたが、「脳内モルヒネ」の章で打ち切りとなった。
「脳内モルヒネ」は初めてプロモーションビデオが製作された楽曲で、PV集「Prototype」に収録されている。また、『気が狂わぬ様に』という歌詞が差別的だという理由でレコード倫理協会側からクレームを受けたが、最終的には歌詞カードが伏字にされるにとどまり、録音やライブにおいてもそのまま歌われている。
「Twelve」は唯一、TAKEOがクレジットされている楽曲である。
初めて外部プロデューサーとして、伝説のニューウェーブロックバンド・EXのベーシストであった奈良敏博を迎えて制作された。KOHTAは後年のインタビューにおいて本作を振り返り、「ベーシストとしてスキルアップできた作品」と語っている。
全作詞:キリト
| Pierrot
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(celluloid から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/26 15:05 UTC 版)
セルロイド(英: celluloid)は、ニトロセルロース(硝化綿)と可塑剤となる樟脳を主原料とする合成樹脂[1]。世界初の高分子プラスチックである[1]。象牙の代替品として開発され、20世紀前半には生活用品等に多く使われた[1]。
セルロイドは消防法における第5類危険物に属し、20kgを超える貯蔵には消防署への届け出が義務付けられる。
ニトロセルロース(硝化綿)と樟脳を主原料とする合成樹脂の発明者については諸説あるが、セルロイドという名称はジョン・ウェズリー・ハイアットによって商標登録されたものである[1]。
最初は象牙の代替品としてビリヤードの球が開発されたが、コルセットや義手義足などにも利用されるようになった[1]。その後、20世紀の半ばまで、食器の取っ手や万年筆の筒や眼鏡のフレーム、洋服の襟(カラー)やおもちゃ、筆箱、石鹸入れ、飾り物などに広く利用された。
1880年代後半からセルロイドは乾板に代わって写真フィルムとして使われるようになった。乾板に使われているガラス板は重く、また壊れやすいというデメリットがあった。それらの製造技術を開発したハンニバル・グッドウィン(Hannibal Goodwin)の会社が現在のイーストマン・コダック社の前身である。
日本では1877年(明治10年)に初めて赤色の見本品が神戸港へ到着。居留地にあった二十二番館で大阪の西川伊兵衛がこれを購入。翌1878年に横浜居留地の二十八番館に同様の物が入った際には東京日本橋の小川専助が買い取ったと記録がある。その後しばらく輸入が無かったが、1885年(明治18年)に鈴木久左衛門が三井物産に委託し厚さ八分、長さ二尺七寸の生地を300個輸入。櫛やステッキ、洋傘柄等に加工して販売した[2]。
1889年(明治22年)に西澤幾次郎の出資で本所区曳舟通り中郷村(後の向島中之郷町)に日本初のセルロイド生地製造工場・昇光舎が設立される。工場長は小川専助の時に加工を手掛けた小蝶六三郎。生地製造は非常に難航し、成功するまでの約2年間に西澤は全財産二万円を費やしたとされる。また当初はその危険な性質もよく知られておらず、1900年(明治33年)6月には乾燥室内で原材料の硝化綿が自然爆発。小蝶の妻・花子と幼児を含む親族ら6名の死傷者を出す悲惨な事故となった[注釈 1]。
1908年より原材料も国産化されるようになり[1][注釈 2]、1910年に堺セルロイド(株)がアメリカ式で、1911年7月に日本セルロイド人造絹糸(株)がドイツ方式でセルロイドの量産を始めた[4]。
1919年9月8日、大日本セルロイド(株)設立(堺セルロイド(株)・日本セルロイド人造絹糸(株)など8社の合併による。本社大阪。資本金1250万円。社長森田茂吉)[5]。
1955年、セルロイド製品の火災事故が多発していた事を受けアメリカで可燃物質規制法が成立。これにより日本製のセルロイド玩具などは全てアメリカへ輸出できなくなった。またアメリカから広まったセルロイド製品の市場からの排除運動は世界へ広まり、世界的にセルロイドの製造や消費が落ち込むこととなった。
セルロイド最大の欠点は燃えやすいという性質で、業界では他の可塑剤も研究されたが見つからないままポリ塩化ビニルなどの後発の合成樹脂素材に取って代わられた[1]。1996年以降、日本国内では生産されていない[1]。
セルロイドは1930年代には文房具、工芸品、生活用品、玩具、映画フィルム、レコードなど25,000種類以上の製品に使用された[1]。しかし、燃えやすく、新しい樹脂の開発によって次第に用いられることはなくなった[1]。
パチンコの装飾板やピンポン玉などセルロイドの使用が規制された製品もある[1]。ピンポン玉はオリンピックでは2012年ロンドンオリンピックで非セルロイド材質のものに切り替えられ[6]、2014年に非セルロイドの材質で製造することがルールで義務化された[7]。
現代では、ギターピック、高級眼鏡のフレーム(ロイド眼鏡)、万年筆のペン軸、装身具などに使われているにすぎない[1]。またこのような分野においても、可燃性が無く環境に配慮した素材であるアセチルセルロース(アセチロイド)に代用される傾向がある[8][9]。
セルアニメの製作に使われるセルは、セルロイドのシートを使用していたため、1950年代にトリアセチルセルロース製の製品が使われるようになってからも「セル画」と呼ばれている。
日本では東京府本田村(現・葛飾区)で1914年(大正3年)、人形などセルロイド製おもちゃの生産が始まり、多数が輸出された。富野由悠季の母の実家は、セルロイド人形の輸出で成功し裕福だったという[10]。しかし発火しやすいことを問題視したアメリカ合衆国連邦政府の輸入禁止により、産業としては衰退。2002年に製造を再開した葛飾区の平井玩具製作所(外部リンク参照)が、2018年時点で日本唯一の生産会社である[11]。
大正12年に作詞・野口雨情、作曲・本居長世のコンビが世に送り出した童謡「青い眼の人形」の歌詞中に、”アメリカ生まれのセルロイド”と歌われている[12]。
加熱(大体90℃)で軟化し、成形が簡単であることからかつて大量に使われた。
極めて燃え易く、摩擦熱などによって発火し易い。さらに光などで劣化し、耐久性が低いという欠点がある。
前者の欠点は致命的であり、セルロイド工場では素材の自己反応性による自然発火が、しばしば火災の原因となった。映画の初期作品(1950年代まで)はセルロイドをベースとしたフィルムで記録されており、映画館ではフィルム照明のアーク灯や電球の高温や摩擦によりセルロイドフィルムが発火するなどの事故も起きた。可燃性でフィルム自体が劣化しやすいセルロイドの特性は、フィルム原本の保管を基本とするフィルム保管施設の作品の長期アーカイブ上の課題となっている。また実際に日本では火災事故が起きている(フィルムセンター火災)。上述のとおり日本ではセルロイドは消防法の可燃性の規制対象物に指定され製造、貯蔵、取扱方法が厳しく定められている。日本のように映写技師の資格を制定した国もある。
またセルロイド製品は長期にわたる光や酸素などの影響を受けると、元のセルロースと硝酸に分解・劣化して、ベトついたり、亀裂を生じたりしやすい。このため長期保存に向かず、無傷で現存しているアンティーク製品は多くはない。また分解過程で強酸性ガスを発生させ、セルロイド自身や周辺の金属などを腐食させる可能性がある。
横浜市港北区にセルロイド産業文化の研究・広報拠点となるセルロイドライブラリ・メモワールハウス(セルロイドハウス横濱館)があり世界有数のセルロイド博物館となっている[1][23]。
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