出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:14 UTC 版)
19世紀の多くの記述では、サラカツァニと、ヴラフ人 や ロマンス諸語 を話す「他のギリシャの羊飼いの人々」などとの区別ができていない。多くの場合、サラカツァニは ヴラフ人 と認識されていた。サラカツァニは明らかにギリシア起源であったが、Panagiotis Aravantinos(英語版)は、別の民族集団である Arvanitovlachs を誤ってサラカツァニと呼んでいたことについて論じており、2つの集団の差異を調べ、Arvanitovlachs が実際には "Garagounides"または "Korakounides" という別の集団であることを述べている。サラカツァニは、Roumeliotes や Moraites とも呼ばれており、その名称は住んでいた地に基づいていた。初代ギリシャ国王オソン1世はサラカツァニを賛美することで有名で、その治世の初期にサラカツァニの女性との婚外子をもうけて Tangas と名付けた。 20世紀以降、多くの学者がサラカツァニの言語、文化、人種の背景を研究してきた。その中で、1920年から1925年の間にギリシャに2回旅行し、サラカサニの方言とナレーションを研究したデンマークの学者 Carsten Høeg(英語版) は、最も影響力のある業績を残した。彼によるとサラカツァニの方言には、外国の影響が見当たらず、物質文化の中にも定住(英語版)していた痕跡がないことを見出している。更に彼は、古典ギリシアにおいて、サラカツァニの遊牧生活に似た、遊牧民の例を探求していた。イピロス地域のサラカツァニを訪問し、ギリシャの他のいくつかの地域にも、定住する村を持たない集団がいることについて言及した。 ドイツの学者 Beuermann は、「サラカツァニは古代ギリシャ人の純粋な直系」とする Carsten Høeg(英語版) の説を受け入れなかった。18世紀以前にはサラカツァニについて述べられたものは記されていないようであるが、それは必ずしもそれ以前に存在しなかったことを意味するものではない。「サラカツァニ」という言葉自体は、現在のギリシャ住人とは何世紀もの間、隔離して住んでいた人々に与えられた、比較的新しい総称である可能性が高い。 Georgakas (1949) と Kavadias (1965) は、サラカツァニは古典時代以前にギリシャの山岳地帯に住んでいた古代の遊牧民の末裔であるか、あるいは14世紀ごろに元の定住地を追われて遊牧民になった者たちの末裔であると信じていた。ギリシャの民俗学者の Angeliki Hatzimihali(ギリシア語版) はサラカツァニの人々と共に人生を過ごし、彼女の見出した牧歌的な生き方、社会組織と芸術形式が、ギリシャ文化の原型的であることを強調している。彼女はサラカツァニの芸術様式と古典ギリシャ以前の幾何学様式 と類似していることも指摘している。 イギリスの歴史家で人類学者の John K. Campbell は、1950年代半ばの研究でサラカツァニみつけたのとほぼ同じ条件と地域、彼らは常に住んでいなければならないという結論に達している。彼はまた、サラカツァニがギリシャ国家の中の特有の社会集団であることについて、彼らとヴラフ人の違いを強調している。彼はまた、ギリシャ国内の主要な社会集団としてのサラカツァニについて、ヴラフ人との差異に光を当てた。別のイギリスの歴史家の Nicholas Hammond(英語版)はイピロスに住むサラカツァニに関する現地調査の結果、初期の東ローマ帝国治世にグラモス山脈やピンドゥス山脈地域に住んでいたギリシャ人の牧畜家の末裔と考えており、遅くとも12世紀までにはその牧草地をヴラフ人に奪われていた。 サラカツァニの起源に関してはその他にいくつかの説がある。一つは、E. Makris (1990) は新石器時代以前に由来する人々と信じており、一方で、ロンドンの学者 John Nandris は遊牧民の複雑な歴史の流れの中に加えて論じており、その他にもアルノルト・ファン・ヘネップはサラカツァニと Yörüks(英語版) を結び付けて考えている。
※この「Accounts」の解説は、「サラカツァニ」の解説の一部です。
「Accounts」を含む「サラカツァニ」の記事については、「サラカツァニ」の概要を参照ください。