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| プラトンの著作 (プラトン全集) |
|---|
| 初期 |
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| 初期(過渡期) |
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| 中期 |
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| 後期 |
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『饗宴』(きょうえん、古希: Συμπόσιον、古代ギリシア語ラテン翻字: Sumpósion、シュンポシオン、羅: Symposium)は、プラトンの中期対話篇の1つ。副題は「エロース(古希: ἔρως、古代ギリシア語ラテン翻字: erōs)について」[1][2]。
紀元前400年[4]頃のアテナイ。アポロドロスは友人に、紀元前416年[4]にあった饗宴の話を教えてほしいとせがまれる。
アポロドロスは、ついこの間も、別の知人(グラウコン)からその話をせがまれたことを明かしつつ、その饗宴は自分達が子供の頃のかなり昔の話であり、自分も直接そこにいたわけではないが、そこに居合わせたキュダテナイオン区のアリストデモスというソクラテスの友人・敬愛者から、詳しい話を聞いて知っていること、また、その知人にパレロンの自宅からアテナイ市内までの道を歩きがてら、語って聞かせたので、話す準備はできていることを述べつつ、アリストデモスが述べたままに、回想が語られる。
紀元前416年、アテナイの悲劇詩人アガトンが悲劇のコンクールで初優勝した翌日、アガトンの邸宅での祝賀饗宴に招かれているソクラテスが、身なりを整えているところに、アリストデモスは出くわし、一緒についていくことになった。アガトンの邸宅に着くと、既に友人達が集っており、ちょうど食事をするところだった。食事を終え、エリュクシマコスが今夜は演説で時を過ごそうと提案、論題を「エロースに対する賛美」に設定し、順々に演説を行っていくことになる。
翌朝、ソクラテスが帰るまでが描かれる。
対話篇は大きく三つの部分にわかれる。
アルキビアデスの乱入のあと饗宴は混乱し、夜通し騒いだ後みなが宴席で寝静まったところに、ソクラテスは酔い乱れることもなく、体育場へ出て行く。
紀元前400年頃のアテナイ。アポロドロスは友人に、かつてアガトン、ソクラテス、アルキビアデス等が饗宴でエロースについての演説を行った話を聞きたいとせがまれる。アポロドロスは、ついこの間も、知人(グラウコン)に頼まれて話をしたばかりなので、準備はできていること、また、この話は自分達がまだ子供の頃の話で、そこに居合わせたソクラテスの友人アリストデモスから聞かされた話だと前置きしつつ、話を始める。
紀元前416年のアテナイ。悲劇詩人アガトンが悲劇のコンクールで初優勝した翌日、アリストデモスは、沐浴を終えて靴を履いたソクラテスに出逢う。アガトンの自宅での饗宴に呼ばれているのだという。そして、アリストデモスも一緒について行くことになった。
アガトンの自宅に着くと、既に友人達が集っており、給仕たちが慌ただしく食事の用意をしていた。アガトンがアリストデモスに、ソクラテスはどうしたのか尋ねると、アリストデモスは先程まで一緒だったのにと不思議がる。給仕が外に見に行くと、隣の家の玄関前で立ったまま考え込んでいるという。アリストデモスは、いつものことだから放っておけばいいと言う。
皆が食事を始め、半ば済んだ頃に、ようやくソクラテスがやって来た。皆が食後に酒を飲み始めると、パウサニアスが、昨日酒を飲み過ぎたので多少の休養が欲しい、どうしたら気楽に酒が飲めるかと問う。アリストパネスも賛同する。エリュクシマコスがアガトンに問うと、アガトンも賛同した。エリュクシマコスは、酒豪のアガトンがそう言うなら好都合だし、医術的にも酩酊は有害なので、今日は演説をご馳走に時を過ごすことを提案。一同、賛成する。
エリュクシマコスは、パイドロスからよく聞かされる「愛の神エロースが、詩人たちから無視・疎外され過ぎている」という意見を引き合いに出し、エロース賛美の演説を右回りで一人ずつ行っていこうと提案。一同、賛成する。
最初の演説は、パイドロスが引き受けた。
パイドロスは、
といった旨の演説を行う。 次に、他の2 〜 3人が順々に演説を行ったが、アリストデモスは忘れてしまった。
次に、パウサニアスが演説した。
パウサニアスは、
といった旨の、プロディコスの弟子らしく言葉・概念の区別にこだわった演説を披露する。 次はアリストパネスの番だったが、しゃっくりが止まらず、代わりにエリュクシマコスが先に演説を行う。
エリュクシマコスは、
という主旨の医者らしい演説を行う。
続いてアリストパネスが、
という主旨の喜劇詩人らしい演説を行う。
続いてアガトンが、
という主旨の演説を行い、聴衆の喝采を受ける。
最後の演説者であるソクラテスは、これまでの讃美演説が、対象の真実などお構いなしに考えつく限りの美しい語句を付与して自分たちを讃美する者にみせかけているだけだと皮肉を言い、そうした讃美演説はしたくないしできないと言い出す。そして自己流の真実を語る演説を行うことと、演説の前にいくつかアガトンに質問する許可を得る。
ソクラテスはアガトンと以下のような合意を伴う問答を行う。
続いてソクラテスは、かつてマンティネイア(Mantineia)のディオティマという女性に聴いた話という体裁で、当時のソクラテスとディオティマの問答を再現した演説を始める。主な内容は以下の通り。
以上の演説を聴いて、一同は賞賛した。
するとそこにアガトンを祝うために酔っ払ったアルキビアデスが従者たちと共に遅れてやって来た。アルキビアデスは皆に迎えられ、アガトンに祝いのリボンを巻く。その後振り返ってソクラテスを見つけ驚いて叫ぶ。
アルキビアデスはソクラテスにもリボンを巻き、皆に酒を勧める。エリュクシマコスがアルキビアデスに今夜の経緯を伝え、エロース讃美の演説をするよう促すが、アルキビアデスは代わりにソクラテス讃美の演説をすると言い出す。
アルキビアデスは、表面的な装いと異なりソクラテスの自制心と勇敢さがいかに甚だしいものであるかを、自分がどんなに誘惑しても落とせなかったことや、ポティダイアの戦いでの活躍を例に出し、賞賛する演説を行う。
演説を終えてアルキビアデスとソクラテスとアガトンが雑談をしていると、大勢の酔っ払い客がやって来て家中大騒ぎとなり、解散となった。
翌朝(回想者である)アリストデモスが目を覚ますと、ソクラテスとアガトンとアリストパネスの3人がまだ起きていて、大杯を回して飲みながら議論をしていた。
「喜劇と悲劇を同一人物が作ることは可能か、真に芸術的な悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもあるか」についての議論で、ソクラテスは肯定、アガトンとアリストパネスは否定の立場だった。しかしソクラテスの議論の容認を余儀なくされる段階になって、アリストパネスとアガトンは眠りに落ちてしまった。
ソクラテスは2人を寝付かせてから立ち去ったので、アリストデモスが付いていくと、ソクラテスはいつも通りリュケイオンへ行き、沐浴してから一日そこで過ごし、夕方になってから家路についた。
本作は、愛の神エロースに向けられた讃美演説を通して、エロースに多様な意味・解釈が付与されていき、最後のソクラテスの演説によって、それが人間が「虚しい現象的・無常な生」を脱して、超越的・恒常的な「美のイデア」への到達(と「神々」への近接)を促す、「愛知者(哲学者)的な愛」の力へと昇華される、という話が柱となっている。
本編内で、ソクラテスに先行してエロースの讃美演説を行った演説者は、(記述を省略された数名を除くと)5名である。その要旨は以下の通り。
最後のソクラテスは、先行する演説の内容を、批判的に継承・統合・再構築しながら、「美のイデア」へと到達するための「愛知者(哲学者)的な愛」の演説へと昇華させた。
まずソクラテスは、エロースを「天上の神」ではなく、人間の生に寄り添いつつ、神々と人間のつなぎ役を担う「神霊(ダイモーン)」とした。「神霊(ダイモーン)」としてのエロースは、あたかも「人間の生の営み」やその内部の「欲求そのもの」を体現するかのように、発生しては消失し、獲得しては失い、を繰り返している。
そんなエロース(欲求)に促されながら、人間は現象・生成消滅としてのその虚ろな生命・営みをつむぎ、つないでいるが、そんな人間のエロース(欲求)が本当に渇望し、追い求めているものは、そんな現象的・生成消滅的な自分たちには欠落している「善 (それ自体/そのもの) の獲得・永久的な所有」「不死(現象・無常・喪失からの脱出、その超越・克服)」としての幸福に他ならない。
(※ちなみに、ギリシア語における「幸福(エウダイモニア)」という語は、「エウ(良い)+ダイモーン(神霊)」に由来し、良い神霊(ダイモーン)を身に宿していることが幸福に繋がるというギリシア人の世界観・人間観を反映している[8]。プラトンが本作のソクラテスの演説において、エロースをわざわざ「神霊(ダイモーン)」にした理由の1つもここにあり、こうした「神霊(ダイモーン)と人間の幸福(エウダイモーン)をつなげる発想」は、続編『パイドン』『国家』や、後期対話篇『ティマイオス』等でも反復されている。また、アリストテレスもこうしたプラトンの幸福重視の思想を受け継ぎ、『ニコマコス倫理学』で「幸福(エウダイモニア)」を人生の目的としての「最高善」(「善のイデア」の代替概念)と関連付けて言及しており、幸福主義の起源として扱われている。)
そしてそれは、エロース(欲求・愛)の対象である「美」に対する認識を、愛知者(哲学者)的に成熟・高度化させて行き、より普遍的・究極的・永続的な「美」を追求して行った果てに、(現象・生成消滅(相対化・流動化・動揺)することが無い、恒久的・絶対的・本質的・超越的な、確固たる)「美そのもの(美のイデア)」に到達することで獲得・達成されることになるのであり、そうした営み(愛知(哲学)的な、イデア(真実在)認識の追求/獲得/共有/継承)にこそ、人間の本当の生き甲斐や、エロース(欲求・愛)の本当の意味が存在している。
以上が、その論旨である。
こうした「エロース」と「美のイデア」を、愛知者(哲学者)の営みを介して関連付ける発想は、後の中期対話篇『パイドロス』でも反復される。
(また他方で、プラトンは本作『饗宴』や続く『国家』『パイドロス』において、「エロース」がこうした「真実在、徳(優秀/卓越)・最善、神(全知全能)等を志向する(目指す)、「愛知者(哲学者)的・魂的・知的・神的な、善い狂気(マニア)」」として峻別・昇華・馴致・発揮されることがないと、ただ人間を堕落させる要因(肉体的・無分別な、悪い狂気(マニア))にもなってしまい得るという、「エロースの2面性(危険性)」についても、言及している。そうした「エロース」の「悪い側面」については、本作『饗宴』では、パウサニアスの演説で言及される「パンデーモス」(万人向けの神)として、『国家』では、8巻-9巻にて言及される「民主制・僭主制」的な堕落を生み出す放縦欲・支配欲として、『パイドロス』では、「最初の2つの挿入話」で批判的に言及される放縦欲・支配欲として、それぞれ言及されている。)
(ちなみに、なぜ、愛知(哲学)を行い、「イデア」に到達することが、現象・生成消滅というあり方を克服して「不死」「神々の友」となることになるのかについての、寓話的な説明に関しては、本作に続く『パイドン』『国家』『パイドロス』で、追加的に詳しく述べられて行くことになる。すなわち総じて言えば、愛知(哲学)を行い、知恵・真実在を探究し、神々に似たものになろうと努力してきた魂は、死後に神々のいる天上へと(いち早く)帰還できるが、そうでない魂は地上に留まり、肉体への寄生と転生(現象・生成消滅的なあり方)を繰り返すことになるからだと説明される。)
エロースに関する演説では、ソクラテスの同時代人の文体と思想がさまざまに模倣されている。特に有名なものは、アリストパネスのくだりである。
人間はもともと背中合わせの一体(アンドロギュノス)であったが、神によって2体に切り離された。このため人間は互いに失われた半身を求め、男らしい男は男を求め、女らしい女は女を求め、多くの中途半端な人間は互いに異性を求めるのだ、というもの。この部分はテクストの文脈を離れてしばしば参照される有名な部分である。配偶者のことをone's better half, one's other half(魂の半身)というのは、この説話に由来する。
ソクラテスが言及するディオティマは、「恋のことでもその他のことでも、何にでも通じる知者」とされる。ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』に登場するディオティーマの造形はこれに多く拠っている。ディオティマは紀元前430年頃にはアテナイにいた実在の人物のように書かれているが、一般にプラトンの創作の人物であると考えられている。ただしフェミニズム哲学では、ディオティマの実在性を主張し、女性哲学者としての地位を与えようとする試みがある[要出典]。