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解剖学(かいぼうがく、英: anatomy)は、広義で生物体の正常な形態と構造を研究する形態学の1つ。近年は人間に似せたロボットへ応用も進んでいる。
研究対象により植物解剖学と動物解剖学に分類可能だが、医学解剖学は後者の一部をなす人体解剖学 (human anatomy e., Menschenanatomie d.) である。人体解剖学は、ヒトのからだ(身体)のつくりや形態について学ぶ学問である。
構造を明らかにするには、外部のみではなく内部を細かく分けて研究しなければならない。anatomy は、相互に (ana) あるいは下から上に (tomia) 切る意味で、解きわ(剖)けることである。『生命形態の自然誌』[1]によると、解剖は「解」も「剖」もともに刀で切る象形で、anatomia etc の欧語は古代ギリシャ語の ana-temnein (ana:up,temno:cut) = cut up(切り尽くす)に由来する。
解剖学の種類について言及する時、まず人体に関心を絞ったうえで研究手法による分類法(下で解説)がいきなり持ち出されることが一般的ではあるが、そうではなく解剖学全体に視野を広げて、生物全体に視野を広げて動物解剖学、植物解剖学と分類することもある(生物学的な俯瞰のしかた、学問全体に関する俯瞰)。 この場合、人体解剖学は動物解剖学の一分野と位置づけられる。美術(芸術)で活用するための解剖学的知識を集積した美術解剖学の下位分類もある。
肉眼あるいはルーペ程度の拡大による観察で調べられる範囲で、対象の形態、構造を記述する学問。日本では1771年に前野良沢・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らが江戸の小塚原刑場で腑分けを見学したことが有名である。肉眼解剖学はその意義・性質上、それまでの通念が覆されたり、過去の記述が時代遅れになる、といったことがあまりない点で、現代科学においては学問としては特殊な性質を持っている。現在は医師、歯科医師の養成課程ではヒトの肉眼解剖学が、獣医師のそれでは多種の動物を対象にした肉眼解剖学が、それぞれ専門課程の初期段階で必須項目とされる。解剖実習と称して、ピンセット、メス、はさみ、ノコギリなどを使い、遺体の諸構造(筋、骨、血管、神経、内臓など)を剖出(ぼうしゅつ)し、観察・記録する。
肉眼では観察できない微細な構造について、顕微鏡を駆使して調べ、構造を記載する学問。各器官(臓器)内の構造の特徴を、それを構成する細胞のレベルまで、あるいは細胞内小器官のレベルまで解明するもの。便宜上「組織学」の名で解剖学とは別の分野として扱われることが多い。
複数の生物種の構造を比較することから、それらに共通する一般的で重要な事項を考察する学問。生物学では形態面での進化の経路を構築する上で重要な手段となるし、獣医学ではそれぞれの種での差が重要となってくる。一般に比較解剖学の名で呼ばれるのは、生物学における18世紀から19世紀半ばころの流れをさす。
医学の現場では、目的が異なるいくつかの解剖が行われる。
肉眼解剖学に相当し、特に系統解剖学と呼ばれる。系統は全身の意である。おもに学生の教育のために、大学医学部、歯学部、防衛医科大学校の解剖学の教育担当者の指導の下に行われる。解剖に用いる遺体は、日本ではそのほとんどすべてが献体制度により、本人の遺志および遺族の同意に基づいて提供された遺体が用いられている。遺体は、ホルマリン、アルコールなどで、あらかじめ固定・防腐処理されており、学生は数週間から数ヶ月をかけて解剖実習を行う。解剖実習の目的は、骨・筋肉・内臓・神経などの各名称や場所を知ることだけでなく、それぞれの組織や器官がどのような機能や働きを行うかを知り、将来的に人の病気やケガを治療できる医師を育てるためである。大学では1年生か2年生から解剖実習がある大学も多い[要出典]。
病理解剖は、病院で死亡した患者の死亡原因が不明である場合や施した治療の効果を判定する必要がある場合など、病理学専門医師(病理医)が、遺族の同意に基づいて実施する。
この解剖に関する知識体系は病理学である。
司法解剖、行政解剖がこれに当たる。前者は大学の医学部または医科大学の法医学教室が担当し、犯罪に関与すると思われる死体を対象とする。後者は監察医または監察医制度の置かれていない地方では大学の法医学教室が担当し、病院で他界せず犯罪にも関与しない死体を対象とする。例外的に、東京の監察医務院では司法解剖に分けられる異状死体についても検案の対象としている。
この解剖に関する知識体系は法医学である。
解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に写筆されたエドウィン・スミス・パピルスには頭蓋縫合や脳表面の状態といったことが事細かに記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている。
古代ギリシャの哲人であるヒポクラテスが、ヤギの頭を切り開いて脳を調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている[2]。
100年ほどのちにアレキサンドリアの医師であったヘロフィロスが人体解剖した[3]。同時期の医師エラシストラトスも人体解剖を行った[4]。
宗教と道徳的な見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至った[5]。古代における医学の集大成をなしたガレノスは数多くの解剖を行ったが、人体解剖が禁じられていたためにブタやサル、ヤギなどの動物を解剖せざるを得ず、人体からかけ離れた知識も残存していた[6]。ただし、例えばローマ教皇ボニファティウス8世は1300年に解剖を涜聖罪に定めたが、直接解剖行為を禁止したものではなく宗教的見地から遺体の地上への放置等を禁じた内容だったといわれている[5]。
解剖学が再び活発になるのはルネサンス期である。14世紀にボローニャ大学で解剖がはじまり、モンディーノ・デ・ルッツィは医学実習のための人体解剖を実施するとともに1316年に「解剖学」(モンディーノ解剖学)を出版し、体系立てた解剖学を確立した。このことから、モンディーノは「解剖の再建者」とも評される[7]。当時の解剖学はガレノス解剖学のテキストを教師が読み上げ、その器官を実際に指さして確認するもので、書物の追認にとどまっていた[8]。16世紀に入ると解剖学書の普及や解剖回数の増加に伴い、実際に解剖に当たった医者の中からガレノスの記述と実際の人体との差異に気づくものが現れたが、ガレノスの権威は非常に高いもので、彼らはガレノスへの直接的な批判を避けたり、ガレノス時代から人体の構造が変化したと考えた[9]。1543年、パドヴァ大学のアンドレアス・ヴェサリウスは実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた[10]。
18世紀にパリ大学とウィーン大学で解剖の講義が実施された[5]。これが臨床医学の基礎となる病理解剖学に位置づけられるか否かは考察を要する[5]。一般に病理解剖学の起源とされるのは、イタリアのジョヴァンニ・バッティスタ・モルガーニが1761年に出版した「解剖によって明らかにされた病気の座および原因」である[11]。18世紀には簡潔で実践的な解剖学書が数多く発行され、ドイツのヨハン・アダム・クルムスが1722年に出版した『解剖学表』(ターヘル・アナトミア)は各国語版に翻訳されて版を重ね、そのうちのオランダ語版が日本に輸入されて『解体新書』の底本となった[12]。
病理解剖学と臨床医学が結び付くのはマリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャなどの相互調整の結果で19世紀以後である[5]。
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日本で最初の人体解剖は『日本書紀』第十四巻にある、雄略天皇の命によって行われた稚足姫皇女の解剖とされる。一種の法医解剖で系統的な解剖ではなかった[13]。701年に成立した大宝律令で解剖の禁止が明文化されたとされるが、原文は残存せずに詳細は不明である[13]。
のちの解剖がは江戸時代になってからである。京都の医学者山脇東洋は、人体の解剖が医学にとって不可欠であると考え、師の後藤艮山に相談した。後藤はこの時「腑分は官の制するところにて(解剖は幕府が決めること)」と回答したが、幕府が明示的に解剖を禁止した法令は確認されていない[14]。ともかく山脇は当局の許可を得、宝暦4年(1754年)閏2月7日に京都の刑場で刑死者の解剖を行った。山脇はこの成果をまとめ、『蔵志』として出版した。これに対して佐野安貞・吉益東洞・田中愿仲・福岡貞亮といった医者たちは、「腑分無用論」を唱えて山脇を批判したが、幕府関係者からの批判はなかった[14]。
その後、明和4、5年(1767年、1768年)には東洋の子の玄侃が、7年(1770年)に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖した。明和8年(1771年)3月4日前野良沢、杉田玄白などが小塚原で解剖を行なった。前野らはこれを機に西洋医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめることとなり、『解体新書』の完成につながったことは『蘭学事始』などに詳しい[15]。寛政5年(1793年)に晁俊章が、8年(1796年)に柚木太淳が、10年(1798年)施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。呉秀三によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが文久元年(1861年)福井で行なった解剖まで、記録に残された解剖は34例であった。
解剖の系統的実施は明治3年(1870年)以後である。長谷川泰、石黒忠悳らは、大学東校から解剖のことを弁官に申請して裁可を得た。同年10月20日付の申請に対して即日、「可為伺之通事」と裁可があった。10月27日に清三郎の遺体が第一号として解剖され、12月までに52遺体が集まり、雲井龍雄の遺体もあった。明治2年(1869年)に田口和美が井上美幾女の遺体を解剖し、その墓は東京白山の念速寺にある[16]。
19世紀前半までは、イギリス、米国などで解剖用遺体が不足していたので、墓地に埋葬された遺体が盗まれて、解剖されることがあった[17]。遺体泥棒は広く恐怖と反感を引き起こし、解剖の対象となる恐ろしさが加味された。
1827年から1828年にかけてスコットランドの首都、エディンバラでウェストポート殺人事件が起きた。即ち、人体解剖に適した人が殺され、その遺体が売られた。この殺人事件が契機となって、1832年にイギリスで解剖法が制定され、ようやく十分な数の解剖用遺体が供給される制度が整備された[18]。