出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 09:24 UTC 版)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/03 04:53 UTC 版)
| .no | |
|---|---|
| |
|
| 施行 | 1987年 |
| TLDの種類 | 国別コードトップレベルドメイン |
| 現在の状態 | 利用可 |
| 管理団体 | UNINETT Norid |
| 後援組織 | UNINETT Norid |
| 利用地域 | ノルウェーに関連のある団体 |
| 使用状況 | ノルウェーでは一般的。利用可能な第3レベルより、第2レベルでの登録が多い。 |
| 登録の制限 | ノルウェーで登録されている団体か、ノルウェーに住所を持つ18歳以上の個人である必要有。ただし、.priv.noの下は除く。これは、個人による登録が許されている。特定のサブドメインは様々な用件が必要。組織1つに付き第2レベルの登録は100個、個人は1人に付き第2レベルの登録は5個と制限されている。 |
| 階層構造 | 登録は第2レベル、もしくは、多様に存在する様々な第2レベルの下の第3レベルに直接行うことができる。 |
| 関連文書 | Domain name policy for .no |
| 紛争解決方針 | Complaint procedure |
| ウェブサイト | Norid |
.noはノルウェーに割り当てられている国別コードトップレベルドメイン(ccTLD)。登録は所定の機関により審査され、国際化ドメイン名も同時に登録することができる(詳細参照)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/13 02:32 UTC 版)
| 「N.O.」 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 電気グルーヴ の シングル | ||||
| 初出アルバム『VITAMIN』 | ||||
| B面 | 「4U Rack And Roll」 | |||
| リリース | ||||
| 規格 | 8センチCD | |||
| ジャンル | ||||
| 時間 | ||||
| レーベル | Ki/oon Sony Records | |||
| 作詞・作曲 | 石野卓球 | |||
| プロデュース | 電気グルーヴ | |||
| チャート最高順位 | ||||
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| 電気グルーヴ シングル 年表 | ||||
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| EANコード | ||||
| JAN 4988009104706 | ||||
「N.O.」(エヌ・オー)は、日本の音楽ユニットである電気グルーヴの楽曲。
1994年2月2日にKi/oon Sony Recordsより3枚目のシングルとしてリリースされた[1]。4枚目のオリジナル・アルバム『VITAMIN』(1993年)からリカットとして、前作「SNAKEFINGER」(1992年)よりおよそ1年4か月振りにリリースされた。作詞および作曲は石野卓球が担当、電気グルーヴによるセルフ・プロデュースとなっている。
1枚目のアルバム『662 BPM BY DG』(1990年)収録曲であった「無能の人 (LESS THAN ZERO)」をスタッフの要望によりリメイクした楽曲。しかし当時の石野はアルバム全体の音楽性と異なる本作の収録に対して否定的であったため、「N.O.」という仮タイトルのままリリースされることとなった。
本作のシングル盤はオリコンシングルチャートにおいては最高位第21位となったものの登場週数は12回で売り上げ枚数は13.6万枚となり、当時の電気グルーヴとしては最も高い売り上げを記録したシングルとなった。特に表記はされていないがシングル・バージョンはアルバム・バージョンよりもイントロが数秒省略されている。シングル・バージョンは後にベスト・アルバム『電気グルーヴのゴールデンヒッツ〜Due To Contract』(2011年)に収録された。
本作はインディーズレーベルからリリースされた電気グルーヴの1枚目のアルバム『662 BPM BY DG』(1990年)において「無能の人 (LESS THAN ZERO)」のタイトルで収録されていた楽曲であり、メジャーレーベルからリリースされた初のアルバム『FLASH PAPA』(1991年)に収録する案もあったが、当時のディレクターによる「これはいい曲だから、ココぞってときに出すジョーカーでとっておこう」という発案により収録が見送られた[2]。
その後4枚目のアルバム『VITAMIN』(1993年)制作時に同作がインストゥルメンタルを中心に構成されていたため、同アルバムの内容に危機感をもったレコード会社側が急遽本作をアルバムに収録することを提案、しかしそれに対し石野はすでに過去の曲であり青春ソングのような内容であったことから収録に反対、ピエール瀧は後に「周囲は『VITAMIN』のときがジョーカーを切るときだと思ってたんだけど、俺らはそれに反対だった」と述べている[2]。
アルバム制作時にメンバーは本作を収録する意図は全くなく、アルバム完成後に最終曲として収録する案をレコード会社側が提案、しかし当時の石野卓球は表現したい音に対するプランが明確に存在しており、そのプランとかけ離れた過去の曲を収録することに抵抗があったためレコード会社側と衝突することになった[2]。結果として本作はアルバム『VITAMIN』の最終曲として、曲間を空けた上でボーナス・トラックのような形で収録されることとなった[2]。瀧は後に当時のことを「ジョーカーを出さざるをえないほどの状況にあった」と述べている[2]。
トラックのコンセプトは、子門'z名義の「トランジスタラジオ」(1993年)に続いて“完全居酒屋対応チューン”として制作された。本曲はメジャーデビュー後もファンからのリメイクの要望が強く、石野もそれを望んではいたが、正統派ポップス歌謡的なその内容は『VITAMIN』制作時の同グループにとって目指していた方向性と正反対に位置する楽曲でもあった。
曲中の「We like the music, we like the disco sound, hey!!」と歌う声は、石野が敬愛するイギリスのユニットポップ・ウィル・イート・イットセルフのシングル「キャン・ユー・ディグ・イット」(1989年)の中からサンプリングしたものである。『662 BPM BY DG』制作時の電気グルーヴのスタイルは、サンプリングを売り物にしていたポップ・ウィル・イート・イットセルフの手法を参考に確立されたものであるが、ポップ・ウィル・イート・イットセルフは、元々ベル・エポックのシングル「ブラック・イズ・ブラック」(1977年)から同フレーズをサンプリングしているため[注釈 1]、電気グルーヴの引用は孫引きということになる。
アルバム『VITAMIN』への収録に当たり、打ち込みを砂原良徳が担当する形でトラックも新規に制作しリメイクされた。歌詞の内容は電気グルーヴの前身である人生が解散した当時の石野の心情を歌ったもので、一部歌詞を書き直している。歌詞中に「カーテンもないし」という一節が存在するが、当時の石野の自宅には実際にカーテンがなく、代わりにブルース・リーのポスターを窓に貼っていたと述べている[2]。また、リメイクした当時を振り返り石野は「その頃はもうカーテンもあったし」と述べている[2]。
石野が通学していた高校は校則が厳しかったため、当時落ち込んでいた石野にとって心の癒しであったのがイギリスのバンド「ニュー・オーダー」であった。そのため「ニュー・オーダー」の略である「N.O.」と「無」を意味する英語「NO」との掛詞として通称「N.O.」とされていた。しかし石野は後に意に添わぬ形でアルバムに収録されたことから本来のタイトルである「無能の人 (LESS THAN ZERO)」を使用せず、通称である「N.O.」として収録したことに対して後悔していると発言している[2]。また、セルフ・トリビュート・アルバム『The Last Supper』(2001年)収録時には「Nord Ost」(ドイツ語で北東)というタイトルが改めて付け加えられている。
石野はカラオケに行った際に人から依頼された場合は本作を歌唱すると述べており、本作歌唱時の肝は歌詞中の「学校ないし」の部分の導入部分で「んが!(っこうないし)」と歌唱することであると述べたほか、サビ部分に振り付けを付ければ「20〜30万枚は上乗せできたかもしれない」と笑いながらコメントしている[2]。
本作のシングル盤ジャケットは裏側にのみメンバーの顔写真が使用されており、折りたたまれた部分を広げることで表側の身体部分と顔が繋がって見える構成となっている。この身体部分はメンバーとは別人のものであり、シングルCDの棚から客が手に取って見たくなるような仕掛けが検討された結果、身体のみが写っているジャケットになったと瀧は述べている[3]。また瀧は縦長のジャケットはデザインが困難であり、イメージを表現することに苦心することも多かったと述べている[3]。さらに、本作のシングル盤より電気グルーヴのロゴが以前の「電気GROOVE」からスージー甘金がデザインした「電気グルーヴ」表記のロゴに変更された[3]。
本作のシングル盤はオリコンシングルチャートにおいて最高位第21位の登場回数12回で売り上げ枚数は13万枚となった[4]。本作のリリースに否定的であった石野であったが、ラジオ番組などで頻繁に放送されたことなどもあり、本作の売上に関しては「電気始まって以来のスマッシュヒット」になったと述べている[2]。またそれを受けて瀧は「いま振り返ると、結果オーライだった」と述べている[2]。
本作の売り上げ枚数は電気グルーヴのシングル売上ランキングにおいて第2位となっている[5]。また、「みんなのランキング」における投票結果では「おすすめ曲」として第1位に選定された[6]。
本作のミュージック・ビデオは、白い空間の中でメンバーが白色の衣装を着て演奏を行う内容となっている。監督は塩坂芳樹。瀧は、特殊メイクによりフランケンシュタインのコスプレをしてステージ上を徘徊するという動きを見せた。このビデオは後にミュージック・ビデオ集『電気グルーヴのゴールデンクリップス〜Stocktaking』(2011年)に収録されている[7]。
テレビ出演時に本作を披露する際、途中の歌パート以外に担当ポジションの無い瀧は様々なパフォーマンスを行っていた。1994年1月15日放送のテレビ東京系バラエティ番組『タモリの音楽は世界だ』(1990年 - 1996年)において「テクノ特集」でゲスト出演した際、本作披露時に瀧はおもちゃのギターを振り回していた。途中、勢い余って遠くに飛んでいき、慌てて拾いに行く姿も見られた。同年2月23日放送のフジテレビ系音楽番組『MJ -MUSIC JOURNAL-』(1992年 - 1994年)に出演した際、瀧はローランドのロゴのついたサンドバッグを殴ったり、数羽のニワトリを逃がして捕まえるというパフォーマンスを行っている。途中逃げ回ったニワトリが思ったよりもスタジオ中に散らばってしまい、瀧が画面からフェイドアウトする場面も見受けられた。さらに同年3月放送の日本テレビ系バラエティ番組『スーパージョッキー』(1983年 - 1999年)にゲスト出演した際、司会の細川ふみえが「今回は特別な楽器で演奏します」と発表したものの、実際は瀧が後ろで轆轤(ろくろ)を回転させた上で陶芸粘土で形を作っただけであった。演奏終了後、司会のビートたけしは「何をやっていたんでしょうか」と苦笑した。その他にも、わたあめを作る、ギターを振り回す、琵琶を弾く、おにぎりを握るなどの「演奏(パフォーマンス)」を行っている。瀧は後に当時のことを振り返り、「この曲でテレビに出るときは、やること何もないからロクロ回してたんだから。しかもリハまでやって」と述べている[2]。
その他、2015年12月14日放送のフジテレビ系バラエティ番組『SMAP×SMAP』(1996年 - 2016年)に電気グルーヴは初出演し、「N.O. 2016」と題した新バージョンでSMAPとともに歌唱を行った[8][9][10]。
ハドソンのスーパーファミコン用ソフト『桃太郎電鉄HAPPY』(1996年)では、ゲーム中に登場する「シードーム」でのコンサートイベントにおいて、電気グルーヴをモチーフにした「電グル」なるバンドが登場し、「MOMOOH」[注釈 2]と言う「N.O.」に似た曲が流れる。
同時収録の「N.O. (Ken Ishii Reproduction)」はケン・イシイとしては初のリミックス提供作品。このシングルが発売された当時、既にイシイはR&Sや+8といった当時のテクノ主力レーベルから作品を発表してはいたが、日本ではその情報がほとんど皆無に等しかった時代であり、石野も渡英した際に現地のテクノファンからその名を知らされた程であった。帰国後、すぐさまニッポン放送ラジオ番組『電気グルーヴのオールナイトニッポン』(1991年 - 1994年)においてイシイのアルバム『Garden On The Palm』の収録曲が放送された。イシイが日本居住者であることがわかるとすぐさま石野は接触を図り、本リミックスの制作が実現した。初対面の際には石野とイシイ、お互いの当時の恋人が同席して紹介しあったという。一部ノイズが入っているが、このリミックス制作当時、ギタリストの友人がケン・イシイ自宅スタジオを訪れた際に、ミキサーにギターをつなぎ全開で音を出して以降、ノイズが入るようになってしまったとのこと。
電気グルーヴのドキュメンタリー映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~』(2015年)のサウンドトラックとしてリリースされたコンピレーションアルバム『DENKI GROOVE THE MOVIE? -THE MUSIC SELECTION-』では、新録バージョンが収録されている[11]。
| 全作詞: 石野卓球。 | ||||
| # | タイトル | 作曲 | リミックス | 時間 |
|---|---|---|---|---|
| 1. | 「N.O.」 | 石野卓球 | ||
| 2. | 「4U Rack And Roll」 | 砂原良徳、石野卓球 | ||
| 3. | 「N.O.」(Ken Ishii Reproduction) | 石野卓球 | Ken Ishii | |
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合計時間:
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 22:41 UTC 版)
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2017年8月)
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| NO. | |
|---|---|
| ジャンル | 音楽番組 |
| 出演者 | 日替わり |
| ナレーター | 村上遙 |
| 国・地域 | |
| 言語 | 主に |
| 製作 | |
| 制作 | テレビ朝日 |
| 放送 | |
| 放送チャンネル | テレビ朝日 |
| 音声形式 | ステレオ放送 |
| 放送国・地域 | |
| 放送期間 | 1993年4月5日 - 1999年9月24日[1] |
| 放送時間 | 平日 20:54~20:56 |
| 放送分 | 2分 |
『NO.』(エヌオー)は、テレビ朝日系列で1993年4月5日から1999年9月24日[1]まで、平日に放送されていた音楽番組・ミニ番組である。
※特記のない場合は、通常のビデオクリップ放送を指す。
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この節の加筆が望まれています。
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この節の加筆が望まれています。
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| 放送対象地域 | 放送局 | 放送日時 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 関東広域圏 | テレビ朝日(EX)【制作局】 | 平日 20:54 - 20:56 | |
| 北海道 | 北海道テレビ放送(HTB) | 平日 18:58 - 19:00 | [5] |
| 香川県・岡山県 | 瀬戸内海放送(KSB) | 平日 18:57 - 18:59 | [6] |
| 関西広域圏 | 朝日放送(ABC) | 毎週月曜~木曜 24:25 - 24:30 金曜 24:20 - 24:25 | [7] |
| 熊本県 | 熊本朝日放送(KAB) | 不明 | |
| 大分県 | 大分朝日放送(OAB) | 平日 18:57 - 18:59 | |
| 石川県 | 北陸朝日放送(HAB) | 平日 18:58 - 19:00 |
| テレビ朝日 平日20:54 - 20:56枠 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
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夢の楽園
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NO.
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M's
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 15:08 UTC 版)
No. は、番号を示す数字の前に置かれる記号であり、英語では numero sign と呼ぶ。日本語では「ナンバー(英語: number)」と読まれる。番号記号の # と意味はほぼ同じで、たとえば「No. 5」なら5番の意である。番号を意味する語の省略形 no. の最初の文字を大文字とし記号化された。
元々ラテン語で「数えると」という意味の numero(numerus の単数奪格)の最初と最後の文字を取って no. となった。ロマンス語圏では、各国語で相当する語(スペイン語: número、ポルトガル語: número、フランス語: numéro、イタリア語: numero など)の略とも解釈される。英語でも number の省略形は no. である[1]。
No の「o」を上部に書く(No)、「o」の下にアンダーバーを引く(No、No)、「o」でなく「°」を使用する (N°)など、いろいろな表記があるが、共通して同じ意味である。
スペイン語では記号というより、単に número(番号)という単語の省略形である。スペイン語で単語を省略形にする時には、末尾の何文字かを下線付きの上付き小文字で表記する(voladitas と呼ぶ)。したがって número を省略形にすると単数ならば no、複数ならば nos となる。同様な省略形として、たとえば Fco は Francisco(人名)、Ma は María(人名)の省略形である。
否定詞の no と紛らわしいため、No. という表記はしない。
フランス語では numéro(番号)という単語とほぼ対応しており、表記法は様々である(No. · no. · No · no など)。複数形では s がつき nos などとなる。
英語・イタリア語・スペイン語などとは違って、フランス語には no という単語はないため、混乱することはない。
キリル文字には「N」という字はないのだが、ロシア語では記号として「№」が使われており、コンピュータやタイプライタのキーボードにもこの記号がある(数字の3と同じキー・JISキーボードでは#の位置)。ロシア語ではこの記号を「Знак номера」と呼ぶ。
この表記を使わない言語もある。ドイツ語では、代わりに Nr.(独: Nummer の省略形)が使われる。
Unicodeにはこの記号が文字様記号ブロックに U+2116 として収録されている。コードチャートのグリフは「№」となっている(ただしこのグリフに強制力はない)。
しかしこの文字は、レガシー標準との互換性のために導入された互換文字であり、互換性維持以外の目的での使用は推奨されない。分解マッピングは「<compat> 004E 006F」(004E = N、006F = o)なので、「No」と(必要ならばこれにマークアップを施して)書くことが推奨される。
キリル文字や東アジアの文字集合にはこの文字が含まれているものもある。たとえば、JIS X 0208(JIS第1・第2水準)には含まれていないが、JIS X 0213(JIS第3・第4水準)には含まれている。
8ビット文字集合では、「No」のほか、「N°」(2文字目が度記号)[2]、「No.」(最後にピリオド)、「Nº」(2文字目が序数標識)などとも書かれる。
| 記号 | Unicode | JIS X 0213 | 文字参照 | 名称 |
|---|---|---|---|---|
| № | U+2116 |
1-13-66 |
№№ |
(NO から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/05 13:51 UTC 版)
| No, No, Nanette ノー・ノー・ナネット |
|
|---|---|
| 作曲 | ヴィンセント・ユーマンス |
| 作詞 | アーヴィング・シーザー オットー・ハーバック |
| 脚本 | オット・ハーバック フランク・マンデル 1971年版: バート・シュヴェラヴ |
| 原作 | エミル・ナイトレイおよびフランク・マンデルによる戯曲『My Lady Friends』 |
| 上演 | 1925年: ウェスト・エンド 1925年: ブロードウェイ 1971年: ブロードウェイ再演 |
| 受賞 | ドラマ・デスク・アワード脚本賞 |
『ノー・ノー・ナネット』(またはノウ・ノウ・ナネットなどとも、英語: No, No, Nanette)は、1925年のアメリカ合衆国のミュージカル・コメディ作品。作詞家アーヴィング・シーザー、オットー・ハーバックとポピュラー音楽の作曲家ヴィンセント・ユーマンスが合作した。1919年のフランク・マンデルによるブロードウェイの演劇作品『My Lady Friends』を基に、オットー・ハーバックとマンデルが脚本を執筆した。
マンハッタンに住む若く明るい相続人が婚約者を置いて週末に羽目を外そうとアトランティックシティのコテージに行き、そこで3組のカップルがトラブルに巻き込まれる。使用楽曲「二人でお茶を」、「I Want to Be Happy」がヒットした。
1924年、ブロードウェイ公演前のツアー公演がシカゴで開催されて成功し、1年以上上演が続けられた。翌年ブロードウェイで321回、ウェスト・エンドで665回上演されたのち、数度にわたって映画化および再演された。バート・シェヴラヴの脚本による1971年のブロードウェイ再演版が人気となり、当時学校演劇や地方劇団で度々上演された。
野球のボストン・レッドソックスのスーパースターであったベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースに売却した資金で本作が制作され、バンビーノの呪いとなったというよく知られるジンクスがある[1]。これは誤りで、原作の『My Lady Friends』がその作品である。
1924年、ブロードウェイ公演前のツアー公演では成功しなかった。シカゴでの上演の際、プロデューサーのハリー・フレイジーは出演者の見直しをはかり、脚本を改訂し、作曲家のユーマンスと作詞家のシーザーに曲の追加を依頼した[2]。追加の楽曲である「二人でお茶を」、「I Want to Be Happy」はヒット曲となった。シカゴ公演は成功し、1年間上演が続いた[3]。フレイジーはこの公演に多額の出資をしたが、ブロードウェイ進出はそれほど重要視していなかった。1925年3月11日、ウェスト・エンドにあるパレス・シアターにおいて、ビニー・ヘイル、ジョセフ・コイン、ジョージ・グロスミス・ジュニアが主演してロンドン公演が開幕し、665回上演された。ロンドン公演ではアメリカ公演では使用されなかった「I've Confessed to the Breeze」、「Take a Little One-Step」が使用された[4]。1925年9月16日、グローブ・シアターにてルイーズ・グルーディ、チャールズ・ウィニンガーが主演してブロードウェイが開幕し、321回上演された。ブロードウェイ公演開幕時、3つのプロダクションが全米ツアー公演が巡業していた[5][6]。
その後10年で様々な言語に翻訳され、地方の劇団、全米ツアー公演、海外公演などでも成功をおさめた[6]。1930年、『浮気成金』、1940年、『ノー・ノー・ナネット』と映画化され、その両方にザス・ピッツが出演した。1950年の映画『二人でお茶を』は本作を大まかに基にした作品であった。ドリス・デイ、ゴードン・マクレイ、イヴ・アーデン、ビリー・デウルフが主演した。なおアーデンは1940年版映画にも出演していた。その後数十年、本作の上演は徐々に減っていった[5][6]。
1971年のブロードウェイ再演がハリー・リグビーによりプロデュースされ、バート・シェヴラヴは1925年のオリジナル版から大幅に改訂した脚本を執筆した。1925年当時、オリジナル版は卑猥とされており、シェヴラヴはノスタルジックな視点で1920年代の無邪気さを描いた[6]。シェヴラヴは大幅な改訂を加えたが、楽曲は少々のカットや改変はあったもののほぼ完全な形で残された[7][8][9]。ベテラン映画スターのルビー・キーラー、およびヘレン・ギャラガー、ボビー・ヴァン、ジャック・ギルフォード、パッツィ・ケリー、スーザン・ワトソンが出演した。若かりしエド・ディクソンがアンサンブルで出演していた。バスビー・バークレーはキャリアのほぼ終盤で監督として名を連ねていたが、のちに出演者やスタッフが語ったところよると名を冠しただけであった[10][11]。多くの大がかりなダンス・シーケンスのため、引退していたキーラーがこの公演のために復帰し、「I Want to Be Happy」、「Take a Little One-Step」のエネルギッシュなタップダンスで称賛された[12]。リグビーは同僚のプロデューサーのサイマ・ルビンと不仲であり、ルビンはリグビーとの契約を解消し、共同プロデューサーとしての名を削除したが、関係者らはリグビーが公演の成功に貢献したと主張した。のちにリグビーはルビンから$300,000の和解金を受け入れた[13]。
1971年版は好評で、861回上演された[8]。1920年代から1930年代の類似したミュージカルの再演への関心に繋がった[14]。衣装デザインのラウル・ペネ・デュボア、振付のドナルド・サドラー、主演女優のヘレン・ギャラガーがトニー賞およびドラマ・デスク・アワードを受賞した。パッツィ・ケリーがトニー賞助演女優賞を受賞し、シェヴラヴはドラマ・デスク・アワード脚本賞を受賞した。1973年、ロンドン公演が開幕し、アンナ・ニーグル、アン・ロジャース、トニー・ブリットン、テディ・グリーンが主演した。その後、ツアー公演や海外プロダクションの上演も行なわれた。1971年版の上演権は取得可能で、1920年代に初演されたミュージカル作品で最も頻繁に上演される作品となった[5][6]。
2008年5月、ニューヨーク・シティ・センターで開催された『Encores!』で新たなプロダクションが上演された。ウォルター・ボビーが演出、ランディ・スキナーが振付を担当し、サンディ・ダンカン、ベス・リーヴェル、ロージー・オドネルが主演した[15]。
初演から数年後、ボストン・レッドソックスの元オーナーで本作プロデューサーのハリー・フレイジーが野球界のスーパースターであったベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースへ売却した資金で本作を制作したという噂が広がった。1918年から2004年までレッドソックスはワールドシリーズで優勝することができず、バンビーノの呪いというジンクスが広がった[1][16]。ルースの売却は本作上演の5年前であり、1990年代、バンビーノの呪いは一部誤りであると認められた[1]。2006年、リー・モンヴィルは著書『The Big Bam: The Life and Times of Babe Ruth』のための調査において、本作は1919年12月にブロードウェイで開幕したストレートプレイの『My Lady Friends』を原作としているとされた。実際、ルースを売却した資金は『My Lady Friends』に使用された[17][18]。
1971年の改訂版に基づく
大富豪の聖書出版者ジミー・スミスは過度な倹約家のスーと結婚している。ジミーは大金を自由に使え、人々が喜ぶために浪費することを好み、ボストンのベティ、DCのウィニー、サンフランシスコのフローラという3人の美女にプラトニックに支援している。スーの親友ルシルはジミーの友人で弁護士のビリー・アーリーと結婚している。ルシルは浪費家でビリーの稼ぎを存分に使うことを喜びとしている。ジミーとスーはナネットの後見人としてナネットが立派なレディになってほしいと願う。ニューヨークにあるジミーとスーの自宅には多くの若い男性たちがナネットに会いにやってくる。ルシルは若者たちに、多くの遊び相手よりも1人の恋人を持つことが大事と語る(Too Many Rings Around Rosie)。ビリーの甥で助手のトム・トレイナーはナネットに愛を告げ、ナネットはトムの気持ちに応える(I've Confessed to the Breeze)。トムはすぐにでも結婚して落ち着きたいが、ナネットはまだ独身生活を楽しみたい。
ジミーの女友達たちはジミーをゆすろうとし、ジミーは女性たちの存在をスーに知られることを恐れ、女性たちが自分の目の前からいなくなるようにビリーに法的支援を乞う。ビリーはジミーにフィラデルフィア州に避難することを提案する。ジミーに内緒で、ビリーはアトランティックシティにあるジミーの別荘チカディ・コテージにトムを連れて3人の女性と会おうとする(Call of the Sea)。スーとルシルは夫たちが仕事でいないことをいいことに、コテージで休暇を過ごすことにする。
ナネットは友人たちとアトランティックシティに行きたいが、スーに止められる。ジミーはナネットを喜ばせるため$200を与え、内緒でコテージに行くことに同意し、気難しい料理人のポーリンにナネットのお目付け役を頼む(I Want to Be Happy)。ナネットは周囲の人々、特にトムが自分の行動をコントロールしようとすることに疲れており、非日常的な楽しみを夢見る(No No Nanette)。トムをからかうため、$200を見せつつ入手の経緯を教えない。トムは怒って別れを告げ、ナネットはニュージャージー州トレントンにいる祖母に会いに行くと嘘をついてアトランティックシティに向かう(Finaletto Act I)。
ナネットはアトランティックシティに到着し、すぐにビーチで何人もの男性たちから声をかけられる(Peach on the Beach)。その頃ジミーは3人の女友達から古い約束をつきつけられる(The Three Happies)。トムとナネットは会って仲直りし、幸せな結婚生活を思い描く(Tea for Two)。ルシルとビリーは偶然会い、いるはずのないビリーがアトランティックシティにいるためルシルは驚き、自分がいる前であれば他の女性といても構わないと語り、夜遅くに共にコテージに帰る(You Can Dance with Any Girl At All)。
スーはアトランティックシティでナネットを見つけて驚く。ナネットはトレントンの祖母に会いに行くだけと嘘をついたが、スーはナネットの存命の祖母はネブラスカ州オマハにいるのみと知っており嘘を見抜く。ナネットはアトランティックシティに滞在すると認める。嫌がるナネットをよそに、スーはナネットをポーリンと共にニューヨークに帰そうとする。スーはビリーが女性たちに話すのを耳にし、浮気していると思い込み、ルシルに話す。ジミーの秘密を守るビリーは否定できず、ルシルは離婚すると語る。一方トムはナネットの行動にショックを受け、別れを決める。ジミーは自分が問題の元凶であるということを忘れている(Finaletto Act II)。
ビリーはルシルに電話するが、ルシルは出ない。フローラ、ウィニー、ベティはビリーを誘惑する(Telephone Girlie)。ルシルは1人になり、ビリーがいないと寂しいことに気付き、何をしても楽しめない(Where-Has-My-Hubby-Gone Blues)。ルシルは自分がビリーの稼ぎを全て使っているため、ビリーが3人もの女性たちを支援する余裕がないことに気付き、徐々に真実が明らかになる。ジミーは女性たちに金銭を支払い出て行ってもらう。ビリーはこれまでルシルを騙したことはなく、ジミーは女性たちを本当にプラトニックに支援していただけだと明かされる。
ナネットとポーリンはニューヨーク行きの汽車に乗れずにコテージに戻り、トムとナネットは仲直りする。しかしトムは落ち着きたい、ナネットはシングルを謳歌したいという価値観の違いが残されている。トムは豪華な婚約指輪を作っており、ナネットは心変わりして今すぐに結婚しようと主張する(Waiting for You)。スーとルシルはジミーが二度と他の女性と関わらないように、スーがジミーの資産を全て使おうとする。ティー・ダンスが開催され、洒落た装いをしたジミーをスーは惚れ直す(Take a Little One-Step; Finale)。
第1幕
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第2幕
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第3幕
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第1幕
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第2幕
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第3幕
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 10:04 UTC 版)
「シャロン・ロックハート」の記事における「NO(2003)」の解説
2003年、ロックハートは再度日本に滞在し、地元の農家と一連の作品を制作した。「農の生け花」から着想を得たこの作品では、干し草で畑を覆う2人の農家を描いている。映像全体を通して、彼らは徐々に固定フレームカメラに近づき、最終的には干し草で覆われた農地の奥に戻る。 このプロジェクトには、No-No Ikebanaシリーズの写真作品も含まれる。アーティストは31日間にわたって日本の生け花の芸術に従って配置された植物のライフサイクルを撮影した。
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