出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 08:01 UTC 版)
ポテンザ(POTENZA)は、ブリヂストンが販売するスポーツドライブ向けタイヤ、およびモータースポーツで使われるレーシングタイヤのブランド名称で、1979年に発売された。競合モデルはその前年(1978年)に発売された横浜ゴムの「ADVAN」シリーズや住友ゴム工業(DUNLOPブランド)の「フォーミュラ」や「ディレッツァ(DIREZZA)」などである。ポテンザはイタリア語で“力”、つまりパワーを意味する。
開発当初はひたすらグリップアップを目指し開発されたタイヤで、現在では周回を重ねてもグリップダウンが少ないタイヤを開発している。また日本メーカーの高級乗用車と欧州メーカーの高級乗用車向けにハイスピードレンジ対応(Wレンジ…300km/h超)モデルである「RE050」がメーカー標準装着モデルとしてOEM供給されている。
当初は以下のハイグリップ系やモータースポーツ向けのみの展開だったがその後のブランド戦略でプレミアムスポーツタイヤのEXPEDIAやスポーティータイヤのGRIDがPOTENZAブランドに統合されたことにより商品展開が拡充された。
ブリヂストンはフォーミュラ1をはじめとする国内外のさまざまなカテゴリーにも参戦しており、四輪モータースポーツで使われるタイヤも市販のものとはまったく違うが主にPOTENZAブランドで生産している。また、アメリカの「インディカー・シリーズ」に供給されている「ファイアストン・FIREHAWK」ブランドのタイヤは、ブランドはファイアストンだがその中身はブリヂストン・POTENZAそのものである(かつてのCARTシリーズでは2000年初頭からPOTENZAのブランド名が使われていた)。
珍しい例としては、2023年のスーパー耐久・富士24時間レースにおいて、本来ハンコックタイヤのスリックタイヤを使用するところが同社の工場火災の影響で供給が困難になり、代替として一部のクラスで市販品のPOTENZA RE-71RSが使用されたことがある。市販タイヤで24時間レースに参戦するのはブリヂストンでも初の事例だという。レースではハンコックのスリックに対して約1秒落ち程度のタイムで走行し、ドライバーからも高い評価を得た[1]。
(POTENZA から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/30 11:00 UTC 版)
| ポテンツァ Potenza |
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| 行政 | |
| 国 | |
| 州 | |
| 県/大都市 | ポテンツァ |
| CAP(郵便番号) | 85100 |
| 市外局番 | 0971 |
| ISTATコード | 076063 |
| 識別コード | G942 |
| 分離集落 | 一覧を参照 |
| 隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 |
| 地震分類 | zona 1 (sismicità alta) |
| 気候分類 | zona E, 2472 GG |
| 公式サイト | リンク |
| 人口 | |
| 人口 | 67,211 [1] 人 (2018-01-01) |
| 人口密度 | 386.3 人/km2 |
| 文化 | |
| 住民の呼称 | potentini |
| 守護聖人 | 聖ジェラルド (San Gerardo) |
| 祝祭日 | 5月30日 |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯40度38分 東経15度48分 / 北緯40.633度 東経15.800度座標: 北緯40度38分 東経15度48分 / 北緯40.633度 東経15.800度 |
| 標高 | 819 (584 - 1350) [2] m |
| 面積 | 173.97 [3] km2 |
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ポテンツァ県におけるコムーネの領域
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ポテンツァ (イタリア語: Potenza (
音声ファイル)) は、イタリア共和国南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約6万7000人の基礎自治体(コムーネ)。バジリカータ州の州都、ポテンツァ県の県都である。
標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。
ポテンツァ県中部、アペニン山脈中のバセンタ川谷を見下ろす位置にあり、県都・州都としてイタリアで最も標高が高い場所にある。バーリから西南西へ104km、ターラントから西北西へ121km、ナポリから東へ約132km、首都ローマから東南東へ約313kmの距離にある。[4]
隣接するコムーネは以下の通り。
ポテンティア(Potentia)と呼ばれた最初の定住地は、おそらく現在のポテンツァの10kmほど南で、標高の低い場所にあった。
ポテンティアのルカニは、古代ローマがサムニウム人やブルッティ人との戦争の間、ローマの敵側についた。紀元前4世紀にローマに従属させられ、後にムニキピウムとなった。ポテンティア住民は、紀元前216年のカンナエの戦いでローマが負けると反乱を起こした。しかし、メタウルスの戦いでイタリア本土におけるカルタゴの野望に望みがなくなると、ポテンティアはローマに再征服され、軍事植民地の地位へ降格した。
6世紀、市はロンゴバルド族のベネヴェント公国に含まれていた。南イタリアがノルマン人に征服される前、この地方にはサラセン人が到達していた。12世紀、ポテンツァに司教座が置かれた。1137年、ノルマン人王国征服を試みて失敗したローマ教皇インノケンティウス2世と神聖ローマ皇帝ロタール3世がポテンツァに集まった。1148年か1149年にポテンツァで、シチリア王ルッジェーロ2世が、ノルマン艦隊をサラセン人から解放したフランス王ルイ7世をもてなした。皇帝フリードリヒ2世による略奪の後、市はホーエンシュタウフェン家へ忠誠を保った。その結果、フランスのアンジュー家がシチリア王国を征服した時に、アンジュー公シャルル1世によって市はほぼ全体的に破壊された。1273年12月18日に発生した地震で、さらに市は荒廃した。
その後の年月、市は多様な封建領主の支配を受けて静かに存在した。スペイン支配に対する暴動の発生地となった。1694年に発生した地震で完璧なまでに市は破壊された。
1799年にパルテノペア共和国がつくられ、ポテンツァは王に対する暴動を起こした最初の都市の一つとなった。同時代にはブルボン王家の抑圧を受けた後、市は1806年にフランスに占領され、バジリカータの首都とされた。王となったジョアシャン・ミュラは、ポテンツァの住環境と行政を改善し、一部の都市改善は1846年の両シチリア王フェルディナンド2世の訪問のため導入された。1848年、暴動が発生し、再度ブルボン王家に制圧された。1857年、三度目となる地震の発生で市はまたも荒廃した。ポテンツァは1860年に再びブルボン王家支配に反旗を翻し、その後ジュゼッペ・ガリバルディ率いる義勇軍が入城し、イタリア王国へ併合された。
第二次世界大戦中の1943年9月、ポテンツァは連合国側の過酷な空爆を受けた。1980年、ポテンツァを強い地震が襲った。
その他、サクロ・クオーレ・カトリック大学、パルテノーペ・ナポリ大学のキャンパスがある。
約90km離れたサレルノ・コスタ・ダマルフィ空港が最寄りの空港となる。ポテンツァ中央駅にはFSが乗り入れており、サレルノ=ターラント間の重要なハブ駅となっている。
過去12回、ジロ・デ・イタリアの会場の一つとなっている。